第10章 未知への船出

 ブルシモンらがゾロン元帥げんすい訓話くんわを聞かされている頃、紅蜘蛛べにぐもの追跡を振り切ったキゼアたちは、ディリーヌが話を付けた密航業者がたむろしているという船宿ふなやどおとずれようとしていた。

 人足にんそくの服はれてしまったため、三人とも通常の服装に戻している。

「こりゃ、見るからに如何いかがわしそうなとこだな」

 エティックが顔をしかめて言うとおり、釣り客を相手に商売をする娼婦しょうふらしき派手な化粧の女たちが、堂々と正門から出入りしている。

 が、例によって黒革くろかわの上下をまとったディリーヌは、平然とした顔で「ここはまだマシな方だ」と笑った。

「少なくとも妖魔の気配はない。そうだな、キゼア?」

 ほかのことを考えていたのか「え?」と聞き返してからすぐに気づき、キゼアはうなずいた。

「そうですね。ぼくもそんなに敏感な方じゃありませんが、妖魔がみつくのは、もっと薄昏うすぐらい場所だと思います」

 二人が話しているに先に門の中へ入り、けっぴろげになっている玄関から屋内をのぞき込んだエティックが鼻で笑った。

「確かに見たところ日差ひざしが入って明るいようだが、それは建付たてつけが悪くて隙間すきまだらけだからじゃねえか?」

馬鹿ばかにするんじゃないよ、色黒いろぐろの坊や!」

 その声は無論、ディリーヌではない。

 声に続いて玄関横の窓が開き、厚化粧の年増女としまおんなが顔を見せた。

 いや、よく見れば初老といっても良いとしのようだ。

 灰色の髪は地肌じはだけるほど薄く、白塗しろぬりの顔と対照的に、しわばんだ首は浅黒あさぐろい。

「このユラナねえさんのお宿やどは大人の社交場しゃこうばなんだよ。あんたみたいな毛もそろわない坊やの来るところじゃないんだ。それとも、あたしが一人前の男にしてあげようか?」

 あざけるように笑ったその口には、ほとんど歯がなかった。

 嫌悪感けんおかんあらわにして身震みぶるいするエティックを押し退け、前に出たディリーヌがびた。

「すまぬ、ユラナ姐御あねご。連れは田舎いなか育ちの子供たちでな。許してやってくれ。それより、サモゾフはいるか?」

「ああ。いつものように二階の奥の部屋で、仲間を集めて博奕ばくちを打ってるよ」

「そうか。ならば上がらせてもらうぞ」

 ディリーヌに続いてエティックとキゼアも入ろうとしたところ、ユラナが平手ひらて窓枠まどわくをバンバンたたいた。

「子供は駄目だめだよ! ここは大人の社交場と言ったろ!」

 文句を言おうとするエティックを手で制し、ディリーヌはキゼアに目配めくばせしながら「おぬしたちは外で待っていろ」と告げた。

 ディリーヌの背中に向かって、「一人で行って何かあっても、おいら知らねえぞ!」とエティックが不平ふへいをぶつけたが、キゼアはその腕をつかみ、「出よう」と引きるように門の外へ連れ出した。

 すぐに門柱のかげに回り込み、小声でエティックにささやいた。

「ぼくにくっついて」

「はあ? あ、そっか。頼むぜ、キゼア」

 エティックが体を密着させると同時に二人は浮き上がり、おぼろ輪郭りんかくらいだ次の瞬間、二人とも姿が見えなくなった。


 一方屋内に入ったディリーヌは、中央の階段をのぼって二階に上がり、廊下を奥に進んだ。

 進むにつれ、男たちの昂奮こうふんした声が響いて来る。

「ちきしょう! またやられた!」

「おい、サモゾフ! てめえ如何様いかさまやってるだろっ!」

「そうだ、そうだ! さっきから手つきがあやしいと思ってたんだ!」

 ディリーヌはいささかも躊躇ためらわず、男たちの声がする部屋のとびらを開けた。

 せまい部屋の中央に四角いたくがあり、それを囲むように四人の男が座っていた。

 正面の一人以外の三人はたようなゴツい体格をしており、上着を脱いでき出しになった腕や背中には刺青いれずみが見えている。

 三人は背後で扉が開いたことに気づいた途端とたん官憲かんけんのガサれと勘違かんちがいしたのか、反射的に両手をげてこちらを見た。

 体格だけでなく顔も似ているから兄弟であろうが、見るからにがらが悪そうだ。

 三人とも頭部に髪の毛が一本もなく、そのわりのようにひげを生やしているが、それぞれ口の上、あごげと伸ばしている場所が違う。

 入って来たのが女一人とわかると皆手をろし、一斉いっせい下卑げびみを浮かべた。

「ふう、邏卒らそつが踏み込んで来やがったのかと思ってヒヤリとしたぜ。しかし、なんとまあ、おでなすったのは金髪であお別嬪べっぴんさんじゃねえか。こういう客なら大歓迎だぜ」

