【第八】魏志倭人伝の事

 義作さんの著書を一読しますと、そこには、邪馬台国やまたいこく田藻盈国たもえいこくが同一の国家であったら、とのが透けて見えまス。

 かたや「マサ会稽カイケイ東冶トウヤヒガシルベシ」とあり、かたや「会稽郡かいけいぐん東冶県とうやけんの東海にうかび」とあるのだったら、それも無理なきこと——万一そうであればッケもん! 『西日倭さかい紀外文書きがいもんじょ』は晴れて邪馬台国の一大資料となり、義作さん本人はその研究の第一人者となりましょう。


 ただ、そこには押しなべて台湾がございまスから、いっそシンプルに「台湾でしたァ♡」とスルのが素人考えでは道理に沿う気がいたしまス。ただこの論争で、ふしぎと「邪馬台国=台湾説」なるものを聞いたことがございません。田藻盈国にいたしましても、義作さんは「台湾付近にあったと推測…」と記スに留め、田藻盈国を台湾とするのは気が乗らぬ模様——


 然れどモ、理にそぐわねば角が立ツ… 俗に交われば流されル… 自説をとおせば窮屈ダ… とかくに正論はけむタルい——

 王朝が存在しなかったり、文字文化が花開かなかったり、「台湾説」が除外される根拠はいくらでもございましょうが、そもそも「邪馬台国論争」とは吾が国のローカル・ミステリー… 奈良県や佐賀県などがオリンピックの国内招致先を争っているような状況でスから、いきなり「台湾説」など持ち出されてもお門違いございまして、古代史マニアにしてみればシラけるばかりでございましょう。

 いっそ思い切りよく「ムー大陸説」など振り切った説をブチ上げたほうが気持ちよくも思われまスが、「ムー大陸」なるもの自体、・元英国陸軍大佐のジェームズ・チャーチワードなる謎の人物が、1931年に自著『失われたムー大陸』で云いだすまで跡形もなかった大陸でございまス。そんなクヒオ大佐もどきの個人が創作したオモシロ都市伝説でございますから、吾らが卑弥呼さまを乗せるミコシとしては、祭りとして愉快であっても、信用するには心許ない——


 されド、さらに前提の話をすれば、「倭人伝」にある邪馬台国への旅程に関する記述は、晋の初代皇帝・司馬しばえんの祖父で、魏の重臣であった司馬懿しばいが西暦239年に演出した、女王・卑弥呼からの朝貢ちょうこうの際に催したセレモニーついての「広報」からの引き写シなのだとか——

 それが証拠に、文中にある「東冶(県)」は、「倭人伝」が成立した三世紀末には建安郡に属しており、本来なら「建安東冶」と記スべきところ、239年当時の「広報」にあるまま「会稽東冶」と記されてあるのでございます。


 そもそも倭国からの朝貢は、司馬懿による中国東北部の軍閥制圧の祝宴でもあり、魏の実権を握るための政治的パフォーマンスでもございまシタ。

 然れバ、その成果を最大限アピールするため、倭国の存在を誇大に広告する必要があったのでございまス。であれば、朝鮮半島から片道一時間余りで気軽に行き来できる金浦キンポ~関空や仁川インチョン~福岡空港より、二時間半以上かかる仁川~台北タイペイのほうが、がございましょう。しかモそれが敵国・呉の背後を窺う海上となれば、有難みは否応なしに増しますル。なればこそ、ソノ位置でなければならぬ——!


 そんな祖父がした誇大広告を、孫の司馬炎が「あれは三倍盛りまシタ!」などと否定できようはずもございませン。『魏志』の「東夷伝」のなかの「倭人伝」が、晋の正史『三国志』の端の端の端の話とは申せども、それが己が王権の正統性を証明するものであれバ、皇帝・司馬炎がお祖父チャンの嘘八百を暴くなど猶のことできヌ相談でございましょう。


 「倭人伝」が邪馬台国を知るうえで重要な資料であることは否定いたしません。その記事から窺える「倭国」を取り巻く三世紀の国際情勢や、邪馬台国の国家体制などは、その400年後に書かれた記紀などよりずっと資料的価値は高い… それでも邪馬台国の在処を測るモノサシとしては当てにはならヌ——

 とは云え、古代史は浪漫でございまス。

 「倭人伝」がなければ、これほど長きにわたって邪馬台国が注目を浴びつづけることはなかったでしょうシ、その在処がただしく記されていたなら、邪馬台国がいまほどミステリアスな存在になることはなかった… いまだ霞掛かった余白にこそ想像の翼を広げる余地はアリ、「所在地論争」に熱心な方がたに、「倭人伝」は「政治的誇大広告プロパガンダ!」などと云うては野暮でございまス。


