【第二十二】鳥歌合由緒の事
さほど遠い昔のことではない。
難波津にひとりの翁がいた。人里から離れ、深い
この地は、かつてミカドが宮を遷した土地であったが、いまは深い藪と葦に埋もれ、もうその影すらない。平安の頃にはこの葦を大量に曳き船に乗せて淀川を遡上し、都の湿地の宅地造成に使用したという。
秋が過ぎる頃にはその葦も枯れ、色が失われていくさまはいっそうもの悲しい。
それでも翁は「もはやわたしは世に役立つような身でもない。ならば、誰にも気を遣わず暮らせる場所が心安くてよい」とこの地に
だが、なにも「心安さ」ばかりでこの場所を死地と定めたわけではない。 寂れたとはいえ、心魅かれる風情がこの地にはいまだ其処かしこに遺されており、それはまた翁が若い頃より憧れていた風情であった。
なにより翁が愛でたのが春の難波津だった。立春の朝には、海の向うに淡路島が霞んで見え、麗らかな陽射のなか、枯草にまぎれて芽吹いた葦の緑が心を
春風がさや吹くと霞もわずかばかり晴れる。そうなれば、
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庵を囲む葦垣の近くに、わずかばかりの清水を流した小川があって、その岸根に一本の梅が枝を伸ばしていた。その梅の蕾が開く頃だった。翁がひとり梅の香りを愉しんでいると、葦垣の陰から「ヒト来ルヒト来ル」と厭わしげな啼き声が聞えて来た。覗いてみると、
小さき者への傲慢な哀れみからの行為であったかも知れない。それでも、珍しい客人を迎えた歓びで、心がわずかに浮き立つのを感じた。じぶんが如何に人恋しく思っていたかを知った。
翁は小さな客人を丁重にもてなした。傷を手当てし、寝床を
さいわいキズそのものは大したことはなく、二月十五日の
その頃には傷もすっかり癒えていたが、ウグイスは翁を親のように慕うようになっていて、その目の届かぬ所へは決して飛んでいこうとはしなかった。翁は敬愛する
季節は移ろい、
堀江の水嵩が増すと、漕ぎ行く舟も葦原のなかで迷うことがある。生茂る草叢を眠れぬままに見渡せば、繁みの陰を飛ぶホタルや、枯葉を燻らせる
稲田からはカエルたちの呼びあう声が聞こえ、幼い黄鶯を怯えさせた。
「なに、あれはカエルの声よ」怯える黄鶯に微笑みながら翁は云った。「古来より
それでも黄鶯は不安を隠せず、つぶらな瞳で翁をじっと
「カエルどもの逢引の歌を聞いて、歌が生業の其方がそのようでは困る」と翁は説き聞かせ、こんな話をした。
「近頃、東山に暮らす翁が、池に棲むカエルを判者と定め、アマガエルやカジカガエルどもを左右に分けて、互いに歌の良し悪しを評しあったという。その身を引き替えるなどと、時に卑下のコトバを詠み入れたりしてな… 美しき
黄鶯は黙って翁を凝視めていた。
七夕の夜になった。砂子をまぶした星空がとても美しい夜だった。
翁は篠竹の穂を軒に掲げながら侘しげに語った。
「こんな日は誰かと連れだって船を出し、下手クソな歌でも連ねて七夕の姫に
すると黄鶯が翁の肩に飛び乗り、あどけない口振りでいった。
「
「そうかそうか… 其方も歌を詠むか…」と翁はしみじみ悦び、「なに、難しいことはない。見たもの聞いたもの、それを心にとおして思うまま読めばよいのだ」と語り、手本として歌を一首詠んでみせた。
立つせにおふた
その年の十五夜の月は見事だった。男山の峰から上った月はその光を二千里の彼方に放ち、明け方近くに波間を分けて沈む時になっても猶、その影を淡路島や瀬戸の波頭に残していた。いつもの十五夜であれば、都の月が懐かしく思われるのだが、この夜は三十一文字から歌のいろはを黄鶯に教えるのが愉快で、寂しさを感じる暇もなく時が過ぎた。
秋が深まると朝霧を透して見える釣舟が殊更にもの悲しくなる。寒さを知らせる夜風の音や、戸を打つ音も枕近くに聞こえて来る。外山の里に
こんな時に有難いのが、詠んだ歌を直に聞いてくれる友の存在だ。もはや、いまさら上達する齢でもないが、腰折れ歌でも素直に感心して聞いてくれる黄鶯は、翁には理想的な弟子であり、歌の聞き手だった。
木枯らしの吹く頃になると、「難波の春は夢なれや」と詠まずにおれなかった西行の気持ちがよくわかる。葦も枯れるほど夜風は凄まじく、夜明けの入江にはチドリの悲痛な声が響き渡る。初霜の下りる頃になると汀には薄氷が張り、潮の満ちる朝の渚の影は長く、沈む夕日の影は薄くなる。いつしか夜風が音を立てて葦の繁みを押しのけ、淡路島、住吉の岸、
翁が倒れたのはそんな年の瀬の雪の日だった。
朝から冷たい風が吹いていた。起きしなから顔が重だるく、舌が思うように回らなかったが、それは寒さのせいだと考えた。
「父様、桜ジャ、桜ガ舞ッテオル!」
「なんじゃ? 其方は、雪を見るのははじめてかえ?」
生まれてはじめて見る雪に誘われた黄鶯が、濡れ縁へ跳ねでるのを追いかけようと翁は腰を上げた。立ち上がった途端、翁はぐらりと傾き、左肩を砂壁に強く打ち当てた。そして右肩を巻き込むよう、受け身も取らずに横向きに崩れ落ちた。
驚いた黄鶯は狭い庵の中を飛び回り、三度壁に当たって吾に返った。それから「ヒト来ルヒト来ル」と啼きながら、翁の頭や体を
翁は「心配するな」と諫めようとしたが、口からは呻き声しか漏れて来ず、指一本も動かない。黄鶯は翁の傍らと縁側を忙しなく往き来しはじめ、やがて表へ飛び出して行ってしまった。
独り取り残された翁は、急に心細くなり、身の底からはこれまで感じたことのない
——死とはかくも味気なく訪れるものか?
