11 夢中
霧の外とはいえ、視界を漂う霧の感触に変わりはない。違うと言えるのはその濃度だけで、木々の間からは絶えず霧靄の帯が伸びてくる。
気温も少しばかり上がったかと錯覚する程度。時折突き刺すような水の粒が葉と葉の間を滑り落ちていく。ぶつかれば肌を切り裂きそうだ。
人が通るために草木を避け用意された通りから外れ、ネーベルはローリーに言われた方向を目指し一心不乱に道なき道を駆ける。
自身の体力がどこまで持つか、自分ですら分からない。
それは塔に閉じ込められたフィリリアも同じ。彼女を蝕む毒は、行く手をぼかす霧のようにじんわりと、しかし確実に彼女の身体に染み込んでいく。
見えぬ時計に急かされ、ネーベルは突如襲ってきた強烈な喉の渇きをも意識しないままに両手足を大きく振る。審判から逃れるためにもがき足掻く愚かな人間の執念が体現された醜い姿。けれど無様な姿にそぐわぬ、入念に磨かれた剣に似た澄んだ眼差し。その切っ先が捕らえた視線の先を、バケツを抱えた一人の少女が横切ろうとする。彼女は囚人が一人霧の障壁を超えたことなど露知らず、呑気に鼻歌を歌っていた。音程を正確になぞることに夢中になるあまり、大胆な足音すら彼女の世界には入り込めない。幸か不幸か。彼女が何者かが自分に向かって近づいていることに気がついたのはまさに彼が低木から飛び出してきた瞬間だった。
「ぎぇええええっ!?」
ネーベルが野犬を思わせるしなやかな足さばきで目の前に降り立つと、彼女は喉が潰れるほどの悲鳴をあげた。
抱えていたバケツが手から離れた拍子に自らの靴先に直撃し、彼女は続けて痛みに喚く。
「なになになになに!? あんたっ! 誰ッ!?」
慌ててバケツを拾おうと身体を屈める彼女は、涙目になりながらネーベルのことを睨みつけ威嚇する。
「驚かせて悪い。あんた、ここで働いてる人?」
「不審者に正直に答えると思う? ダズワルド監獄をうろつく人間なんていないはず……あっ、あんた、まさか……──!!」
短髪の彼女がアッと息をのんだ刹那。ネーベルは背後に回り、大きく息を吸い込んだ彼女の口を手で抑えた。
「悪いが、騒ぐようなら黙ってもらわないとならない。今はお喋りしてる場合じゃなくてさ」
ネーベルに口を封じられ、顔の小さな彼女は息苦しそうにもがもがと喉の音だけで何かを訴える。
じたばたと暴れる彼女はバケツを振りかぶって背後にいるネーベルに投げつけようとした。ネーベルはもう片方の手でバケツを持つ彼女の手に手刀を入れる。すると衝撃でバケツは地面に落ちていく。バケツを失ったことで彼女の動きが一度止まった。その間に彼女の両腕を素早く手で掴み、ネーベルは彼女を身体ごと自分の方に寄せて静寂に紛れた声を出す。
「危害を加えるつもりはない。このバケツを持ってるってことは君は守り人か?」
こくこくと何度も頷き、抵抗の術を失った彼女はネーベルの問いに答える。
「君の仲間を助けたい。頼む。頼むから、どうか脅されてくれ」
「ふがっ!?」
口を抑える手の力が緩み、空気を吐きだした彼女から間の抜けた声が出ていく。
彼女は捕縛された手首を掴む彼の手が小刻みに震えていることに気づいたのか、彼の指に噛みつこうとしていた歯を静かに閉じた。
「ほれって、もひかひてふぃいーのこと?」
彼女の頬が手のひらの下で蠢き、空気の籠った声が指の隙間から漏れる。
「ああ。そうだ」
ネーベルの返事を聞くなり、強張っていた彼女の身体からも力が抜けていった。
「…………ほっか」
彼女の顎は徐々に下がり、しんみりとした声だけが地面に向かう。
