4 交渉
フィリリアの賭けは最終日を前にしてすべて黒だった。
ローリー復帰の前日。館では彼のために御馳走が用意されることになっている。ガレをはじめとして喜ぶ仲間たち。早く仕事を終えて誰よりも先に食堂に入るのだと意気込むガレを横目に、フィリリアはローリーの部屋の前を通り過ぎる。
恐らくフィリリアは、いつもより豪華なケーキを食べることはできない。
「フィリー。今日が最後なの?」
聖水を撒くフィリリアを観察しながら、ネーベルが爽やかに訊く。
「はい。明日には担当が戻ります」
「体調回復したんだ。それはめでたい」
ネーベルの声色は柔らかかった。嫌味もなく、本当にローリーの復帰を歓迎しているように聞こえる。優しい声。しかしフィリリアの胸に届く頃には小さな針と化す。
「そうしたらもう、フィリーには会えない?」
気まぐれな問いをするネーベル。
チクチクと肌が痛む気がして、フィリリアは気を紛らわすために声を少し堅くする。
「そうですね。わたしはもとの区域だけの仕事に戻りますから……今度は彼に声をかけてみたらどうですか?」
「守り人は俺と話したくないんだろ? 前も応えてくれなかったし、病み上がりだからと言って気が変わるわけでもないだろう。あまり期待はできないな」
「そうですか」
フィリリアの声の変化に気がついたのか、ネーベルは淡々と作業に集中する彼女の動きを丁寧に目で追う。
「代理も大変だったろうね。何か労いをできればいいけど、あいにく俺にはできることが見つからない。もっとも、フィリーは俺の相手をする必要がなくなって楽になるかもしれないけど。俺は少し寂しいよ」
両手をポケットに入れ、ネーベルは足元に落ちている木の実を軽く蹴る。
フィリリアは動きを止めることなく無表情のまま息を吐く。
「会話の相手がいなくなるからですか? 本来、それが普通のことなのです。誰かと話をしたいなら、中で仲間を見つけてください」
フィリリアは無意識のうちに言葉に棘が生えていることに気づかなかった。ただ少しの意地悪を言ってみたかっただけ。そんな意図が思わずして出た。
この数週間はフィリリアにとっては特別だった。これまでずっと沈黙を守り続け、囚人に干渉などしてこなかった。ましてや夢を教えるなんて。
ネーベルにとってはただの暇つぶしだったことは理解している。
けれど彼女は知らず知らずのうちに彼との会話の時間を楽しんでしまっていた。
彼は罪人。自分は守り人。看守長に命を与えられた存在。
関わってはいけないことなど分かっていたはず。それでも彼の話を聞くことを求めてしまったのは、やはり間違いだった。
フィリリアは自らの愚かさが惨めになり、ネーベルの影を見ることもなく視線を手元に集中させる。
「それじゃ意味ないよ。この中にフィリーはいないんだから」
ネーベルが軽快に笑いながら落ち葉を一枚拾い上げる。しばらく観察して、すぐに葉は彼の手から落ちていく。
フィリリアは自分を責めることを止められなかった。またしても、彼の話を聞いてみたいという欲が出てくるからだ。
「わたしじゃなくても、会話をできる人は中にいるはずです。皆が皆、自我を失っているわけでもありませんから」
「そうだとしても。俺が話したいのはフィリーなんだ」
「……我儘ですね」
あと少しでバケツは空になる。
フィリリアは一気に仕事を終えようと歩を早めていく。
これが終われば、もう彼と関わることもない。
使命にそぐわない欲望が顔を覗かせることもようやくなくなる。
フィリリアはその時が一刻も早く来ることを望んだ。
「フィリー。もう最後なんだ。少しだけ、俺の我儘を許してくれない?」
「そんな義理はありません。あなたは囚人ですよ」
「ああ。分かってる。だからこそ、この瞬間が大切なんだ」
ネーベルの全てを達観したような声。フィリリアはこの声が苦手だった。相手の意志に委ね、強制などまるでない。心の隙間に入り込まれた気分になって、フィリリアは咳払いをして誤魔化す。
「──ならば一つ、条件を受け入れてください」
「条件?」
これまでになかった新たな提案にネーベルの声が好奇心を帯びる。
「あなたがここに収監された理由。それを教えてください」
「──……なるほど」
彼はあくまで罪人。
彼のことを何も知らずに要望を受け入れることなどフィリリアにはできなかった。
ネーベルは彼女の条件にこくりと深く頷き腕を組む。
「当たり前の要求だ」
感心した声。彼が怒るのではないかと構えていたフィリリアの心臓が緊張から解放される。
「君が聞きたいというのなら、俺の話を聞いてくれる?」
「……はい」
「うん。分かった」
ネーベルはクスリと笑って近くの丸太に腰を掛ける。
フィリリアも作業を中断し、彼の影を真っ直ぐに見つめた。
「前に俺の故郷が南にあるって話したの、覚えてる?」
「はい。覚えています」
夢を話した日だ。忘れるはずがない。
「その故郷にも、このダズワルドと同じく魔術師がいた。数は多くない。俺が育った街に魔術師一家が住んでいた。ただそれだけだ。当然彼ら一家と俺たち庶民に関わりなどなかった。彼らも俺たちには興味がなかったし。ただ暖かい気候が好きだからと、ちょうどいい街に家を構えることにしただけの理由で彼らはそこにいたからさ」
ネーベルは手を組んで肘を膝に乗せる。フィリリアは座ることなく、その場に立ったまま話を聞く。
