3 賭け
視界の奥まで広がる霧の塀を、フィリリアはじっと見つめる。
両手にぶら下げたバケツの中はもう空だ。
彼女は瞬きも少なに静かな呼吸で一点を見つめ続けた。
じりじりと瞳に靄が張り付く。睫の毛先に細かな粒が実り、雫が滴る。
それでもフィリリアはその場から動こうとしない。
もしや、今日こそ彼は迷ってしまっただろうか。
何も入っていないバケツを見下ろし、フィリリアは息を吸い込むために小さく口を開けた。まだ帰るには早い。数日間の賭け事についに終止符が打たれる。勝っても負けても参加者は自分だけ。損も得もない。けれど、勝利を目前にしても心はすっきりしそうになかった。
ローリーが入院している間、彼の代理を務め続けたのはフィリリアだ。
はじめにこの区域に足を踏み出してからもう二週間は経った。
ローリーの体調も順調に回復している。看守長たちは彼の回復力が向上していることを喜び、フィリリアもまた同僚の復帰を心待ちにしていた。
彼の復帰は早ければ七日ほど後。フィリリアの負担もようやく軽くなる。
だからこそ、あと少しだけだったのにと口惜しい気持ちが出てくるのかもしれない。
微動だにしないフィリリアの脳裏には、ここ数日間の記憶が蘇ってくる。
ネーベルにまた明日と言われた次の日、彼は前の日と同じようにフィリリアのことを見つけて声をかけてきた。その次の日も同じ。また次の日も。いつの日も。
彼の声はいつ聞いても囚人とは思えないほどに砕けていた。
彼と言葉を交わす間にも、何人もの囚人が脱落していったというのに。彼だけ別の場所にいるのではないかと疑うほどに、彼は患いには無関係な調子を纏っていた。
けれど彼の口から出てくる話は紛れもなく霧の中のもの。
フィリリアはあまりよく知らない霧の中の話を聞きながら仕事をすることに慣れてきたところだった。
本来ならば積極的に耳を傾けたくはない牢獄の話。しかし彼が話すと霧中の生活もそこまで悲劇的なことではないのだと錯覚してしまう。彼の話は不思議とフィリリアの興味を誘った。
「フィリー、知ってる? この中にいると、人間は腐ることがないんだってさ。身体が汚れることもなくて、清める必要なんかないんだ」
ある日も、ネーベルは飄々とした声でフィリリアに神秘の話をする。
「いいえ。看守長たちがかけているまじないを、わたしたちは詳しく知らないですから」
作業のために視線を下に向けたままフィリリアは相槌を返す。
「へぇ。そうなんだ。看守長たちは秘密主義? 仕事仲間なのにね?」
「知ったところで彼らの役に立てるわけでもありません。わたしたちと彼らは違うのですから。同じ立場に立とうなど思いません」
看守長をはじめとし、監獄を管轄する者たちはほとんどが魔術師だ。ネーベルもそのことを知っているはず。フィリリアは魔術師と他の人間をさも同等に扱おうとする彼の口ぶりに怪訝な表情をする。ダズワルド監獄に収容されているということは、彼だって魔術師側の人間ではないのに。
フィリリアのそっけない返事にネーベルはクスリと笑う。
「そっかぁ。でもよかった。もし君たちの提案だってことだったら、俺はフィリーに猛抗議をしなくちゃいけなくなる」
「それは……どういうことですか?」
また意味の分からないことを言う。
フィリリアは顔を上げてため息を吐く。
「清潔でいられるまじないは、どちらかと言えばあなたたちに対する恩情だとわたしは考えますが」
しかしネーベルはフィリリアの見解に首を横に振る。
「確かに誰かと鉢合わせた時に互いの嗅覚が無事なことには感謝するよ。そうそう。ついでに言えばさ、俺たちは空腹を感じることもないんだ。何日も食べ物と出会えなくても飢餓に苦しむこともない。この濃い霧の中を探すのは大変だからね。このまじないがなければ、皆、一週間も経たずに飢えてたんだろうな」
「そうですね。流石に、飢え死にを見過ごすのはわたしたちも望みません。看守長たちは悪魔ではありません。ただ、罪を省みて償ってほしいだけ」
「そうだな。考える時間だけは無限にある。でも俺は看守長たちは立派な悪魔だと思うけど」
ネーベルははっきりとした声で言い切る。
「新手の嫌がらせだよ。ずっと清潔でいるのも、空腹を忘れてしまうのも」
彼は続けて呟く。
そこでフィリリアは前に彼に聞いた話を思い出す。これを思い出せば、彼も看守長たちが悪魔ではないことを認めてくれるかもしれない。
「空腹にならないのなら、何故、食べ物を見つけた時に喧嘩が起こるのですか?」
フィリリアが尋ねる。ネーベルは彼女の問いに興味を持ったようだ。木にもたれていた頭を起こし、顔をフィリリアの方へと向ける動きが見えた。
