(37)
そして、保憲である。
彼は事務所で、これ以上ないほど落ち込む百々目にただ付き添っていた。
力なく椅子へ身を預ける若き警部補に掛ける言葉もないまま、保憲は机越しの向かいにただ座す。青空を透かす窓辺で、出始めの蛾がバタバタと羽音を立てている以外、ただ沈黙に包まれていた。
「……帰って良いのだぞ」
やがて、百々目がボソリと呟いた。
「事件は終わった。もう我々にできる事は何もない。責任に巻き込まれたくはないだろう」
「いえ――」
保憲は答える。
「真相の解明がまだです。未だ疑問は多く残っています。動機は? とし子の事件と友吉の事件、同夜に起こったふたつの事件を、彼はどのように行ったのか」
「犯人は死んだのだ。調べようがない」
百々目はすっかり投げやりになっている。まあ無理もないが……と、保憲はだが敢えて厳しい口調で
「指揮官が投げ出したら、組織は崩壊します。あなたは投げ出して良いお立場なのですか」
「…………」
「臣民を投げ出したら、国は滅びますよ」
「私はそういう立場ではない! ……放っておいてくれ」
「そうはいきません。これでも、財産の安寧を約束されている身ですから。臣下として、それなりに陛下のお役に立たねばなりません。何と言われましても、殿下のお供をいたします」
すると
「君にもそういう気持ちはあるのかね」
「いけませんか」
白々しく言い放つ保憲に、百々目は呆れた目を向けた。
「好きにすればいい。だが、殿下と呼ぶ事だけは許さない」
しかしこの直後、
十時を回り、川上家と田中家で、それぞれとし子と友吉の葬儀が始まった頃。
「あら、二人して冴えない顔を突き合わせてどうしたの?」
事務所に顔を出したのは蘆屋いすゞである。
「紅茶を持ってきてくれたのかね」
保憲が尋ねると、いすゞはポンと手を打ち、
「ごめんなさい先生、すっかり忘れてました」
と宣った。ガッカリする保憲に、だが彼女はニヤリとした。
「でも今日は、珍しいお客さんを連れて来たんですよ」
「お客さん?」
その人物は既に、集会所の滋の遺体に駆け寄り、まるで舐め回すように眺めていた。
「これは他殺だな」
そう呟いた彼を見た百々目が声を上げる。
「
冗談みたいな名前のこの人物は、本当は「大骨」という名ではない。本名は
この人物こそ、老仏温泉の十五の白骨の正体を見立てた、帝東大学の医学博士である。
この当時の日本に於いての法医学の権威でもある。百々目とも、彼が警視庁時代に事件を通して何度も顔を合わせていた。
そして彼は、増岡編集長に「変態」と称される、相当の変わり者でもあった。生きている人間よりも死体の方が正直であると宣い、検死だけでは食っていけないから、仕方なく生きている人間も診ていると言い張るほどだ。
そして、なぜこの日、彼が十三塚村に現れたかというと、そこにも増岡編集長が関わってくる。
紀ノ屋で暇を持て余していたいすゞの元に、編集長から電話があったのだ。
「電報の返事がないから、どうしたのかと思ったよ」
「ちゃんと仕事はしてますよ」
保憲にほっぽらかしにされているのに少々不服を覚えていたいすゞは、事件の捜査状況を知っている限り伝えた。
「……まだ犯人は逮捕されていないですけどね」
「そうか、それは残念だ。……と、君にわざわざ電話をしたのは、君の仕事ぶりを信用していない訳ではないのだ」
増岡編集長は説明する。白骨の鑑定をした医学博士が、編集部が調査していると知り、白骨の正体は分かったのかと矢の催促をしてくるので困っていると。
「『大骨』と名乗るだけあって、何より骨、それも変わった骨を見るのが大好きなのだそうだ。白骨の持ち主は軽業芸人かもしれないと伝えたら、軽業師の骨に興味がある、あの体の柔らかさを生み出す骨は常人と違うのか、もう一度よく観察したいと言い出してね」
「それでしたら、こちらのお寺に安置されてますよ」
「それならそう伝えてみるよ」
……と電話を終えて間もなく、
「イマカライク」
と、帝東大学から電報が届いたのである……。
そしてこの日も、来るなり嬉々として滋の死体に張り付き、ブツブツと観察しているのである。
「まだ新しいな。半日ほどか」
「それよりも!」
百々は博士の肩を掴んで前後に揺する。
「先程、何と仰られましたか?」
「ん? 他殺だと言ったが?」
「他殺――!」
百々目は目を剥いた。
「自殺ではないのですか!」
「ああやはり、自殺に見せかけてあったのか。まあ、素人が見ても分からんだろうがな……ここを見たまえ」
と、大骨博士は滋の首元を示す。
「
それはほとんど重なり、見分けが付かないほどのものだ。
「つまり、一度首を絞めて意識を混沌させてから、仏さんを吊るしている。仏さんの首の肉が厚いから、縄が引っかかって痕がズレたんだな。でなければ、自殺偽装は完全に成功しただろう」
百々目は絶句した。
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