すると、庭先から黄鶯の声が聞えて来た。「諸大乗経中もっとも高遠」とされる五文字の妙法——
「妙法蓮華経」——
「妙法蓮華経」——
「妙法蓮華経」——
「妙法蓮華経」——
「妙法蓮華経」——
「妙法蓮華経」——
「妙法蓮華経」——
「妙法蓮華経」——
雪の花びらの舞うなか、黄鶯は梅の枝先に止り、助けを呼んでいたのだ。
翁はこの時ほど誰かを愛おしく感じたことはなかった。
日が傾き、雪が止んでも、黄鶯の悲痛な読経はつづいた。そして雲間から顔を出した月の光が、降り積もった雪の上に梅木の青い影を刻む頃、時外れのウグイスの声に導かれた者がいた。
雲間から差す月明かりと黄鶯の声を頼りに、僧が枯れ草を押しのけてすすむと、葦垣に囲まれた梅木と庵があった。枝先では一羽のウグイスが震えながら啼いている。枝に掛かった雪片が月光にきらめいている。啼き渡るウグイスの姿に、旅の僧は「疎影横斜水清浅」(梅の影が清水に映り——云々)の景色を見た。
ウグイスは僧の姿を認めると、枝を飛び立ち庵へと招じ入れた。
旅の僧は庵のなかで倒れている翁を見つけると、夜具で翁を
生駒の山影が払暁の空に黒く浮かび上がってくると、僧は人手を呼びに里へと走った。
数刻が経ち、東の空がすっかり白んだ頃になって、旅の僧は里から七、八人の百姓を従えて戻って来た。そして庵の戸板を外し、それに翁を夜具ごと乗せて連れ去った。
それきり翁が戻ることはなかった。
ヒトの住まなくなった庵は屋根が抜け、軒が落ち、鳥辺野の
時々、風に乗ってあの五文字が、里に届いた。
「妙法蓮華経」——
「妙法蓮華経」——
「妙法蓮華経」——
「妙法蓮華経」——
里の多くの者はそれをなにかの霊験だと思い合掌して有難がったという。
数年が経ったある日、梅の木を訪れた者があった。あの旅の僧だ。
翁は里に運ばれる途次の戸板のうえで、旅の僧に語りつづけた、思うように回らぬ舌で… そのコトバのほとんどは聴き取れなかったが、ただ「ウグイス」についてなにか伝えようとしていることだけは見て取れた。その時、僧の頭に浮かんだのは、あの枝先で「妙法蓮華経」の五字を唱えていたウグイスの姿だった。
以来、旅の僧はあの風景を忘れたことがなかった。翁となにか約したわけではないが、ふたたび難波津の梅の根方に立った時、ここへ戻ったのは、たしかに翁との約定のためだと感ぜられた。
それはちょうど灌仏会のこと——梅の枝は葉を繁らせ、若い青枝が無数に、延喜帝の女三の宮・
白い月が東の空に昇る頃、一羽のウグイスがいずこともなく現れ、枝に止まった。僧の胸は高鳴った。思わず立ち上がろうとしたその時、なにとも知れず二十三十の羽音が四方からして、梅の小枝や葦垣、草叢、清水の流れる小川へと、さまざまなトリたちが舞い降りて来た。
僧は咳払いひとつせず、静かに耳をそば立てて息を殺した。すると
【第二十三】につづく——
◆底本
木下勝俊『鳥歌合』風々齋文庫(Kindle版) 2018年
◆参考文献
脇田修、脇田晴子『物語 京都の歴史 花の都の二千年』中公新書 2008年
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