10 怪物
霧の外側を見つめ、ネーベルは見えてくる人影に首を傾げた。
身体を屈めて丁寧に手のひらから何かを落とす仕草。はらりと肩から落ちる髪の毛。落ち葉を踏みしめる優しい音。
そのどれも、視界に移る姿からは見てとれない。
フィリリアではない誰かの影は、彼女と同じ経路をたどって進んでいく。
つまりは守り人の仕事、霧の補強をしているのだ。
作業を進める見覚えのある影を瞳に捕らえ、ネーベルは無言のまま深い息を吸い込む。
今日もフィリリアは現れなかった。
彼女の微笑みを知った霧の境界際での逢瀬から三日。
フィリリアはあの日以降、六時の区域に来ることがなくなった。
肩にのしかかる重力が一段と重くなる感覚に、ネーベルの背骨が押しつぶされる。けれど暗闇の魔物が心を巣食う前に、彼女の瞳が光を照らす。
止まりかけた心音は再び動き出し、固まっていた足に力が入る。
ネーベルは霧靄の内側で彼の影をゆっくり辿った。
この三日間フィリリアではない影を観察していたネーベルには一つの確信が芽生えた。
今、境界の外で淡々と作業に没頭している彼。
彼は、以前ネーベルがいた区域で見た影と同じ。
ネーベルは返事の返ってこなかった日々を朧げに思い出し、小さく息を吸い込む。
「ねぇ」
距離がある彼に届くように大きめの声を出す。
「君、守り人だろ。ねぇ、この声が聞こえてる?」
当然、彼は声を返してこない。
立ち止まることもなく、何の異変もないふりをして黙々とバケツに手を入れ続ける。三日間、何度声をかけても結果に変わりはなかった。少しの面白みもない展開にネーベルは鼻先から息を吐く。
「君、前まで隣の区域にいたよね? 異動でもしたの?」
返事がないことをネーベルは微塵も気にしなかった。
彼と歩幅を合わせ、決して目を逸らさず問いかける。
「君が仕事をする様子、ずっと見てきたけどさ。前に見た時よりも手際が良くなっている気がするのは気のせい?」
彼は相変わらず無関心だ。これではただ霧の壁に言葉をぶつけているだけ。
独り言と同じならば、何を言っても文句は言われないだろう。
ネーベルは、どうせ返事がないのならと遠慮を取り払った。
「君さ、前任の守り人よりも少し怠惰なところがあるね。俺からは区域の担当がどこまでかなんて範囲は見えないけど、でも、前よりも明らかに移動距離が短い。そんなんじゃ補強漏れしちゃうよ? 警備が手薄になってもいいの? ああ。ほら、あと少し。前の人は、もう少し先でいつも休憩を取っていたよ」
半ば投げやりに、ネーベルは独り言をぼやくことで苛立ちを押し込める。
「霧の力が薄まってしまったら、監獄の意味がないだろう」
守り人の影は黙ったまま地面ばかりに目を向けていた。
今日も結果は同じようだ。
繰り返される光景。それでもネーベルの思考が澱むことはない。
ネーベルは敗北を認め、そろそろ仕事を終える彼の影を見送ろうとした。
今日は何と言ってお別れしようか。
彼にとって唯一遊び心を思い出せる瞬間だった。
ネーベルがいくつもの言葉を頭に浮かべていると、霧の向こうにいる彼が一瞬こちらを見たような気配を感じた。
「あれ? やっぱり俺の勘違いで、君の担当範囲ってそこまでなの?」
ネーベルは考え事を止めて視線を戻す。すると彼が顔だけをこちらに向けていた。立ち止まり、片手にバケツらしきものを持っている。
フィリリアが待っていた場所は彼が立っている箇所よりも十二歩ほど先に進んだ地点。毎日の習慣が馴染んだネーベルは、確かにその場所の感覚を覚えている。
だがフィリリアの次に来た彼は、いつも今立ち止まっている付近で仕事を終えてしまう。フィリリアが怠慢な仕事をしていたはずがない。それが分かっているネーベルは、彼が途中で帰ってしまうことが不思議だったのだ。
すっきりしない瞳が渇き、ネーベルは瞬きをした。すると彼が微かに脱力したように見えた。僅かな動きだったが、確かに彼はネーベルの言葉に反応して動いた。
「君はしつこいなぁ」
