恋愛の経験値  大学と失恋 

 彼女に振られた。

 大学に入ってから、大事に大切に付き合ってきた彼女にふられたのは、なかなかのショックで、とてつもないショックで、なかったことにならいかと、何度も電話をかけて、何度かかけて、コール音が途切れないそれを繰り返すうちに、最後は、明るいお姉さんの声で、お客様のご都合によりお繋できません、と断られてしまった。

 茫然として、そうしたらいいのか分からなくなって、とりあえず会社員となった兄にLINEで振られた旨を伝える。

 10分後。絶対に仕事中である筈の兄から電話が来た時は驚いた。

 兄は、近いうちにラーメンを食べに行こうと言い、そしていつもの優しい声で「燈」と俺の名前を呼んだ。「あのな、その痛み忘れるなよ。全身で覚えておけ。糧にしろ。変換しろ。辛さを知らない人間なんて、つまらねぇ話しかできないんだ」

 刻めよ。兄のその言葉が、刻まれる。





 兄の電話から数日後の、休日前夜。

 俺の失恋はバイト先で知れ渡っており、飲み会の口実にされてしまった。

 俺は今朝までクラブのイベントに参加していたので、出来れば帰って寝たかったのだが、先輩方がそれを赦さない。

 年功序列なんて糞くらえと、自分の立場の弱さを呪った。

「これは、あれだ。ねーちゃんにスッキリさせてもらえば、忘れちまうよ」

 酔っぱらいの戯言が実行される運びになるとは思わなかったが、そんなこんなで、俺ともう1人の後輩は先輩のオゴリでピンサロに行く羽目となる。

 後輩は風俗なんて、俺、はじめっすよ!と乗り気だ。

 先輩方は近くのクラブで飲んでるからな、と店に消える。

 その間にばっくれようと思うのだが、後輩が放してくれず、結局、俺も店に入ることになる。

 正直、そんな気分ではないのだが。

 店の中の話は割愛するが、俺はその店の中で、とんでもない事実をつきつけられてしまったのだ。

 その事は後々語るとして、とにかく、スッキリした後輩と蒼褪めた俺は先輩方を店から呼び出す。

 じゃあ、もう一軒行くかという話になり、勘弁してくれとゲンナリしていると、いいタイミングで携帯電話が鳴った。

 兄からだった。ごくりと俺は生唾を飲み込む。

「すんません、兄からなんで、ちょっと…」

 俺は少し大きな声で断りを入れると、兄からの電話に出る「もしもし」

「今、平気か?」

 電話の向こう。珍しく楽しそうな兄の声が聞こえてくる。「平気。どうしたの?」珍しいじゃん」

「ああ、あのさあ、遠野のラーメン食いにいかね?」

「え?今から?」

 遠野と言えば、岩手県だ。一度だけ兄とわさびラーメンを食べに言った事がある。

 東京から確か高速道路で6時間はかかった、はず。

「今から行けば、朝ラーに間に合うだろ。お前、明日休みじゃなかったっけ?」

「休みだけど。兄ちゃんも休みなの?」

「俺は午後出。間に合う、間に合う」

 出張帰りで、一つ締めの仕事が延期になったから早く帰れたんだよ、と兄は言うが、時刻はもうすぐ日付が変わる。早いと言う時間ではない。

 とにかく今車だから、そっち行くわと言うので、助かったと思う。

「すみません、兄が近くまで迎えに来ているので」

 我ながら女子みたいな理由だなと思いつつ、俺はこの場を離脱した。



 見慣れた車が、ハザードランプを出して停車した。兄の車だ。

 乗り込めば、スーツ姿の兄が「久しぶり」と笑って言った。

「ほんと、働き過ぎ」

 シートベルトを締めながら、俺は言った。「車の運転、大丈夫なの?」

「平気、平気。眠たくなったら、停めるわ」

「そうして」

 そして、車は軽快に走り出す。

 都道から首都高都心環状線のランプに入り、次々と慣れたように車線変更をして進んでいく。

 夜中に近い時間だから、トラックやタクシーが多いが、道は空いている。

 何度もある分岐を、兄はすいすい選んでいる。

「すげ、俺には全然わからん」

 俺の感想に兄は「このへんだったら、首都高バトルみたいだろ?」とゲームのタイトルを口にする。「竹橋で左行って関越方面、板橋でやっと東北自動車道が出て来る」

「よく覚えてるね」

「この辺はな。いつもなら板橋で関越出て、藤岡から上信越だけど、今日は板橋から違うルート」

 いつも、というのは、たまに兄と一緒に車で実家へ帰る時のルートだ。

 その時に限らず、俺は乗り物に乗ると爆睡してしまうので、ルートはまったく頭に入っていない。

「そういや、昨日だっけイベント?」

 話を向けられて、昨日のクラブのイベントの華やかさが、脳裏によみがえる。

 夢中でイベントの事を、それを皮切りに、最近の動画投稿の事や知り合った人、そして、自分も動画の投稿をはじめたことを話していた。

 考えてみれば、もう2ヶ月も兄とは会っていなかった。

 お互いに忙しい身ではあるが、その忙しさの内容は、俺と兄ちゃんはまったく違う。

 俺の忙しさは自分のやりたいこと故のものだが、兄ちゃんのそれはただただ会社で働いているだけのものだ。

 ”社畜””ブラック企業”という言葉は当時なかったが、確実にその単語は兄にガッツリと縛りあげていた。

 気づけば、先ほどの東京のネオンは姿を消していた。

 道路の両側はすっかり暗くなり、街灯のオレンジ色の光が道路を照らしている。

 俺が大きな欠伸をすると、兄は笑って、左手で俺の肩をポンポンと叩いた。

「つき合わせて、悪いな。眠いだろ?寝てろよ」

「大丈夫」

 眠たくなってきたのは事実だが、それでも、久しぶりに会った兄ちゃんとの時間が勿体ないと思うのも事実だ。

 眼を擦りながら、俺は久しぶりの、兄の横顔を見る。


”その彼女、よっぽど上手だったのねえ”


