恋愛の経験値 4 サマーラブストーリー

 中学3年の臨海学校は、夏を満喫するのが目的ということで、よっぽどの公序良俗に反することがない限り、自由時間の方が多いのが魅力的なんだ。だから、部活で参加できない連中は悔しがり、部活引退組はこれから始まる受験勉強前の最後の解放感を大いに楽しむんだ。彼女と過ごす夏の海!すばらしい!

だから、すでに大人の階段を登った幼馴染に「夕日をバックにキスしちゃえば?」とか言われて、そんなドラマの主役みたいこと、やってみたいに決まってるじゃないか。と、とにかく意気揚々で。奇跡に的にできた彼女と、夕日をバックにキスなんて、俺の人生勝ち組じゃん!と、力まかせに拳を握って夢を見るんだ。

けど。

「…そういう考えの奴らだらけだから、人気のない場所を探しているうちに夕日が沈むぞ」

 そんな意地悪なことを言うのは、2歳年上の兄貴だ。

 夏合宿を終えて久しぶりに帰ってきた兄に、臨海学校のドラマ特別プランを話したあとの、言葉だった。

「えええ、まじかあ」

 頭で思い描く、誰もいないオレンジ色に染まる夕日をバックに、俺と彼女のシルエットだけが。というのは、無理に決まってんだろ、と兄貴がけらけら笑う。なんだよそれー俺のサマースペシャルラブストーリーを笑うなよーと俺は言うと、兄貴は、スペシャルねえ…と言ってカレンダーを見つめていた。

それから。

兄貴は階下にいる母親に向かって、大声を出す。

「かあさーん、ヒスイのおじさんの家って、今週とか行ってもいいよねー?」

 ええ?と考えていると、階下から「べつに、いいんじゃなーい?」という呑気な返事が聞こえる。

 ヒスイのおじさんとは、糸魚川に住んでいる親戚の家だ。

 遊びにいくと、糸魚川の海水浴場よりも、すこしはなれたヒスイ海岸に連れて行ってくれていたから、俺たちは、そう呼んでいた。そして、糸魚川は今度の臨海学校で行く場所だ。

「下見にいこーぜ。たまには俺も海で泳ぎたい」

 いたずらが成功したガキみたいに、兄貴が笑った。

 クロスカントリークラブの選抜の練習組に入る兄貴は、山のイメージの方が強すぎて、正直ピンとこない。上に、実は泳ぎが苦手なのだ。山側に住んでいるので、海で泳ぐなんて、ここ数年していない。そんなわけで、俺のサマースペシャルラブストーリーの舞台の下見に、今週末、親戚の家へ泊りに行くことになったのだった。なんか、だまされているような気もするが、兄貴がなんだか嬉しそうだから、良しとする。

 考えてみれば、二人で出かけること自体が久しぶりだった。中学に入ってから本格的になったクロスカントリーの合宿に、ほとんど兄貴は家にいないかった。今回だって、このあと、全日本の夏合宿を控えている。そんな貴重な休みなのにいいのかな…と思いつつも、兄貴と一緒に海水浴とか絶対に楽しいやつじゃんとワクワクも止まらないんだ。今年はいい夏だなーと電車に揺られながら、俺は思う。


 硬く青いフェルトの座席に座って、高校の豆単を眺める兄貴を、俺は向かいの席から眺める。いつの間にか細くなった顔つきが、大人のようで。2歳差って大きいな、と改めて思う。いつまで、こうしていられるのだろう。

いつまで、兄ちゃんと一緒にいられるのだろう…。そこまで考えて、俺は慌てて考えを取り消す。いまのなし。兄貴と一緒に暮らせるのは、いつまでなんだろう。

 幼馴染の兄が自衛隊に入り自宅から出て行ったのをみたときから、俺は、家族が出ていくことがあるというのを、目の当たりにしてから、なんとなく薄ら寒い心持になっていた。普通に考えれば、進学や就職で上京するのは当たり前の話だし、今日行くヒスイのおじさんとこにいる俺たちの年上の従兄だって、金沢大学に入ったから、金沢に引っ越してしまった。だから、兄がこの家を出ていくことは、特別なことではないのだけど、だけど、兄と一緒に暮らさない生活がどんなものか、本当に分からない。幼馴染は兄弟がだくさんいるから、それほど寂しくないかもしれないけど、俺には兄ちゃんが……兄貴が一人だけなんだから。