彼が肩を落としたことに驚いていると、更なる驚きがネーベルに降りかかる。
物珍しい声が霧の中に響いたからだ。
「ちょっとは察してよ。なんで観察力はあるのに分析してみようってならないわけ?」
呆れた声でぶっきらぼうに話す彼の声にはまだ幼さが残っていた。
ネーベルは幻聴を疑いたらりと冷や汗をかく。
しかし彼はネーベルの反応など知らぬまま腕を組む。
「前任って、フィリーのことでしょ? フィリーが来なくなって三日目。君ほどの観察好きなら彼女が働き者ってことくらい分かるよね? じゃあ、なんで来なくなったんだろうって少しは考えてみなかったの?」
つんけんした声には怒りが潜んでいた。
彼の言葉にネーベルは心当たりがないわけではない。
彼女と密会したこと。それが彼女にとっての負担になってもおかしくはない。
それに最後に交わした言葉。
親切にしてくれた彼女を突き放すようなことを言った自覚はある。嫌気がさした彼女がこちらに来なくなっても、これまた自然なことだ。
ネーベルは真実を告げることが出来ずに口をつぐむ。
「──はぁ。まぁしょうがないか。そこにいたんじゃ、情報なんて入ってこないよね。僕が期待しすぎただけかも」
ネーベルが何も言わないことを察し、彼は大きなため息を吐いてやれやれと首を横に振った。
「いいよ。教えてあげるよ。その代わり、僕から聞いたってこと絶対に秘密だからね。これは君のためじゃない。フィリーのためなんだから」
彼は片足に体重をかけて姿勢を崩す。
「黙って聞いててね。口を挟まれたら気が変わるかも」
彼が何を言いたいのかは分からない。
それでもネーベルはこくりと頷いた。
先ほどとは違う不愉快な汗が背中を走っていく。
「ここの前任者はフィリー。君はもうそれは知ってると思うけど。どうして彼女が来なくなったのか、本当のことを知りたいでしょ?」
静かに語り出した彼。
幼くも冷酷な彼の声に、ネーベルは縋るように耳を傾ける。
*
部屋に戻ったフィリリアはバケツを定位置に置くことも忘れ、閉めた扉の前に力なく落とす。
顔を上げれば見えるのは殺風景な自分の部屋。
寝坊して整えることもできなかったベッドのシーツが目に入り、フィリリアは何を考えるわけでもなくベッドを整え始める。
無心で皺を伸ばしている間にも、脳裏に蘇るのは彼の微笑み。無心になどなれるはずがなかった。
徐々に熱くなっていく肌。フィリリアの手には汗が滲んでいく。
ようやく彼に会えたのに。
耳に残るのは最後に聞いた彼の声だった。
彼の意見はもっともだ。フィリリアは自分が言いかけた言葉を思い出し、愚かさと悔しさに唇を噛む。
けれどどうしても止めることなど出来なかった。
特殊な器を持つフィリリアは風邪を引いたことがない。
きっと体調を崩せばこんな具合になる。胸が苦しく、体温が上昇して鼓動が乱れていく。頭がまともに回らない。フィリリアは整えていたシーツを抱きしめ、溢れる涙を押さえつけた。
その晩のこと。
食事を終えたフィリリアは、部屋に戻る前に看守長に呼び出された。
霧払いをして檻の中に入ったことが知られたのだろうか。ほんの僅かな時とは言え、魔術師の能力を見くびってはいけない。
それでも不思議と落ち着いていられた。
もう覚悟はできている。
フィリリアは二人の看守に連れられ看守長の部屋に足を踏み入れた。
「フィリー。よく来たね」
看守長は彼女を囲っていた看守二人を部屋から出し、たっぷりの布であつらえたローブをひらめかせてフィリリアを歓迎した。
彼の笑顔はいつ見ても完璧なものだった。わざと描いたように口角は上がり、頬骨が持ち上がる。皮が動くことで現れる目元の皺はなめらかな肌に不釣り合いだ。彼の太い眉毛も髪と同じ美しい銀白色。紺色のローブには金の糸で夜空の刺繍が施されている。フィリリアは彼の笑顔に凛とした表情を返した。
魔術師としても位が高い看守長。そんな彼の部屋に招かれることなどこれまでもない。自分が何故呼ばれたのか、フィリリアには見当がついている。