「飢えや不衛生は自然と人の心を乱します。そうなると、確かに気がささくれて対立が起こるでしょう。看守長たちは、それを避けるために霧にまじないをかけたのに」
「なるほど。そういうことか」
フィリリアの主張にネーベルはわざとらしく声を弾ませる。
「だから……喧嘩する必要なんてないはず……」
彼の反応にフィリリアはまた訝し気に顔をしかめた。まるで的外れ。彼の声は確かにそう言っているように聞こえたからだ。フィリリアの声が霞に消えると、ネーベルがくすくすと笑う。
「看守の気遣いに気づけなくて悪いな。悪魔は言い過ぎたかもしれない。でもやっぱり、これからも喧嘩は起こる。申し訳ないけど、それは見逃してくれないか?」
「どうして、そうなるのでしょう……?」
「食べ物を見つけた時。お腹は空いてなくても、かつて知っていた感覚を思い出すんだ。お腹が空いた、飢えて死んでしまいそうだって。実際にはお腹は空いてないんだからただのまやかしの錯覚でしかない。でもその感情が蘇った瞬間だけ、他の感覚も思い出すことができる。ああ、俺、生きてたんだ、って」
「生きてる……?」
「そう。いくら森の中を歩き続けても汚れることも腐ることもなく、空腹もない。それじゃ、俺が生きていることを何で証明すればいい? 髪も髭も伸びないから時間も分からない。息を吸っても身体中の毛穴からすぐに酸素が抜けていく気分だ。声を出しても誰にも届かない。痒みも痛みも、何も感じない。でも、あの瞬間だけ。あの一瞬だけは、俺の心臓がまだ動いていることを教えてくれる。だから皆、必死になって食糧を手に入れたくなるんだ。あれを口にすれば食欲を思い出すかもしれない。そうすれば、自分が生きているか自らに問う必要なんかなくなる。自分のためだ。そりゃ喧嘩にもなる」
ネーベルは少しの間を置き、フィリリアの反応を待つ。けれど彼女は何も言わない。フィリリアの作業の手はすっかり止まっていた。屈めていた身体は立ち上がり、じっとネーベルの方を見ている。しかし返事はない。彼女の声が聞こえてこないことを察し、ネーベルは自嘲するように笑う。
「悪いな。仕事の邪魔ばかりしてさ」
バケツの中で聖水が波打つ音がした。
ネーベルが再び彼女の方を見やる。彼女がどこを見ているのかは分からない。けれど不思議と、彼女と目が合ったような気がした。
それはフィリリアも同じだった。
彼の瞳に自分の表情が映っている。そんな確信のない感覚に包まれた。
「邪魔ではありません……あなたの話は、面白いです」
何故そんなことを言ったのか、本当のところはフィリリアも分かっていなかった。
顔が見えないのだから嘘をつくことは簡単だ。
ネーベルがどう捉えたのかはフィリリアには判断がつかない。
けれど例え彼の瞳にはっきり自分が映っていたとしても、フィリリアには後ろめたさはなかった。
霧靄の向こうは深い白に包まれたまま。
フィリリアの瞳に映っていたはずの過去の彼の姿は消え、ただひんやりとした空気が喉を通るだけ。
ネーベルは現れない。
ローリーの代理を務める間、フィリリアは毎日欠かさず彼に対する賭け事をしていた。
今日、彼は現れるのか、現れないのか。
フィリリアはいつも現れない方に賭けていた。実際、霧の中を毎日同じ要領で同じ場所に来ることは不可能に近いからだ。現れるはずがない。今日が最後。明日はもう来ない。そう賭け続け、その度にフィリリアは自分に負けてきた。
ローリーの代理は今日を含めても残り少ない。
残りの賭けもフィリリアの答えは決まっていた。
彼は現れない。
やはり彼も他の囚人たちと同じ場所にいる人間にすぎない。
有り余るほどの時間を思考に当て、看守長たちが考えた思いやりのありがたみでも少しは分かってくれるといい。
しかしもう、その答えも聞けないのだ。
賭けの勝利まであと僅か。
一点を見つめる視界の中、彼女は勝敗の結果を待つ。
バケツを握りしめる指先はすっかり冷え、氷のように冷たくなっていた。
けれど手のひらには汗が滲む。
白か黒か。
フィリリアは目を凝らして息をのむ。
瞳に映る真っ白な世界。
その中に、次第に黒が滲んでいく。
「──……負けた」
指先の力を抜き、フィリリアはぽつりと声をこぼす。
賭けていたのは夕食のデザート。フィリリアの大好物でもある。もし負ければ、食いしん坊のガレにあげることにしていた。
一人で始めたこととはいえ、賭けのせいでもうずっと料理長ご自慢のケーキを口にしていない。今日もまた食べられない。
それでも彼女の口元は微かに綻んでいく。
「やっぱり、俺は看守が好きになれないなぁ」
少し乱れた髪を掻く黒い影から、聞き慣れた声が情けなく笑う。
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