 だから。

「受験生が、随分、余裕だな」

 ふいに、兄ちゃんに話しかけられて、驚いてしまった。いつの間にか、兄ちゃん……兄貴の手元をジッと見ながら考え込んでいたらしい。

「いや、だって俺、兄ちゃんと一緒の学校決めたし」

「え、マジか」

 パタン。豆単をとじて、兄貴が俺に向き直る。「じゃあ、また一緒に通うことになるな」

「ガキじゃねぇんだから」

 一緒に。兄貴の口からその単語が出てくる事に、子ども扱いされている気分にもなるんだけど、だけど、言葉が俺の中にストンと落ちて、じわりと温かくなるのも事実だった。

不思議だ。俺にとって、兄貴の言葉は、直接心に入り込んでくる。そして、とても嬉しくなってしまうんだ。

 最寄りの駅についたら、おじさんが迎えに来てくれていた。久しぶりの親戚に緊張してしまうが、兄貴はまさしく優等生のように挨拶をする。さすが、長男だな、とよく親戚に言われていたのを思い出す。

 荷物を置いて、すぐに俺たちは海岸に来た。海水浴場になっている砂浜は、砂というよりも石の方が多い。まだ人もまばらで、この7月のはじめでは泳いでいる人もそれほどいない。北陸の夏はあと少しといったところだった。少し薄い雲のかかる空と白い波が寄せては返す、石の浜が、俺たちの知る「海」だ。

 ビーチサンダルごと海に入ると、水の冷たさに少し震えるが、そこの浜茶屋でわざわざ購入したでかい浮き輪に乗るのも楽しみで。「にいちゃん、行こう!」と声をかけると俺はもう水の中を駆けだしていた。「おい!」ととがめる兄ちゃんの言葉を背に、俺はビーチサンダルを浮き輪の脇にたれさがるロープに無理やり結び付けた。

「準備運動しろよ」

 遅れてきた兄ちゃんが、やっぱり優等生なことを言う。俺たちは大きな浮き輪に二人で掴まって、空を見上げていた。

「なつだねー」

「なつだなー」

「なみだねー」

「なみだなー」

「とりだねー」

「とりだなー」

「なつだねー」

「なつだなー」

 頭の溶けるような会話を続けていく。

 こうしていると、まるで小学生にもどったみたいだ。

「ねえ」

「なんだあ?」

「うきわでさあ、佐渡ヶ島いこーってしたよね」

「ああ、あったなあ」

 ふと思い出したことを口にした。

 兄ちゃんは、笑いながら「お前、佐渡ヶ島を鬼ヶ島だって言ってたよなあ。で、サルが船を濃いでいけるんだったら、俺たちもいけるんじゃないか?って」

「そうそう。行けるとおもったんだよねえ」

 兄ちゃんと二人なら、どこででも行けると思っていた。

 どこへ行っても楽しいと思っていた。

 それが、いつまでも、永遠に続くと思っていたんだ。

 いつまでも、永遠に続くと、思っていたんだ。

 穏やかに揺られているなか、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぐ。他人と違って、兄ちゃん……兄貴とだったら、沈黙は怖くない。友達とはそうもいかない。なんでなのかなあ。

 ふやけるぐらいに海水に浸かって、太陽がオレンジ色に傾き始めてから、俺は兄貴とスポットさがしをする。もちろん、来月の臨海学校でのサマースペシャルラブストーリーの舞台だ。

が。

気づけば、海岸はカップルだらけ。確かに兄貴の言う通り、二人っきりの世界なんて、無理だった。なんてこったい。

「間違ってもテトラポットには登るなよ。落ちたら死ぬからな」

「のぼんねーけどさあ…どこもかしこもカップルだらけじゃん」

「だから、いっただろ」

 兄貴の愉快そうな顔に、少し腹もたってくる。

 これじゃあ、ただの兄貴との海水浴だ。

「じゃあ、あまりおすすめじゃないけどな」

「ええ?」

 テトラポッドの端。砂地に草が生えているただの荒れ地のような場所。ロマンもチックもないそこは、さすがにナシだろ、って俺が言えば、兄貴が笑ってテトラポッドを指さした。何だろうと思って兄貴の指の先をみると。

 テトラポッドの隙間から、小さな世界が見えた。それはまるで小さな額縁のように。その小さな世界におさまるのは、水平線に底辺をつけたオレンジ色の夕日だった。小さな、ひどく小さな世界。海とオレンジの夕陽。