 と、ニヤついたのは口髭。

「おめえが商売女なら、入る部屋を間違まちがってるぞ。おれたちで買ってやりてえとこだが、今の今、有りがね残らず巻き上げられちまったからよ」

 と、チラリと視線を正面の席のもう一人に走らせたのは、顎髭。

「それとも、男が欲しくて欲しくて、あそこがうずいてしょうがないって言うんなら、おれがなぐさめてやってもいいぜ。もっともおれのはデカ過ぎるから、おめえには入らねえかもしれねえがな」

 と、おのれの股間を指差ゆびさしたのは、揉み上げである。

 自分たちの下品な冗談に、三人はゲラゲラと声を上げて笑った。

 が、正面に座っている黒い上着うわぎを着たせた男だけは、依然いぜんとして冷たい表情のままだ。

 額に掛かる銀髪を自分の手でで付けながら、とらえどころのない灰色の瞳をディリーヌに向け、「ちょっと早いな」とひとごとのようにつぶやいた。

「あんたとの約束は、夕方までに船を用意する、ってことだったはずだが?」

 ディリーヌも他の三人はまったく無視し、痩せた男にだけ返事をした。

「ああ。そのつもりだったが、事情が変わった。なるべく早めに海へ出たい。何とかならぬか?」

 が、痩せた男が何か答える前に、三人が立ち上がって来た。

 めるようにディリーヌの体の線を目でなぞりながら、最初に口髭がしゃべり掛けた。

「おうおう、姉ちゃん。今すぐ船に乗りてえなら、このベレゼ三兄弟にまかせなよ。本来なら完全前金制だが、おめえなら別の方法で支払ってもらってもいいんだぜ」

 ディリーヌはとぼけたように「別の方法?」といた。

 顎髭が「決まってるだろ、体さ」と言うと、続けて揉み上げが「勿論もちろんおれたち三人平等にな」と嘲笑あざわらった。

 ディリーヌはれとした顔で「それはいいな」と笑った。

「では、一人目」

 その言葉の余韻よいんがまだ残っているうちにディリーヌの体が一旦いったん下に沈み、あし発条ばねを存分に生かしながら、一番手前にいた口髭の顎を、下から右のこぶしで突き上げた。

 口髭がもんどり打って倒れたのと同時に左脚ひだりあしを真横に上げ、顎髭の鳩尾みぞおちつらぬくような横蹴よこげりをはなっていた。

「このあまっ!」

 ようやく声を上げることができたのは揉み上げだけだったが、ディリーヌは相手に向かって突進するなり、息吐いきつひまも与えず、左右のこぶしで連続して顔面をなぐった。

「うぶぶっ!」

 相手の上体じょうたいったところで右脚みぎあしね上げ、下から股間の底を叩くようにして、足のこうり込ませた。

「!」

 三人とも悶絶もんぜつしたところで、ディリーヌは痩せた男に問うた。

「おぬしはどうする、サモゾフ?」

 サモゾフと呼ばれた男は、気障きざ仕種しぐさで肩をすくめた。

「おれは現金主義でね。それに、あんたには既定の前金をもらってる上に、今、追加料金もいただいたからな」

「追加料金?」

「ああ。せっかく大勝おおがちしたんだが、ベレゼ三兄弟から難癖なんくせを付けられて困ってたんだ。これで勝ち金を全部持って帰れる」

「ならば、それを恩に着て、すぐに船を用意してくれ」

 サモゾフはわざとらしいめ息を吐きながら「そうさなあ」と天井を見上げたが、「ほう」と皮肉な笑い方をした。

「連れがいるとは聞いてたが、魔道を使えるのか。それじゃ話は早い。次に出る北大陸便びんに知り合いがいるんだが、こいつがしたでね。船長に内緒なら乗せてくれるだろう。今から話を付けてやるよ」