脱力していく彼女の顔は、もはや自らを押さえつける大きな手のひらのみを支えにし、彼が手を離すとそのまま首ごと落ちてしまいそうなほど意志を失っていた。
骨が溶けたようにだらりと垂れさがっていく彼女。ネーベルはその反応に、彼女がフィリリアと親しかったことを察する。
「彼女の命を救うことはできない。だが、塔から連れ出すことはできる。どうか彼女のために、力を貸してほしいんだ」
「……──フィリー」
ぐったりとネーベルに背中を預ける彼女は、俯いたまま返事にならない言葉を返す。
ネーベルは彼女の顔から手を離し、崩れそうな細い体躯を腕で支える。
地面に倒れるバケツを窪んだ瞳で見つめる守り人。彼女の名はガレ。守り人の栄誉と誇りを胸に、フィリリアとともに長年の時を歩んできた。
フィリリアの笑い声が聞こえる時、いつも隣にいたのは彼女だった。
「連れ出して、どうするの? あなた囚人でしょ? これ以上の罪は許されるわけがないのに」
ガレは両手をだらりと下げたままネーベルに問う。彼がこれ以上の無理を強いようとしていないことはガレにも分かっていた。彼女を拘束する手には力が入っていたのに、少しのきっかけで壊れそうなほどに脆かったからだ。
「……──赦しなどいらない」
「そう……」
それでも、彼から聞こえてくる声はどんなに叩いても割れそうにない。ガレは項垂れていた身体を起こし、ちらりと彼を振り返る。
「脅されてあげる。あたし、もう一度だけフィリーの顔が見たいから」
ガレの大きな瞳に見つめられ、ネーベルは彼女の望みに応えるようにこくりと頷く。囚人に脅されたとなればこれからする彼女の行動も少し多めに見てもらえるといい。微かな慰めを胸に、ネーベルは彼女の燃えるような赤の瞳に導かれ、フィリリアが隔離された塔への道筋を手に入れた。
目の前に現れた塔は、深々とした森の中のくぼみにひっそりと佇んでいた。石造りの塔の下部には監獄内と同じくらいの霧が立ち込め、頂上の屋根は低い雲に覆われている。
湿気を吸い込み渋い色に滲んだ石の塔を見上げ、ネーベルはガレにあと一つのお願いを伝えた。ガレは無言で頷き、塔の入り口を指差す。
「あそこが入り口。鍵がかかってると思うけど、古いから壊せちゃうと思う。囚人ならそんなのお手の物だよね?」
「随分と希薄な警備だな」
塔の周りに漂う鬱蒼とした空気。それを除けば、この場所は囚人を閉じ込める空間にしたためた厳重な魔術とは違い、忍び込もうと思えばすぐにでも実行できそうなほど手薄だ。恐らくまじないもかかっていない。
「普通、ここは使うことがないから。罰を受けたら、ここに来るまでもなく処分される。フィリーが少し特殊なだけ」
「──そうか」
ガレの淡々とした回答にネーベルは鍵のかかった木の扉を見やる。
「……あたしはここまで。戻ってきたらここで待ってるから。誰も来ないとは思うけど、一応監視しとく」
「ありがとう。すまないな」
「お礼もお詫びもいらない。あたし、脅されてるんだから」
ガレはそう言いネーベルから一歩離れる。最後に頼まれたものを用意するために動こうとしているようだ。ネーベルは彼女に目配せをし、扉の前まで移動する。ガレの言う通り、単純な南京錠で閉じられた扉は侵入罪に問われたネーベルにとっては障害にすらならない。近くに落ちていた頑丈そうな枝を拾い、ネーベルは軽快な手つきで鍵穴を探る。
数分も待たないうちに鍵はあっけなく開かれた。後ろを振り返ればガレはそこにはいない。ネーベルは扉に手をかけて塔の中へと足を踏み入れた。
塔の中には灯りはなく、目の前には人が一人通れるほどの細い螺旋階段が頭上まで続いているのが見える。扉が開いているおかげで外の明かりが微かに入るが、閉めれば途端に真っ暗になるだろう。