 然れどモ、さようなことはこの物語に重要なことではございませン。此度の主題はあくまで横笛「黒嘴囀こくしてん」の由来にございまス。


 先述したとおり、西日倭大衆国建国の祖たる人物は、田藻盈国から国書をたずさえ、唐土もろこしの都をめざした瑪良めら太子——『西日倭紀外文書』によりますと、使命果たせぬまま片瀬浜に流れ着いた太子は、もはや唐土に渡る術もなく、故郷に帰る気力さえ失くし、浜辺で横笛を吹いては吾が身を慰めたのだと申しまス。


 ちなみに、『紀外文書』には、瑪良太子が自らの横笛で己を慰めながら、故郷で死に別れた恋人の御霊を想って詠んダとされる歌が一首、記されておりまス。その歌は「花捥郎ハナモゲラ」なる田藻盈国の雅語混じりの歌でございまして、一見意味不明ではございますが、義作さんは永年の研究成果を手掛かりに果敢に詠解に挑んでおりまス。ただ、異国のコトバを無理り大和コトバに落とし込んでいるので、ともすれば「What time is it now ?」を「掘った芋いじくるな!」と解したり、「How much dollar ?」を「浜千鳥?」と解するがごとき詠解になりかねませんが、参考までに以下に紹介いたしまス。


 化身瑪良けさめらの花野も木障野こさの 此れ世がし

 亡霊もれのどら あかざねのへた

【詠解】

 ケサメラの花咲く故郷の野原も、諸行無常のことわりで、暗く瘦せた土地(木障こさ)となってしまったことでしょう。姫の亡霊もうれいよ、心のどかだと申すなら、赤実あかざねのヘタしか残らぬその野のへたを、明るくして(明かざね)おくれ——


 一方、禽界の伝承によりまスと、東国の辺境に流れ着いた異郷の国使こくしが、望郷の念に駆られて吹いた横笛が、「国使こくしノ笛」或いは「国使管こくしかん」と呼ばれ、時の移ろうなかヒトの手から手へと渡り、やがて禽界に伝わって、トリの手羽から手羽を経たのち祇園林にたどりついた由——

 されバ、はじめに手羽にしたトリがくちばしの黒い者であったのでございましょう。コトバの戯れもアリ、その時より「国使ノ笛」は「黒嘴囀」と呼ばれるようになったと申シ伝えられてございまス。

 この符合からして、太子が吹いた笛こそ、のちの「黒嘴囀」と断言してしまっても差し支えなかろうかと存じまス。


 もちろん黒嘴囀が、真実、田藻盈国の太子の横笛とおなじ物か否か証明する手立てはございませン。

 さればとて、もし黒嘴囀が太子の横笛でありまスれば、それは西日倭大衆国の最後の残骸であり、引いては田藻盈国が存在した唯一の痕跡となるのでございまス。その最後のカケラを失くしたのだとしたら——


 さようなこと、祇園林の若君は知る由もございません。然れどモ、かの横笛の価値は、幼心にもわかりすぎるほど重く伸し掛かっているのに違いございませン。であればこそ、あれほどの取り乱しようで河原を這いずり回ったのでございまス。


 ——が、ここで閑話休題!


 大変申し訳ございません! 物語の枝葉の話をしようとして、うっかり枝葉の枝葉の話に熱がいき、なんとか枝葉の話に引き戻して話すうち、気づけば、カラスの若君を取り巻く様相は一変しておりました、もはや黒嘴囀の件など忘れ去られるほど——


 若君に眼を向けてみると、左翼で半身を起こしながら右の手羽を太刀のつかに掛けている… シラサギの姫はその若君の身体を覆うようにその肩羽を抱く… アマサギはその二羽を背に懐刀を抜き、その三羽を囲うよう四羽のコチドリが扇に並んで太刀をかまえている… さらに、手羽に大刀をかまえたダイサギが二羽、若君たちを護るよう立ちはだかる——

 然るに、そのうち一羽は白翼を血に染めてございました。冬枯れした茅の葉、タンポポや紫雲英げんげの若葉に飛び散る血飛沫… 血溜まりに横たわるイヌの死骸… さすれば、それらを取り巻くあまたのカラス、カラス、カラス、カラス——!


【第九】へつづく——



◆参考文献

 斉藤光政『偽書「東日流外三郡誌」事件』新人物文庫 2009年

 岡田英弘『倭国の時代』ちくま文庫 2009年

 古田武彦「邪馬壹国―陳寿の歴史思想について—」『昭和四十五年度大会・研究発表要旨』所収、日本思想史学会 1970年

 所ジョージ「けさめらの親王むれさのはけ姫に詠む」(作詞:タモリ) 1978年

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