裁かれるべきことは受け入れる。
恐れのない眼差しで、フィリリアは彼に対する敬服を示す。
「君は守り人の中でも極めて優秀で将来有望な存在だ。私たちは、君のこれからの成長を楽しみに待っていた。フィリーもそれは分かってくれていただろう?」
「はい。もちろんです」
フィリリアは片足を斜めに引き、もう片方の足の膝を軽く曲げる。
「ふむ。それは喜ばしい。きちんと伝わっていたのだね」
看守長は満足そうに自らの顎を撫でる。
「ならばどうしてそれを裏切るようなことをする?」
厳格な彼の声にフィリリアの心臓が一度強く鳴る。
やはり彼らには知られているようだ。
フィリリアはどうにか心を強く保とうと瞳に力を入れた。
「申し訳ございません……早くご報告すべきでした」
まずは霧払いができるようになったこと。その兆しについて伝えなければならなかった。本来の義務を怠ったことをフィリリアは深く反省する。
しかし看守長は彼女の懺悔に首をひねった。
「報告? まぁ、報告、できるのならすべきことだ。だが、報告したからといって許されることではない。君が犯した罪は重罪だ」
早くも本題に入ろうとする看守長の口ぶりに、フィリリアの指先が冷たくなっていく。
「フィリー。君のこれまでの貢献には感謝している。でも、流石に今回のことは見逃せない。囚人と声を交わすなど言語道断。なぜそんなことをした」
「──静寂が怖かったから、です」
「そんなものを怖がるようでは守り人として相応しくない。フィリー。嘘はやめなさい。君の守り人としての素質は、誰よりも私が分かっている」
看守長はフィリリアに近づき彼女の髪を手に取る。
「私たちがいかに工夫してこの監獄を作り上げたか、君はよく理解しているだろう? ただ痛めつけるだけでは何の意味もない。普通の人間は罪を犯そうとも思わない。どこかで制御がかかるものだ。それを正気という。だが罪人たちはその心を持ちえない。いくら更生を目指しても無駄だ。人は善くなれるなど戯言。だから私たちはこの場所を作った。心に欠陥のある彼らに相応しい場所を提供し、永遠の住処を与える。ここにいる囚人は恵まれているよ。痛めつけられることなどないのだからね。罪を犯した分、心で償ってもらうんだよ」
彼の手からフィリリアの髪が落ちた。
看守長はにこやかに微笑んでローブを翻す。
「囚人たちには永久の絶望を味わってもらわないとならない。希望など、もってのほかだよ」
看守長の鋭い眼差しがフィリリアの方を振り返る。
「光を見つけた心に罪など償えない。フィリー、君は囚人に希望を与えた。これほどの裏切りを、私は未だかつて知らないよ」
「看守長さま……」
反論など何も出て来なかった。看守長の言うことは真実のみ。
フィリリアは彼の視線をしかと受け止め、背筋を伸ばして口を開く。
「罪は、自らで償います」
彼女の精悍な声に、看守長は目を細めて光のない瞳を彼女に向けた。
*
フィリリアの代わりにネーベルの前に姿を現したローリーは、フィリリアがネーベルの希望となったことで審判を受けたと彼に伝える。
まだ話は途中だった。しかし霧の中にいる背の高い影がぐらりと揺れたようにも見えた。
「それで、フィリーは塔に監禁されたよ。看守長たちは正義感が強い。仲間だろうと例外なし。容赦しない。君のせいで、フィリーはもうあの場所から出られない。看守長がこの裏切りを許すわけがないからね。囚人を厳格に罰することが彼らの大義なんだから」
ローリーは元凶となった彼のことを睨みつける。霧の中の影を見ているだけでぎりぎりと全身を憎悪が巡っていく。小柄な彼の身体が悲憤に満たされ、悔しさで血を吐きそうだった。
「そんな──」
ネーベルの声が微かに霧を縫って聞こえてくる。ローリーはバケツを放り投げ、組んでいた腕を勢いよく解いた。
「まだ話は終わってない! 勝手に喋るなよ!」
威嚇するローリーの声にネーベルは黙り込む。
静寂が戻ったことを確認し、ローリーは先を続けた。