ほんの僅かに扉の隙間を残し、ネーベルは長い螺旋階段を上り始める。建物で言えば何階分の高さがあるだろうか。久しぶりの外の世界。高低差のある景色を身を持って体感し、ネーベルは自らの体力の低下を思い知る。
もしかしたら、体内に刻まれた毒が目を覚ましたのかもしれない。
浅い息を繰り返し、ネーベルは余計な考えを取り払ってただ膝を上げ続けた。
空気が薄くなる。
吸っても吸っても酸素は脳の芯まで届かない。
薄れゆく意識の中、ネーベルの視線の先にようやく平坦な床が見えてきた。
人間一人立つのが精一杯のその場所。先は行きどまりで、僅かな平面の隣には鉄格子が見える。
この塔は一つの牢獄のためだけに造られたようだ。
ネーベルは残り少ない力を振り絞って最後の一段に体重をかける。壁に手をつき、崩れるようにして限られた床に辿り着いた。顔を上げれば、鉄格子の向こうに一つの影が見える。鉄格子の中の小部屋には小鳥が行き来できるだけの大きさの窓が高い位置にくりぬかれ、細い明かりが床に向かって伸びていた。
「フィリー」
霞みゆく声は、この場にすら漂う霧に溶けて鉄格子の中まで響き渡る。
「──ネー、ベル……?」
ひんやりとした冷徹な石の床と一体化していた影がゆっくりと動く。地面に身体をつけたまま、うつぶせになっていた彼女の顔がこちらを向く。
「フィリー……!!」
白と水色のまだらの髪の毛にはくったりと湿気が張り付いていた。彼女の顔を覆っていた髪の隙間から覗く乳白の瞳。彼女の瞳孔が静かに開いていく。
「ネーベル……」
彼女の声には力がなかった。指先はピクリとも動かず、色を失った唇が震えながら動き、彼の名前を呼ぶ。ぼんやりとした視界にネーベルの瞳の色が見え、フィリリアの唇の端が微かに持ちあがった。
腕を伸ばしたくても、もう筋肉が応えてくれることはなかった。どうにか身体を持ち上げようとするが身体は言うことを聞かない。もどかしさに、フィリリアの瞳から一筋の涙が鼻先に落ちる。
「フィリー。動かなくていい」
彼女の笑みが鉄格子の向こう側から差し込み、ネーベルの脳が徐々に気力を取り戻す。鉄格子にかかる南京錠を掴み、焦りに支配されぬよう手元に神経を集中させる。
ネーベルが解錠する間、フィリリアは自らの指先を見やり、苦悩の表情を浮かべていた。自分の身体が魔物に支配され、固まっている骨が砕けていきそうだった。
金属が絡み合う音がして、南京錠が外される。
ネーベルは重い扉を開けて滑り込むようにフィリリアの傍へと駆けていく。
「フィリー! ああ……フィリー。ごめん……俺のせいで、こんな──……!」
彼女の身体は蝋と間違えるほどに冷たく、固く、強張っていた。
駆け寄り、膝をついたネーベルは、薄汚れたローブを身に纏うフィリリアの布先にある彼女の指を包む。触れればまだ肌は柔らかだった。彼女の唇から朗らかな息がこぼれた気がした。
「ネーベル──……どうしてここに……?」
フィリリアの身体を抱き寄せ、壊れてしまわないように優しく抱きしめる。すると腕の中で笑うフィリリアがネーベルを見つめ微かに首を傾げた。
「フィリー。君は霧靄を薄めてくれていたんだろう? 前に君が会いに来てくれた時、酸素の規制が柔らかだった。本来、あの場所はどんなに息を止めても生き延びられない。霧のまじないが充満していたら、君に会いに行けるはずがない」
「気づいていたの……?」
フィリリアの頭が力なく持ち上がろうとする。ネーベルは無理に動かさないようにと彼女の額をそっと撫でた。
