恋愛の経験値 5 秋桜の下の秘密

 保育園児の時。 

 弟と一緒に帰るのは、好きだった。


 

 保育園の秋の遠足も終わって、いつの間にか地面の上にカサカサに乾いた枯れ葉をみかけるようになったころだったと思う。

 いつも迎えに来てくれるばあちゃんが通院日だったから、俺は弟と二人で家に帰る。

 弟は虫を見つけるとすぐに走ってどこかへ行ってしまうから、俺はしっかりと手とつないで帰るんだ。

「ねえ、にーちゃん」

 弟がたずねてくきた。空いた手には、さっき手折った枯れたススキを握っている。

「にーちゃん、ちゅーしよーよ」

「ちゅう?」

 俺は思わず立ち留まって振り返る。

 弟はニコニコ笑って「ほらあ、ウィンスペクターでてきのおんなかんぶとしゅうがちゅーしたじゃん」

「ああ、うん、してたな」

 昨日みた、宇宙刑事ウィンスペクターに、そんな場面があったっけ。

 敵の女幹部が「好きになるのに敵も味方もないの」と言って、キスをされていた。でも、しゅうは、マイコが好きだから、困っていたっけ。

「でさーあのさーてきがむりやりちゅーしたらいやじゃん。しゅうも、さきにマイコとしておけばよかったってないたじゃん」

「ないてたね」

「だからさあ、おれもいちばんすきなにーちゃんとちゅーしておきたい!」

 きらきらと。弟はまるでカブトムシをつかまえた時みたいに、うれしそうな顔で言った。

 むねが、どきどきする。

 俺も、弟が大好きだ。

 大好きなひととちゅーするのは、とてもとくべつなことなんだって、知っている。

 でも。

「…おとこどうしで、きょうだいでちゅーしたらだめだって、ばぁちゃんがいってた」

 おれのことばに、弟は「えー!」と叫んで、くしゃりと顔をゆがめた。

「なんで、なんで?」

 弟がたずねてくる。けど、おれだってしらない。しらないけど、ばぁちゃんが言ったんだ。


「聖哉は頭がいいし覚えとこう。男同士で、兄弟で。やから、燈を好き過ぎたら、だめねんぞ」


 好き過ぎたらってどういうことなんだろう。

 たくさん好きになったらダメなんだろうか。

 でも、今、おれは弟が大好きだ。今のこれはいいのかな。

 でも、目の前でいやだいやだと駄々をこねる弟の気持ちもよくわかるんだ。

 だっておれもしたいと思っていたから。

 だから

「だから、ばぁちゃんに、ないしょ」

「うん!」

 半泣きの顔がパッと明るくなる。かわいいな、と本当に思うんだ。

 誰かに見られたら、怒られるかもしれないから、横のコスモス畑の中に隠れて、二人でしゃがみこんだ。

 触れる柔らかさがとてもあまくて、忘れられない、初キスだった。











 中学生の時だった。

 あんなに狼狽えた兄を見たのは、初めてだった。


 




 結果を言えば大したことなかったのだけど。

 全中の前日練習の時。

 クロスカントリーからアルペンに転向した兄は、スラロームの方があっていたらしく、一気に上位組に食い込んでいた。勢いに乗った兄の転倒を見た時、体から魂も砕け散った音を聞いたような気がしたのだ。