「別にそれで互いに迷惑することもなかったし、俺たちは魔術師たちとは一線を画して生活し続けた。街には俺の友だちもたくさんいてさ。魔術師がいることなんか忘れて、ただ賑やかに日々を過ごしていた。しばらくして俺は旅に出て、長い間街には戻らなかった。その間、友だちたちもそれぞれ成長した。だから久しぶりに街に帰った時、俺は楽しみで仕方なかった。どんなに旅をしても、やっぱり故郷は特別なんだと思い知った瞬間だったよ」
ネーベルは当時を思い出して肩をすくめて笑う。
「だけど街に戻った時、以前とは違う様子に驚いた。魔術師一家の影響力が増していて、魔術師以外の皆は表情に怯えを浮かべたままそれが染みついていた。元からいた魔術師が仲間を呼んだことで、彼らの存在感が増したっていう話だった。俺は旅で、魔術師にも色んな人間がいるってことを知った。だが故郷に蔓延る魔術師たちは、あまり印象の良い人たちではなかった。横暴で、力に身を任せて恐怖で人々を従わせる。別にそれでいい。尊敬などされなくてもいい。ある意味で割り切った身勝手な奴らだ」
いつも穏やかさを残しているネーベルの声に力強さが宿る。見えない瞳は、恐らく嫌悪の色を浮かべていることだろう。
寒気を覚えてフィリリアの身体が縮こまる。
「俺が街に戻ったのには理由があった。幼馴染の一人が結婚したからだ。その祝いに俺は故郷に戻った。だが式の後、店で内輪のパーティーをしていた時だ。二人の魔術師が店に来て、貸し切りだと言って断っても譲らなかった。仕方なく店主が店に入れたら、花嫁のブレスレットを見て言ったんだ。最初、自分を拒んだ謝礼はあのブレスレットでいいと。彼女は当然断った。花婿も一緒になって丁重に断ったんだ。ほかは何を持って帰ってもいいが、これだけはやめてくれと。指輪ですら差し出す覚悟だった。でもあの人たちはまたしても譲らなかった。そのブレスレットが気に入ったから、それじゃないと駄目だ、と」
フィリリアは夢中になって彼の話を聞いた。
自分が知る魔術師は、ここにいる善良で正義感のある彼らだけ。
ネーベルの声を聞くたびに、フィリリアの心はハラハラと揺れていく。
「俺たちも勘弁してほしいとお願いした。でも、まぁ、あの人たちが聞いてくれるわけもなく。結局、ブレスレットを彼女の手首から奪い取った。彼女は泣き叫んだよ。あいつらは魔術師だ。普通、俺たちのような人間に向かって術は使わないだろう。暗黙の秩序と矜恃があるからな。けど怒った奴らは彼女の手首を落としたんだ。だけど彼女が泣いたのは痛かったからじゃない。あのブレスレットは、彼女の母の形見なんだ。代々受け継がれてきた宝。だからこそあんなになるまで抵抗した。奪い返そうとした花婿にも傷を与えて、奴らは店を出ていった。一方的だった。警察に訴えても意味がない。奴らも仲間だ。他の街じゃ知らないが、少なくとも俺の故郷では、魔術師に罰が下ることなどない」
「魔術師だって、罰せられるべきはずです……」
「普通はそうなんだろう。でも、普通なんて場所によって変わる」
ネーベルはフィリリアの控えめな声に寄り添うように答える。
「二人は結局傷を負ったまま。どうすることもできない。俺はそれが許せなかった。だから、魔術師の家に忍び込んで、奴らからブレスレットを取り返した──……でも捕まった。それでここに送られたんだ。魔術師たちは俺に危害を加えられたと、花嫁にしたように自らの手首を切り落とした。もちろん、俺が捕まった後でちゃんと戻したらしいけどな」
フィリリアは言葉が出なかった。
ダズワルド監獄は過酷な環境なだけあって罪人の中でも罪の重い者しか収容されない。しかしネーベルの話だと、この監獄に送られるだけの罪とは思えない。
恐らく魔術師たちが被害を誇張して報告したのだろうとフィリリアにもなんとなくは察せられた。だがどうしてそこまでのことをするのか。フィリリアには彼らの意図が分からなかった。
「あの街で魔術師に歯向かう奴なんていなかった。それが気に食わなかったんだろう」
フィリリアの腑に落ちない空気が伝わったのか、ネーベルはそう補足して軽く笑う。
「唯一の救いは、ブレスレットをちゃんと返せたことだ。流石の奴らもこれ以上の騒ぎを嫌い、もうブレスレットを奪うことはしなかったそうだ」
彼の声に安堵が滲む。
彼が嘘をついていないことはその声で分かる。
視界が曖昧な世界。フィリリアの声を読む能力は外の人間よりも長けていた。
「これが俺の話……フィリー、あと少しだけ、俺の相手をしてくれる?」
ネーベルの顔がこちらを向く。フィリリアは八時の点を横目で見やり、バケツを握りしめた指に視線を向けた。
「…………はい。約束ですから」
「ありがとう、フィリー」
ネーベルは立ち上がり、身振り手振りをまじえて恭しく頭を下げてみせる。
「それで──何を話しましょう?」
フィリリアは覚悟を決めて問いかける。
これで最後。これ以上の彼への干渉は一切やめればいい。
彼女は自分の心に言い聞かせた。
ネーベルは頭を上げ、凛とした声を霧の中に轟かせる。
「フィリーの話。君の声を、ちゃんと耳に残しておきたいから」
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