【弐】遺言
(5)
――四月十七日。
荻島参太郎は、午前十時きっかりにやって来た。
ウールの三つ揃いに中折れ帽という英国紳士スタイルは、英国好みの保憲にとって好感度が高かった。
とはいえ、話の内容は、紅茶の味を不味くする程度に神経を使うものであったのは、言うまでもない。忠行から回される話は、そんな案件ばかりなのだ。
「……現会長である、
物腰の柔らかい言葉遣いとはいえ、保憲は話の内容に、相手に見咎められない程度に眉を上げた。向いている向いていないのではなく、面倒だから弟に押し付けているだけだ。
だが、保憲も子供ではない。相手の態度に合わせ、少々気取った動作でティーカップをテーブルに戻す。
「遺言と申しますと?」
「半清嗣氏は、今年七十二になる高齢でして。自らの意志が言葉にできるうちにと、当方に遺言状の作成を依頼されました。まぁ、昨年の震災もあるのでしょう。人間、天災の前には吹けば飛ぶような存在ですからな。それで、その遺言の内容というのが、少々変わっていまして」
そこまで言うと、荻島弁護士は深々と溜息を吐いた。
「お家騒動に発展するに違いないから、考え直されるよう、何度もご提言したのですが、頑として聞き入れていただけず……」
土御門邸の応接間である。古風ではあるが手入れの行き届いた調度品に囲まれたソファーで、二人は黒檀のテーブルを挟んで向き合っていた。
さすが大会社の顧問弁護士となる人物だけあり、荻島は子爵邸という場にも物怖じせず、だが言葉も態度も気遣いに
そんな彼の一挙一動をそれとなく観察しながら、保憲は話を促した。
「その遺言というのは、どのように変わっているのですか?」
荻島弁護士はもう一呼吸してから、
「――ご子息には財産を譲らず、見ず知らずの行方も知れぬ男に譲ろうとされているのです」
保憲は眉をひそめた。
「それはそれは……」
半製糸工業と言えば、業界を率いる名声を誇る大企業。その資産も桁外れなものだろう。それを考えれば、血で血を洗う内紛が起きてもおかしくない内容だ。
ここで、半清嗣氏とその一族について説明するとしよう。
そもそも半家というのは、十三塚村の平家の落人のうち、大将格の人物の子孫である。本来は『
そのため、千年前からの因習の残るこの村では、今でも最有力者の家柄なのだ。
そして、先述した通り、半製糸工業の創始者の半
ならば清輔氏に他に跡継ぎがいなかったのかと言えば、そうではない。今から五十年ほど前に、謎の失踪を遂げたのである。
更に同時期に、当の清輔氏も急逝してしまい、遺言に従い、庶子であり、専務を任せられていた清嗣氏が事業を継いだ。
――実はこの時、清嗣氏に関してあらぬ噂が立ったのだが、この時荻島弁護士はそれを保憲に言わなかった。それは後ほど、これから起こる一連の事件の解決の鍵となるのだが、また後ほど説明するとしよう。
さて、その清嗣氏には、二人の息子がいる。兄の
どちらも清嗣氏の妻である三枝子との子だ。ただ彼女は、息子たちがまだ幼い頃に鬼籍に入っている。だが清嗣氏は、取引先の息女である亡き妻に節操を捧げた
母のない二人の息子には、それぞれ乳母をつけた。村の有力者である家庭から、適当な世話人を呼び寄せたのだ。
兄の滋には、『お
弟の聡には、『
――『お頭』『太刀持ち』という呼び名は、これまた落人当時の役職である。これも、追い追い説明していこうと思う。
そして、当の乳母二人も、大正十三年のこの時には、既にこの世を去っている事を付け加えておく。
ともあれ、それがために、同じ父母を持つ兄弟でありながら、互いにいがみ合う関係となってしまったのだ。
兄の滋は跡継ぎとして、川上信乃によって下にも置かないほど世話を焼かれて育てられた。元々の性質もあるだろうが、そのため、全て他人任せなのほほんとした青年になった。
一方弟の聡は、兄を蹴落とし跡継ぎとすべく、田中フジ子により、才覚を見出す教育がなされた。事あるごとに兄の悪口を吹き込まれ、気が付けば、周囲、特に兄を見下す傲慢な青年に育った。
それぞれの乳母が、自分たちの家の立場を良くしようと、自分の都合に合った育て方をしたためである。
さて、いざ息子たちに事業の一部を任せようとなった時、これでは協力のしようがない。
仕方なく、清嗣氏は兄・滋に前橋の本社を任せ、弟・聡には東京銀座の営業本部を任せた。
実際、滋は経営を妻の
逆に聡は、実績を着実に積み重ね、その実力を示していた。だがやり方が強引すぎると、清嗣氏に
一方、清嗣氏自身は一線を退き、十三塚村でかつての養蚕研究所の世話をしながら、だが経営の全権は握ったままであった。
「……で、この度の遺言であります」
荻島弁護士は額に浮かぶ汗――恐らく冷や汗であろう――をハンカチで拭い、身震いするように肩を竦めた。
「そんなご兄弟ですから、清嗣翁が信用なさらないのも無理はないのですが、かといって、突然聞いた事もないような人物に、経営と財産の全てを譲るというのは、とてもお二人に納得していただく事はできません」
「その遺言は、既にご兄弟の耳に?」
「いや、署名入りの原本を、帝京銀行の貸金庫にて、厳重に預かっております。
「…………」
腑に落ちない案件だと、保憲は思った。この初老の弁護士が頭を悩ませるのも無理はない。
しばらく考えた後、保憲はふと顔を上げた。
「それで、貴殿が私に依頼をされたい内容とは?」
すると荻島弁護士は、上着の内ポケットから一枚の写真を取り出した。
――それは、白黒で印刷された、軍服姿の逞しい顔立ちの若者を写したものである。
「その人……名前も分からないそうなんですがね、彼か、もしくはその血縁にある者を探していただきたいのです」
「この人が、まさか……」
目を見開く保憲に、荻島弁護士は深く頷いた。
「清嗣翁が指名された、財産相続人であります」
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