 だから、搬送先の病院で面会の許可が出た時に、その変わりない姿を見た時に、俺のギリギリを保っていた心配の塊がはちきれて、決壊してしまったんだ。

 もう、人の死を漠然としか理解していない年齢ではなかったから。

 滑落が意味する、それに付随する恐ろしい可能性を理解することも、出来ていたから。

 2人部屋の片方のベッドは空いていて、実質、1人部屋だった。

 親が駆け付けて来るまで、俺は兄の傍を離れずにいた。

 怖かった。とにかく怖かったのだ。

 俺は半泣きで、とにかくよかったと兄に言い、兄は「もう泣くなよ」と困ったように笑っていた。

 俺を優しく、幼い子供のように撫でる手を、失わずに済んだことを、本当に感謝する。

 兄は、泣いている俺の涙を優しく、優しく、拭ってくれた。

「…あかり…」

 兄が俺の名前を呼んだ。

 伏せていた目線をあげて、声をかけてくれた兄をみる、と。

 俺が見たのは、迫る、兄の顔と、近づいた兄の綴じられた片目とまつ毛、唇に触れた柔らかな感触。とても懐かしい、それ。

 ざぁ、と。俺はいつかのコスモス畑での、二人だけの秘密を思い出して、頬が火照った。

 ばぁちゃんに内緒といって、ふたりでしゃがみこんで、大好きなにいちゃんと、ちゅーした秘密。

 あの時と変わらない、優しい柔らかさ。

 ああ、兄は生きている、生きて、俺の目の前にいてくれる。

 俺は、ただ懐かしんでいたのだけど。

 目を開けば、俺の火照る頬とは対照的に、酷く青ざめる兄の顔があった。

 唇は紫で、微かに震えている。

「あ、燈、ゴメン…っ…どうかしてた…」

 震える声で、兄は俺に謝罪する。

 あんなに狼狽えた兄を見たのは、初めてだった。

「兄ちゃん?」

 俺は、何故、兄がそんなに狼狽えているか分からず、大丈夫だと分かってもらうために手を伸ばす、と。

 ぽろり、と。

 兄の、その眼から、雫が落ちる。

 まるで、ひとり、恐ろしく寒い世界に放りだされたかのように、兄は、怯えているかのように。

 俺が何か言おうとしたとき、看護師さんが入室してきた。

 そして兄の表情をみて、驚いて何かを叫んでいた。

 銀色の救急カートを持ってきた他の看護師とともに、兄は、腕にバンドをまかれたり、指に何かをつけられたり、色々と検査のようなことがはじまり、俺は、それを見ているしかなかった。

 途切れ途切れに、看護師さんの会話が、耳に入る。


「……ショック状態です、保温して…」

「…バイタル!…脳波、とりますか?」 



 兄の青ざめた顔に、胸が痛む。






「そんなこと、あったか?」

「あったよ!すっごく怖かったんだからね」


 互いに高校生。

 風呂あがりにアイスを一緒に食べる、幸せな時間。

 ふと思い出したことを口にすれば、忘れっぽい兄は、記憶を深くさぐっている。

 そして「ああ」と思い出すと、少し苦い顔をして「それな」と言った。「…まあ、あの時はなあ…ばぁちゃんの言葉を守らないとという罪悪感がなあ」

「前から思ってたんだけおど、ばぁちゃんになんて言われたの」

 素朴な疑問。

 俺たちの祖母は、数年前に亡くなっていた。

 大好きなばあちゃんだったから、ばあちゃんのいう事を守りたいという気持ちは、わかるけど。

 兄は、うーんと唸って、そして「まあ、時効だから、いいか」と言った。

「…ばぁちゃんには、バレてたんだよな。俺が燈を好きだって事」

「ええ!?そんなこと?」

 意外な言葉に俺は反論する。「そんなの、俺だって兄ちゃんの事好きだよ」

 拍子抜けした、というべきか。

 だって、俺たちは仲が良い事で地元では有名だった。

 だから、兄が俺の事を好きだというのは、当たり前のことだろう。

 疑問符で頭がいっぱいになった俺に、兄はやっぱり笑って、俺のあたまをくしゃりと撫でる。


「ありがとな」


 寂しそうに兄が言う。

 礼を言われているのに、なにかがしっくりと来ない気がする。

「あ。じゃあさ」

 俺は、俺の頭を撫でる兄の手を掴んでいった。「あの世で、俺も兄ちゃんが好きだから、ごめんなさいって謝る、兄ちゃんと一緒に怒られてやるよ!」

 俺の言葉に、兄は一瞬きょとんとしてから、ぶはぁ!と吹き出した。

「よろしく頼むわ!」

 

 一緒に謝ろう、秋桜の下の秘密からはじまった、俺たちの心を。


2022.10.10

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