「フィリーが受けた制裁はこれだけじゃないんだ。塔に監禁されるだけじゃない。看守長はかつてない出来事にご立腹なんだ。彼女のことを可愛がっていたことが裏目に出た。フィリーは──……」
ローリーの声が怒りで震える。一度息をのみ込み、拳を握りしめた。
「フィリーはもう長くない」
先ほどまでの威勢が嘘のように虚しい声だった。
ローリーはこぼれ出した涙を袖で拭い、ネーベルのことを睨み続ける。
「看守長は彼女に毒を与えた。フィリーは僕らとは違って魔力の耐性が強い。もし僕だったら、二秒後には死んでいた。でも、彼女は違う。耐性が強い分、長い時間苦しむんだ。それでももう三日経つ。一週間以上は彼女でも難しいだろう。それに……ずっと苦しみにつきまとわれるくらいなら、いっそ、死んでしまった方がマシなのかもしれない。それが今の彼女への精一杯の慰めなんだ。……塔の中で、彼女の命はもうじき尽きる……ぅぐっ……どうして……どうしてあんたなんかのために……!!」
ローリーは憎しみに満ちた雄叫びを上げた。
ぼろぼろと涙が頬を伝い、白の視界がぐにゃりと歪む。
「僕はばかだ……前にここでフィリーを見た時に……僕のせいだ。彼女を止められたのに……!!」
その場に崩れ落ちていくローリー。
ネーベルはくたりと地面に落ちる肉の塊を見つめ、肌を突き刺す細かな針の感覚に苛まれる。細くなっていく気道。息をすることが憎い。彼女の微笑みが白靄に霞みゆく。
「──なぜ君は、それを俺に教えてくれるんだ? 俺のことを殺したいほど憎んでいるだろうに」
どうにか平静を装い、ネーベルは静かにローリーに尋ねる。
「これが僕ができる恩返しだからだよ。フィリーが代理を務めてくれたから今の僕がある。君は知らないだろうけど、こっちの世界だって楽じゃない。競い合い、蹴落とし合うのが僕らの常だ。彼女が穴を埋めてくれなかったら、僕はお払い箱になってた。でも、彼女は快く引き受けてくれた。彼は必ず戻ると言って僕の居場所を守ってくれたんだ」
地面に近づいたままのローリーが息を切らしながら答えた。彼の泣きじゃくる声がネーベルの思考を更にぐちゃぐちゃにする。
ネーベルは彼の泣き声から逃れようと瞼を閉じた。
目の前に現れるのは彼女の笑顔と朗らかな声。
瞳を開けたネーベルは、ローリーが崩れている隣の空間に目を向けた。彼女がいつも待っていた場所がある。
フィリリアに触れたあの時に進んだ道。
ローリーが言ったように、ネーベルは暇を言い訳に洞察力を磨いていた。
鍛えられた彼の勘。もしこれが間違いではないのなら。
「……──君、名前はなんていうの?」
「ローリー……」
弱弱しい声が返ってくる。
ネーベルは彼がいる先を見据え、慎重に深呼吸した。
「ローリー。怠慢だなんて言って悪かった。君は、立派な守り人だ」
それだけを告げ、真っ直ぐに前を向く。天命を見誤ってはいけない。胸中にまで侵入する靄をネーベルは打ち払う。
ローリーが顔を上げた時、彼がいた場所に影は残っていなかった。
霧靄がうねるように怒号を上げる音が聞こえてくる。
ローリーはその音にぞっとし慌てて立ち上がった。
涙は止まり、目の前の霧靄がぐわんぐわんと揺れる様をじっと見つめる。中で何かが起こっていることは明白だった。森が暴れる悍ましさにローリーが息をのんだ瞬間、黒の大木のすぐ傍から霧の塊が大砲の如く飛び出してきた。
「うぎゃああっ!」
意図せず悲鳴が漏れた。弾丸を思わせる塊が目の前に崩れ、ローリーは尻もちをつく。外側に現れた白靄の塊は魔物の身体を描いていた。次第にばらばらと解け、真の姿を見せる。
「君がローリーか」
引き裂かれた綿の如く千切れゆく霧から姿を現したのは、肩を大きく上下させた男だった。服は乱れ、ダークブロンドの髪には霜が降りる。息苦しさを残した呼吸を繰り返し、内蔵が裏返るさまを思わせる乾いた咳をしながら立ち上がる。
背が伸びていく彼の姿をローリーは尻もちをついたまま見つめた。