「最初はまさかと思っていた。でも君の後任のローリーは君の意志を継いでいた。それのおかげで気のせいではないと確信できた。君はいつも早めに仕事を終わらせて待っていてくれたよね。フィリー、君はどこまでも完璧な仕事をするんだね」
「手を抜いているところを見られたくなかったの。ふふ。あなたに叱られたくなくて」
フィリリアは重たい手を懸命に伸ばしてネーベルに触れようとする。
ネーベルは首を垂れて彼女に顔を寄せた。
「どうしてそんなことをした? フィリー。霧の結界を意図的に脆くするなんて、それこそ罰せられる危険があっただろうに」
頬に触れた彼女の指を握りしめれば、ささやかな鼓動が伝わってくる。微笑みかけ、ネーベルは優しい眼差しを彼女に向けた。
「心の声を聞いたの」
フィリリアは彼と目が合うなりはにかむ。指の腹を微細に傾け、ネーベルの肌に指先をうずめる。
「ネーベルの故郷の話を聞いて、わたし、あなたにはやっぱり夢の続きを追って欲しいと思ってしまったの。あなたはここにいるべきじゃない。逃げて欲しいの。僅かでもいい。もし、あなたが無事にここを出られても、ほんの僅かな時間しかないかもしれない。それでも、あなたは、ここを出るべきだから──」
フィリリアの表情が苦痛で揺らぐ。毒は順調に彼女の身体に侵食しているようだ。彼女の呼吸のリズムが変わる。彼女を抱き寄せるネーベルの腕に力が入った。
「フィリーが知らないはずがない。今の俺に外界はもはや毒だ」
「そうね。その通り……だけど、死ぬ場所を選べることは幸福なことだと、わたしは思うわ。ここでたくさんの人の最期を見てきたから……償いとはいえ、あんなに惨いことはないわ」
ネーベルの胸元にフィリリアの息が吹き込まれる。フィリリアはネーベルの体温を求めるように彼の方へと身体を向けようとしていた。
毒に蝕まれているのは彼女だけではない。彼女は当然知っている。逃れようのない事実。外に出た彼に与えられた時間はあまりにも少ないはず。しかしフィリリアの瞳から希望の色が消えることは決してなかった。外に出た囚われ人の顔を見上げ、嬉しそうに頬を溶かしていく。霧の境界線とは違い、ここでは彼女の表情は隠されない。浮かび上がる彼女の純朴な表情を受け、ネーベルの目頭には透明な光が浮かぶ。
「どうして俺はまだ、生きてるんだろうな……?」
ネーベルの声は震えていた。フィリリアは彼が導き出した答えに対して柔和に目を細める。
「毒の力は強力なの。あなたが外に出て、少しでも長く夢を追えるように……わたしに出来ることは限られている。でも、出来ることがあるなら迷いはない」
フィリリアの息が今度はネーベルの鼻先にかかる。彼は咄嗟に彼女に近づけていた顔を遠ざけた。フィリリアは困ったような顔をして口元を綻ばせる。
「だめ。ネーベル。わたしの息を吸って」
ネーベルは首を横に振る。握りしめた彼女の指先に微かに熱が宿っていく。彼女と交わした柔らかな熱の記憶を呼吸は鮮明に覚えている。自身の魔力を受ける器は特殊だと彼女は言っていた。魔力を扱わないネーベルには詳しいことは分からない。けれど確かにあの時、彼女は彼に息を吹き込んだ。
こぼれ落ちた涙が彼女の頬に落ちる。
フィリリアは弱弱しくクスリと笑った。
「わたしの力もとても弱いものよ。でも、あなたの毒を少しでも弱めることはできたみたい。これで、ネーベルはこの場所を出られる。もうわたしは魔術師の毒に逆らえない。今ならまだ、あなたの背中を押すことができるはず──……」
離れていくネーベルの顔を見上げ、フィリリアは暗がりに隠れ見にくくなった彼の表情を窺おうとする。しかしネーベルは依然として首を横に振るばかり。
