【第十】七郎白状、鵐口寄の事
引きつづき、事件の証言を記します。
【
はい、荒神橋の河原であの野良イヌを斬り捨てたのは兄の七郎でございまス。
わたしと兄とは父・
不穏な気配に気づいたのは六波羅上空に差し掛かったあたり、そこから荒神橋にトリ
その場に妹の姿を見た時には吾が眼を疑いました。
先年来の飢饉により、洛中には人畜問わず路頭に飢え死ぬ者あまた在り、大水にさらわれた四条五条の河原にはヤブが繁り、流民に加え、
はい、野犬どもはぜんぶで五、六頭は居りましたでしょうか——
吾らが割って入り、太刀を抜いてスゴむとほとんどの野犬どもは尾を垂れて
はい、兄は何度も「寄らば斬る!」と忠告しております。断じてこちらからは斬りつけておりません。
大太刀をかいくぐれば容易に喉笛に喰いつけると踏んだのでしょうが、それは兄の手羽の返しの巧みさを知らぬゆえの過ちでス。
しばらく互いに睨みあい、スキを窺っておりましたが、兄が誘い掛けるように切っ先を羽毛の厚さ一枚分引くと、黒イヌはその誘いに乗せられて襲い掛かって参りました。兄が小手返しの要領でくるりと斬り上げた刹那、兄の白翼は返り血に染まり、黒イヌは喉笛から血の滝を
されど、
気づけば兄・七郎も尋常ではない様子… なにしろ生き身を斬ったのは此度がはじめての由… 山吹色の瞳は心持ち朱に染まったようで、いままで感じたことのない殺気を帯びておりました、まるで斬り殺した黒イヌの殺気が
兄はその殺気の遣りばを持て余しているようでした。野良イヌどもは頭領を見捨ててどこぞへ逃げ去っており、兄が殺気の遣りばを、高みの見物をして油揚げを狙っているカラスどもに向けたのは、無理からぬことのように思えました。
【七郎の白状】
あの黒イヌを殺したのはわたしです。
なに、野良イヌの一匹や二匹殺すなぞは、あなた方の思っているような大したことではありません。もし
あの飢えた野良どもにとっては、この
いや、わたしを喰らうのは野良イヌどもではないか——
もし、わたしが殺されていたら、あの浅ましいカラス連中が、わたしの屍骸に群がる野良どもを追い立てて、己が腹の足しにしていたことでしょう。
河原に行って御覧あれ。いまごろ、わたしに殺された憐れな黒イヌは、あの黒衣のウジムシどもに散りぢりに啄まれているに違いございません。
いや、すでに食い尽くされて骨と化しておるやも知れぬ——
果たして、あのカラスどもに誇りと云うものはあるのでしょうか?
野良イヌどもが吾らを襲うのは自らを生かすため… ネコがスズメを襲うのと違いございません。
しかし、カラスどもは、吾が
もしイヌどもが吾が妹の喉笛を咬みちぎったら、おそらくその途端、彼奴らは総出でイヌどもを追い払い、妹の亡骸を喰い争っていたことでしょう。わたしが弟と、野良どものあいだに割って入ってから、こんど彼奴らはわたしと黒イヌのどちらかが死ぬのを雀躍して待っておったのです。
あの者どもはじぶんの身を決してキケンに晒そうとしない——
わたしは先日、五条で餓死した母ネコをカラスどもが喰らっているのを見ました。そればかりか、彼奴らは母ネコの乳に吸いついて離れない子ネコまで弄ぶように啄みはじめた——
彼奴らは体面も考えず、屍骸があれば恥も外聞もなくその腐肉に喰らいつく。腐臭を吐き屍臭をまとい、弱った者がいれば
「生前に悪業を為した者は畜生道に堕ちて禽獣に身をやつす」などと、
わたしの白状はこれだけです。
殺した黒イヌにはなにも怨みはございません。ただ、吾と吾が係累を守るために斬ったのでございます。もしそのことでなにか罰を受けねばならぬなら、それは甘んじて受ける覚悟にございます。
【
なぜあんなにムキになったか、じぶんでもわからぬ。大刀かまえた相手に、頭から突っ込むなどバカげた話であった。
はじめはあのカラスのガキだけが獲物のつもりであったのだ。もちろん子ガラス一羽捕えたところで、俺の飢えた手下七頭の腹が満たされるはずもない。それでも喰わねば、一頭か二頭は明日をも迎えられず飢え死ぬかも知れぬ。
手負いの子ガラスなら足取りおぼつかぬ吾らでも
まあいいさ… 子ガラス一羽八等分に裂いて喰らったところで、寿命が一日二日延びる程度で気休めにもなるまい。であればこそ、俺はあれほどムキになったのではあるが——
いずれにしても、俺はあの時死ぬ運命にあったのだ。あの時死んで、あの場にいた飢えた者どもに喰われる運命に——
それだのに、俺はあの若サギの声を聞いた。
俺の眼に薄闇の立ちこめる中、荒神橋に山となったカラスどもに、彼奴は云ったのだ——
「この黒イヌをどうするつもりじゃ? まさか喰うつもりではあるまいナ? この争いに敗けた者を喰らうつもりで、黒山の群れとなって見張っておったのではあるまいナ? さようなことは許さんぞ! 此奴は配下のイヌどものために命を懸けて戦ったのじゃ。丁重に葬ってやるのが武士の情けじゃろう——!」
俺はあのコトバを聞いて、シラサギを心底
そんな畜生が、焼かれて骨と灰だけとなり、誰の腹の足しにもならずに葬られるなど、誰が
そこから先、もう俺にはなにもわからなくなった。
もうなにも見えず、なにも聞こえず、なにも臭うて来ない。
ただ、なにかが群れを成して、俺の皮や肉を引き裂いているのが感ぜられた。それでも痛みはない。
俺は恍惚とした。そして啄まれ引き裂かれるたび、俺は俺が少しずつ失くなっていくのを感じた。肉体が滅べば魂も滅ぶ。肉体は魂を乗せる舟ではなかった——「おれはそれぎり永久に、中有の闇へ沈んでしまった。……」(芥川龍之介「藪の中」より)
【第十一】につづく——
◆参考文献
芥川龍之介「藪の中」『芥川龍之介全集4』ちくま文庫 1987年
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