 ピンサロの可愛いお姉ちゃんの科白が、耳によみがえる。

 後輩と並んで、可愛いおねえちゃんに咥えられた時はドキドキした。後輩はそりゃもう瞬殺で抜かれていた。

 けど、俺は。

 気持ちよかったけど、でも何故か口では抜けなかった。

 手扱きをしながら、お姉ちゃんが先の科白を口にする。

 違うのだ。

 俺は今まで、彼女に咥えてもらったことはない。

 そうしてくれたのは、1人しかいない。

 そして。

 風俗店のプロよりも、兄ちゃんの方が気持ち良いと思うのは、どういうことなのか。

 もしかしたら、思い出が美化されているだけなのかもしれないが、それでも、お姉ちゃんに咥えられた時に、兄ちゃんの方が気持ち良いと思ってしまったことに、少なからずショックを受けたのも事実だ。

「どうした?物欲しそうな顔で」

 ぼんやり兄を見ていたら、不意にそんなことを言われる。

「あ、いや、さっきピンサロで…」

「ピンサロ?お前ピンサロ行ってたのか」

 しまった、と後悔しても遅い。眠かったせいか、誤魔化す事すらできなかった。

 兄ちゃんは「ふーん」と言って少し笑って「で。ちゃんとスッキリできたのか」

「…………してない」

「え?マジか」

 金持ったいねーと兄は言うが、出なかったのはしょうがない。第一俺の金じゃねぇし。

 休憩するか、と兄は矢板北PAでウィンカーを出した。

 パーキングエリアだが軽食のとれる喫茶コーナーがある。

 さすがにこの時間となると、店内は常夜灯のみで、暗かった。

 次の黒磯PAにコンビニがあるからか、このPAはほとんど車がいなかった。

 俺たちは車を降りると、大きく伸びをする。

「トイレ、行ってくるか?」

「まだいい…」

 兄の声かけに、まだいいと答えようとして、その真意に気づき、俺はドッと赤面した。

 さっきの事を兄は気にしているのだ。俺がピンサロで抜けなくて家で一人でしようと思っていたところを、連れ出して、悪かったな、と。

 じゃあ。

 俺の心臓が早鐘をうつ。この感覚、なんだか懐かしい。

 もしかしたら、だ。

「兄ちゃん」

 あのお姉ちゃんが特別下手だったわけではなく

「責任とって」

 兄ちゃんが特別上手なわけではないとしたら

「………くちで、して、ほしい…」

 汗がドッと噴き出す。

 兄ちゃんの顔を見ることが出来ない。

 でも、蘇るんだ。他の人ではだめらしい。兄ちゃんじゃないと。

「お前なあ…」

 くしゃりと、兄ちゃんは俺の頭を撫でる。「いつまでたっても、子どもだな」

 それは、優しくて、でも、聞いたことのないような、兄ちゃんの声だった。


 後部座席に新聞紙を敷き詰めて、俺はドアを背に座る。

 シートを汚したら、ただじゃおかんと、真顔で兄が言ったからだ。

 ズボンを寛げると、店では全然勃起しなかった俺の性器が、勢いよく反り返っている。

「……見ないうちに、でかくなるもんだな…」

「ちょ、言い方…!!」

 兄ちゃんの感想に、俺の頭はパンク寸前だ。自分から言っておいてなんだが、なんで兄ちゃんはいつも冷静でいられるのだろう。

「よ、ひさしぶり」

 兄ちゃんは笑って俺の性器に挨拶をすると(?)そのまま、それを咥えこんだ。

 その快感ときたら。

 兄のその小さな口に咥えられた俺の分身は、その快楽を享受する前に、その兄に咥えてもらったという事実のみで。

 早い話、咥えられた瞬間に、俺は兄ちゃんの口の中に吐精してしまったのだった。

 スッキリした、と思うのと同時に、派手に噎せ返る兄ちゃんの背中を俺は慌てて摩る。

「ごめん、兄ちゃん、大丈夫!?」

「あかりぃ…」

 咳き込みながら、ちょっと睨み付けてくる兄ちゃんに、俺は心臓を鷲掴みにされた。

 すこし赤い顔で口からは、白い白濁が滴り、俺を見る目は完全に俺を喰らう眼だった。

 喉笛に噛みつかれ屈服し兄ちゃんに蹂躙されてしまい、俺は食い尽されるのだ。

 そんな妄想が脳裏を占めたのだろう。

「…お前ね…」 

 俺の性器は、再び硬さを取り戻してしまったのだった。



 岩手県の東和ICを降りて、国道を山道に向かって走る。

 本当の山道であるため、適当な場所に路駐して朝を待つことにした。

 夜通し運転して疲れただろう、兄ちゃんは運転席で仮眠をとっている。

 俺も仮眠をとろうと思うが、うまく眠れなかった。

 夜に、2回も兄ちゃんに抜いてもらったというのに。

 その意味を、俺はどうせ眠れないので、考える。

 男同士で兄弟だから、気持ちいいと思うツボが一緒なのだろうか。

 

 俺は、若さ故、もう一つの可能性には気づかず、この問題に向き合う事はまだなかった。

 


2021.2.24

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