「夢を追わないの? ネーベル──」
「悪いが、君がいないと叶わない」
「え? あ……っ」
ネーベルの返事に驚く暇もなく、フィリリアの身体が高い位置に持ち上がる。
「ネーベル……?」
フィリリアの背中と膝裏を支え、ネーベルは横向きになったままの彼女のことを抱き上げた。突然のことに戸惑うフィリリアは、縋るようにネーベルの表情を求める。位置が高くなったことで窓から差し込む光が彼の顔をよく見せてくれた。
ネーベルは口角の上がった唇を悪戯に広げて笑っていた。
「フィリー。誰も知らない場所に行こう」
「そんな場所、ないでしょう──?」
「いいや。あるよ。どこよりも美しい光景があるんだ」
「……──でも」
言いよどむフィリリア。ネーベルに頬にキスをされ、不意のことに言葉を忘れてしまう。
「これ以上、罪を恐れる必要がある?」
ネーベルは牢の壁に背中を向けて開かれた鉄格子の扉に向かって歩き出す。
古びた石の階段を一歩ずつ下るネーベルの質実な眼差しを見上げ、フィリリアはゆっくりと頭を横に振った。
フィリリアのことを抱えたまま、ネーベルは石の塔を出る。扉を開ければ、目の前には六つ脚の小ぶりな幌馬車のような形をした乗り物が待ち構えていた。
とはいえ六つ脚のそれには馬などはついておらず、木製の車は二人を見るなり飼いならされた犬の如く前足を上げる。
「──……これは?」
ネーベルの驚いた声につられ、フィリリアも彼の見ている方向を見やる。彼の腕に寝そべる彼女は、ネーベルが見ている車よりも手前にある人影に目を丸めた。
「ガレ……?」
車の前に立っていたのはガレだった。フィリリアと目が合うと、ガレの瞳はみるみるうちに潤んでいく。
「フィリー……! こ、これ! そこの囚人に頼まれたんだ。二人が逃げられるように……! 車小屋から連れてきたの。この子は、一番従順で優しい子だからちょうどいいかなって……」
ガレは背後に控える車を撫でる。車は彼女の評価に嬉しそうにお尻部分をふりふりと揺らした。
「なるほど。魔術師たちは、移動手段すらまじないでつくるのか」
「そうだよ。この子なら魔術師の警戒値に引っ掛かるのにも猶予がある。だから早いところここから去って」
「ありがとう。君のおかげでフィリーを見つけられた。恩に着る」
「──いいの。っていうか、あたし、脅されてただけだし」
ガレはぶんぶんと力強く頭を振り回して言い直す。彼女は車の前から離れ、塔の近くに座り込む。ネーベルが車にフィリリアを乗せている間にも、ガレは何やら黙々と作業を進めていた。
「ガレ──……」
ネーベルに支えられながら、フィリリアはガレの姿を見ようと身体を起こす。塔の前に座り込んだガレは、近くの杭に鎖を結び付けているところだった。
「ほら。早く行って!」
フィリリアがこちらを見ていることに気づき、ガレは二人を急かすように声を出す。鎖を結び終えた彼女は、鎖の端についていた手錠を自らの手首にかけた。
ガレの鋭い視線に促され、ネーベルは車の先端に行き先を告げる。車は喜んでと言わんばかりにきゅるきゅると足をばたつかせると、ガレに尻尾を向けた。塔の前に座り込んだまま動かないガレ。フィリリアは彼女の姿が霧に隠されるまでじっと見つめ続ける。名残惜しさは隠せない。一方のガレは早々にフィリリアから視線を逸らす。これが最後の別れになるということくらい、二人ともよく分かっていたからだ。
*
気さくな車は丸三日間六つ脚を軽やかに動かし続けた。
ネーベルは追手に対する警戒を緩めなかったが、ここに至るまで幸いにもそのような気配を感じることはなかった。