「すげ、こんな隙間よく見つけたね」

 数歩ずれたらもう見えない、その隙間からの世界。

 テトラポッドの影になるこの場は暗くて、その光だけがキラキラと輝いて、明るさのあふるる絵画のよう。

「きれい、だろ?」

「うん」

 見つめる俺の頬に、兄貴の指がなでるように滑った。

 そして、軽く顎を掬われると、兄貴を自然と向くことになり


「一緒にみてくれて、嬉しいよ、ありがとう」


 綺麗な、声だった。

 透き通るような、甘い音が耳に吹き込まれて。

 

ちゅ、と。


軽く。唇に柔らかな甘い感触が降ってくる。


「こんな感じじゃね?サマースペシャルラブストーリーは」


 兄ちゃんの甘い綺麗な声に聞きほれていたせいで、本来の目的を完全に忘れてしまっていた。

「そ、そうだね!使わせてもらうとするよ!!」

 俺は精一杯大きな声で返事をする。

 陰になっててよかった。きっと、今、俺の顔は真っ赤だろう。兄貴は、じゃあ、提供しようとやっぱり笑っている声で言った。気をつけろよ、とも。


たとえうまくいかなくたって、それは兄貴が悪いんだ、ということにしておこう、と俺は一番星に誓うのだった。



(兄視点)


 自身の海水浴の思い出と言えば、親戚の家からの日本海だった。

 山側に住んでいたため、海水浴をするには、結構な距離を移動しなければならない。海岸沿いに住む親せきの家から見える海は、夏限定の風景だった。その限定の風景も、小学校の高学年となるとお目にかかれなくなっていた。

クロスカントリーの夏合宿等で忙しくなり、親戚の家へ行くのも遠のいていった。最後に行ったのは、確か、高校生の頃であったか。

 弟が親戚の住む町で行われる学校行事のさなかに、彼女と初キスをしたいのだ、と顔を真っ赤にして事細かに説明をするものだから、そんな、漫画やドラマの再現をしたいカップルなんて、そこたらじゅうにいるんだから、二人っきりなんて無理だろ、と至極当然のことを言ったんだっけ。

 そしたら、弟はシュンとあからさまにガッカリしてしまったから、その姿が、まるで餌を取り上げられた子犬みたいだったから、弟の初キスの場所探しに、久しぶりに親戚の家へ泊りにいったんだった。海水浴も久しぶりにしたいというのもあったんだけど。けど、弟とこうやって楽しく遊べるのって、いつまでなんだろう、って思うのもあった。

 小学生の頃は、にーちゃん、にーちゃんって、何かあるとすぐに呼ぶから、すぐに駆け付けられるようにしてたっけ。

 それが、段々と減って言って、いつの間にか弟は中学生になっていて、彼女までできていたんだ。それに、酷く安心したのを、今でも覚えている。

 安心したんだ。

 俺が、弟を囲い、閉じ込めてしまっているんじゃないかって、ずっと、ずっと怖かった。弟が嫌な目に合わないように、痛い思いをしないように、弟の周りは明るくて楽しくて綺麗なもので囲まれて、楽しくてうれしくて、いつまでも笑顔でいられるように。兄として弟を囲い守ってきた。それが当然と思っていた。

 それが、違うのだと言われた時、それは違うよと、言われた時。

 大丈夫、俺はやれる。自分だけが隠し通せば、これはすべて解決するのだと結論づけたっけ。だから、それから、弟に彼女が出来て、よかったとおもった。よかった、弟は、俺みたいに歪んでいない。と。

 彼女の話をするときの弟は、キラキラと輝いて、嬉しそう。

 ああ、そうだ。そんな顔を見ていたかったんだ。

 だから間違っていなかった。隠し通すことが正解だったんだ。

 だから。

 テトラポットの影。俺のお気に入りの場所。

まるで、この世から隔離されたかのような、寂しいそこは、隙間から見える美しい世界だけが、まるでこの世のすべてみたい。

 ただの隙間。でも、俺にはそう思えた。

 そして、弟も、綺麗だと言ってくれたのが、嬉しかった。

 ありがとう。

 触れるだけのキスを、戯れを装って、弟におくる。

 ありがとう。まともでいてくれて。

 彼女と、幸せになれば、きっともっと、可愛い笑顔を弟は振りまいてくれるのだろう。

 

 それが、俺の願い。

 今も変わらない。

 俺は、全てを、あのテトラポットの重なり合った奈落の海底へ沈めている。

 

 誰も拾うことのできない、深みへ。


 夏が、来るたびに。

 



2022.8.1

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