「これも恩返しなんだろ?」
痰が絡まり擦れた声。彼は口元に手の甲を当て、飛び出た際に地面に打ちつけた顔面の土を払う。
自分のことをぽかんとした表情で見上げるローリーにネーベルはくすりと笑いかけた。
ローリーは黙ったままこくこくと頷く。まだ声が出ないようだ。
「君が最後まで仕事をしないのは、霧を薄めるためだったんだな──フィリーがしていたように」
ローリーはまたしてもこくこく頷く。先ほどよりも瞳が丸くなっていた。
「ほら」
ネーベルに手を差し伸ばされ、ローリーは戸惑いながらも彼の手を取って立ち上がる。そのままネーベルのことを亡霊を見るような目で見つめたまま問いかけた。
「……──気づいてくれた?」
「ああ。どうして君がそんなことをするかなんて分からないけどな」
ネーベルは自分が抜けてきた霧靄の障壁を見やる。
「君が正解。これは恩返しだよ。フィリーが仕事の手を抜くはずがない。でも、この六時の区域の終わりだけ、彼女はしばらくの間聖水を撒かなかった。そんなのわざとじゃないとやらないよ。だからそれが、フィリーの望みなんだろうと思って」
ローリーは眉尻を下げてネーベルが見ている箇所に目を向けた。
「前に、君とフィリーが話していたのにも気づいたよ。君はすぐに消えてしまったけど。その時のフィリーの表情が忘れられなかった。だから……本当は止められたのに、僕にはその勇気がなかったんだ」
「ローリー、頼むから自分を責めないでくれ。俺だけを恨んでいればいい」
「……──もちろん。言われなくてもそうさせてもらうよ」
ネーベルを横目で見上げ、ローリーは鼻で笑う。
「どうして霧が薄まってるって気づいたの?」
「君がヒントをくれたからだろ」
倒れていたバケツから聖水がこぼれていることに気づき、ローリーは空になったバケツを立てる。
「そうだ。君にもう一つ教えておかなきゃ。霧の中にはたくさんの魔術がかかってるって知ってるよね? 君たち囚人は四六時中濃度の高い霧を吸い込んでいるから逃れることはできないって」
「ああ」
「じゃあ──」
「もちろん知ってる。毒が入ってるんだろ?」
「──うん」
臆することもなく、ネーベルは言葉を濁すローリーにはっきりとした口調で答えた。
「前に他の囚人から聞いたことがある。俺たちは外に出られても一時間足らずで死に至るってな。だから脱獄なんて考えるだけ無駄だと。ここの看守の正義感の強さにはほんと、脱帽するよ」
「……──君がどこまで耐えられるかなんて分からない」
ローリーはネーベルのことを吟味しているのか全身を舐めるように見る。
「でも、君にしかできないことだから……」
「ローリーの想いは無駄にしない」
ネーベルはローリーの肩にぽんっと手を乗せ、ニヤッと笑ってみせた。
「俺に賭けてくれたこと、感謝する」
「──フィリーのためだよ」
「分かってる」
「塔の場所はあっち。森のくぼみにあるから、見えてくればすぐに分かる」
「ああ。ありがとう」
ローリーを通り過ぎ、ネーベルは霧が薄っすらと浮かぶ森を見やる。
「あっ! そうだ……っ! ちょっと待って!」
ネーベルが一歩足を踏み出した瞬間、ローリーが何かを思い出したのか慌てて呼び止める。
「僕のこと、殴ってくれない?」
「……──ん?」
突拍子もない依頼にネーベルは眉間に皺を寄せて振り返る。
「協力者だと思われるのはご免だ。偽装のために僕のことを殴ってよ。止めようとしたけど力でねじ伏せられたようにしなきゃ! さぁ! 殴って! できれば気を失うくらい!」
「それは……ちょっと難しいかもしれないが」
ローリーの瞳は興奮できらきらと輝いて見える。非日常的な出来事と、フィリリアへの恩返しを遂げたい願望に気分が昂っているようだ。自らに殴られることを待ちわびる彼の期待に満ちた表情に困惑しながらも、ネーベルは踵を返して彼の前に戻っていった。
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