幌に覆われた車の中で身を寄せ合うネーベルとフィリリア。フィリリアの色素が刻々と薄れていくことにはネーベルも嫌でも気づいていた。けれど彼女がこれ以上苦しむことがないようにと、彼は笑顔を絶やさなかった。
彼が笑えばフィリリアは愛らしい笑みを浮かべる。まるで毒のことなど忘れてしまったかのように、その瞬間の彼女は幸福感に包まれていた。
「世話になったな」
三日半が過ぎ、ネーベルは車を降りて陽気な六つ脚のうちの前足を撫でる。車は御礼を嬉しそうに受け入れ、恭しく前足を折り曲げて頭を下げた。
身体を回転させて来た道を戻っていく車を見送り、ネーベルは近くの岩に座り込んでいたフィリリアの前に片膝をつく。
「フィリー。無理はしなくていい」
「ううん……自分で歩きたいの」
「うん」
フィリリアの確固たる意志が宿る瞳に敬愛の眼差しを返し、ネーベルは彼女の手を取る。立ち上がったフィリリアは、ぐらつく足元でどうにか踏ん張り、転ばないように耐えた。おぼろげな足元から、フィリリアは目の前に広がる光景に顔を上げる。
二人が立っているのは慈しみ深い青青しい森の入り口。
透けた緑の葉の向こうから降り注ぐのは、天高くから地上を包み込む太陽の微笑み。柔らかな光は見る者の何も遮ることはなく、森の中に惜しみなく天使の柱を立てる。葉の隙間から垣間見える青色は、フィリリアに無限の天空を教えてくれた。
「……──綺麗」
自然と出ていく言葉は、木々の間を飛び交う小鳥の声に共鳴する。
フィリリアは隣のネーベルを見上げ、彼の手をそっと握りしめた。
「ネーベル。ここ、あなたが旅で見つけた場所なの?」
「うん。故郷に戻る少し前に。この近くの街で何日も過ごした。その時に見つけた場所だ」
「本当に、空気って透き通るのね」
フィリリアは心の奥底から溢れ出る興奮に情けなく頬を崩す。
霧のない森で二人を迎え入れるのは、どこまでも澄んだ空気。不純物など何もなく、吸い込む度に心を軽くしていく。
「こんな森の姿、はじめて見るわ」
ネーベルの手からフィリリアの指先がすり抜けていった。彼女が待ちきれずに一歩前に踏み出したからだ。ネーベルは彼女の後ろからゆっくりと彼女の道に続く。
地面を踏みしめる彼の足の感覚はもはや何も感じていない。
ダズワルド監獄を後にして三日半。フィリリアはもとより、ネーベルの身体にも次第に毒が牙をむき始めていた。森に辿り着くまでの間、何度かフィリリアがネーベルに息を吹き込もうとしたことがあった。眠りかけていたネーベルが彼女に気づき、その度に彼女の顔を優しく胸元に引き寄せた。
今度こそはできると思ったのに。
そう言って笑うフィリリアのことをからかうように窘めながら、ネーベルは身体の奥から這い上がる熱情に抗った。
「ネーベル」
光の下でフィリリアがたおやかに微笑みかけてくる。彼女の頭上に跨る木々には桃色の小さな花が咲いていた。ネーベルは身体の気怠さを隠し、足元に広がる花びらの絨毯を手で掬い上げ、フィリリアの目の前で散らす。
「ふふふ」
花びらが美しく舞い、フィリリアはくすくすと笑いながら数枚の花びらを空中で掴む。
「ほら、見て。霧と違ってちゃんと掴める。なんだか森の息吹を感じるわ」
「ああ。心を癒してくれるよな」
「ええ。ここは本当に素敵な場所ね」
どんどん森の奥に進む二人。どのくらい歩いたか正確には分からない。けれどどこまでも行けるほど、二人に飽きが訪れることはなかった。
霧のない森に興奮を見せ、紅潮していたフィリリアの頬の色も徐々に引いていく。息苦しそうに肩を上げ下げする彼女の姿を見て、ネーベルはその肩を抱きかかえた。
「フィリー。こっち」
耳元に囁くネーベルの声。限りなく近くで聞こえる声なのに、とても遠い場所から呼びかけられているようだった。
フィリリアはネーベルの手を取り、彼に支えられながら彼の指し示す場所へと向かう。
彼が見せてくれたのは、弓状に広がる葉が屋根代わりに覆いかぶさる室のような空間だった。随所に花が咲き誇る葉の帳の下には葉っぱの絨毯が敷かれている。フィリリアはネーベルを見やり目を細めた。
「ここは、あなたの秘密基地?」
「前に来た時に、ここで野鳥の観察をしていたんだ。木を見上げるには首が疲れてしまうから、横になりたくて」
「気持ちよさそうなところね」
フィリリアはそう言いながら身体を屈めて帳の下へと入る。絨毯に座ると、ふんわりとした感触がすべての疲労を癒してくれるようだった。
ネーベルが隣に並べば、フィリリアは彼の肩に頭を預ける。
「ネーベル。わたしも、少し疲れてしまったみたい。とても素敵なところだから、きっと心が飛び跳ねてしまったせいね」
「気に入ってくれた?」
「もちろん。夢に見たよりもずっと綺麗」
瞼をとろんと落とし、彼の手を握りしめていた指先にかかる力がふっと軽くなる。
「わたし、外にいるのね」
「そうだ。君は自由なんだよ、フィリー」
「うん……ネーベル、ありがとう」
フィリリアはネーベルの横顔を見上げて彼の輪郭にキスをした。
もう彼の唇まで身体を持ち上げる気力は残っていない。
「フィリー。ずっと君の傍にいるよ」
「あなたももう自由なのに……?」
「自由だからだ」
フィリリアの指先はネーベルの手を握りしめた形のまま固まっていた。もう動かなくなった指に彼の柔らかな唇が触れる。
彼と繋いだ手はそのままに、フィリリアはネーベルの瞳を見つめたままその場に横になった。
「ネーベル」
「うん?」
「ふふ。なんでもないの。ただあなたの名前を呼びたいだけ。そうしていると、なんだかとても幸せなの」
フィリリアは横になりながらくすくすと笑う。呼応する身体の弾みは僅かだ。
「それなら、いくらでも名前を呼んで」
「ネーベル」
「ここにいるよ」
「……ネーベル」
「フィリーに出会えて幸せだ」
「ネー……ベル」
「フィリリア」
「…………──ベル」
「君のことを、ずっと」
「……………………──る」
「愛しているよ、フィリー」
「………………………………」
瞼を閉じた彼女の吸い込む息の音が遠くなる。
「夢の続きを君が見つけてくれたんだ」
鉛と化した手を持ち上げ、ネーベルはフィリリアのまだ温かさの残る柔らかな頬を撫でた。
眠気が全身を蝕み、ネーベルも彼女と向き合うようにして身体を横に倒す。
瞳を閉じたまま安らかな表情をした彼女。顔色と呼べる色は残っておらず、そこに浮かぶのは美しい寝顔のみ。
目の前で眠る希望を瞳に焼き付け、ネーベルはやおら瞼を落としていく。
森は時を刻み、やがて星を迎え、また新鮮な光が昇りゆく。
鳥たちがさえずり、リスが木の実を求めて幹を駆ける。リスが通り過ぎた枝にぶら下がる葉からは丸みを帯びた雫がぽとりと弾けた。
瑞々しい緑の帳の下で眠る真白の頬に、朝の空気を含んだ冷たい雫が垂れさがる。
ひんやりとした心地良い滴り。けれど優しく閉じられた瞼が反応することはない。
頬を流れ伝う森からの恵み。
その贈り物を受けた彼らの口元は幸福な夢に誘われたのか柔らかに微笑んでいた。
霧靄の監獄でわたしは罪人となりましょう 冠つらら @akano321
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