 ディリーヌも苦笑し、天井に向かって「と、いうことだ」と告げた。

 姿は見せぬまま、エティックの不満そうな声がした。

「ちぇっ。万一の時にはおいらが助けようと思ってたのに、出番なしかよ」

 しかし、キゼアの方は「術が未熟ですみません」とびた。

浮身術ふしんじゅつはともかく、隠形おんぎょうはもう完璧にできるようになったと思っていたのですが、どうしてわかったのですか?」

 キゼアがたずねた相手はサモゾフだったが、答えたのはディリーヌだった。

「おそらく、透視術が使えるのだろう。こんな相手と博奕をするとは、この三兄弟、余程よほど阿呆あほうだな」

 サモゾフは何も言わず、片頬かたほほだけで笑った。


 そのあと、ディリーヌと二人で階下にりたサモゾフが簡単な説明をしてかねにぎらせると、ユラナは「客同士の揉め事は御免ごめんだよ」と文句を言いながらも、ちゃんと金はふところに入れた。

「まあ、女一人に叩きのめされたとあっちゃ、あの三兄弟もさわぎ立てたりはしないだろうさ。でも、夜道は気をつけるんだよ、ディリーヌ?」

「大丈夫だ。日が暮れる前には海の上だからな。世話になった」

「達者でね。もし、あんたがここで働く気になったら、宿の経営を任せてもいいよ」

 本気なのか冗談だかわからぬ申し出であったが、ディリーヌは笑わずに「考えておこう」と手を振って玄関を出た。

 先に外で待っていたエティックとキゼアと合流し、四人で運河の出口へ向かう。

 歩きながら、サモゾフが説明した。


 ……船の名はオルジボセ号。

 間もなく出航の時間だから、今頃は荷物の積み込み中だろう。

 おれの知り合いはチウチニッケという下級船員だ。

 先におれが一人で行ってチウチニッケに話すから、合図をしたら隠形したままやつの後からついて行ってくれ。

 なあに、普通の人間には見えやしねえよ。

 で、いてる船室に案内してくれるから、そこに身をひそめてくれ。

 食事はこっそり運ばせる。

 向こうに着くのは十日後の予定だから、窮屈きゅうくつだし退屈だろうが、我慢してくれ。

 言って置くが、密航が見つかれば、その場で海にほうり込まれるぞ。

 海流は早いし、水中にはさめがウジャウジャいる。

 多少魔道が使えようが、剣の腕が立とうが、とても助からねえ。

 くれぐれもバレねえように気をつけろ……


「心配らねえよ。おいらがついてるからな」

 いきがるエティックには構わず、キゼアがおずおずとサモゾフに尋ねた。

「船はれますか?」

「ああ。覚悟しておけ。薬草のせんじるは飲んだのか?」

「ええ。でも、あまり飲むと、魔道のき目が弱くなるみたいで。あ、さっきバレたのは、それもあったんですね?」

 サモゾフは「どうかな」と韜晦とうかいするようにまた片頬だけで笑い、一人で船着ふなつの方へ歩み去った。


 その頃、気絶から目覚めたベレゼ三兄弟は、階下の部屋に押し入り、ユラナを取り囲んで詰問きつもんしていた。

「なあ、ばあしゃん。おれたちに殴られて、残ってる歯も全部くなっていいのか?」

 そう言っている口髭自身、何本か前歯が無くなっていた。

「あの女が何者で、どこへ行ったのかだけ、教えてくれりゃいいんだよ。ううっ」

 顎髭は痛そうにはらを押さえた。

絶対ぜってえ殺す!」

 歯をしばってうなるように言う揉み上げは、ユラナがディリーヌであるかのようににらんでいる。

 が、ユラナは一向に動じたふうもなく、三人を等分とうぶんに見てわらった。

「ふん。おどしたって無駄むださ。こっちは信用だけが財産なんだ。ペラペラと客の秘密をバラすようじゃ、こんな商売は続けられやしないよ。さあ、いっそ一思ひとおもいに殺しておくれ」

 胸を突き出すユラナに三兄弟が鼻白はなじろんでいるところへ、部屋の外から「あのう」という、か細い声がした。

「ベレゼさんってかた、いらっしゃいます?」

 口髭が振り向くと、ガリガリに痩せた娼婦らしい女が入口に立っていた。

「今、立て込んでるんだ。後にしてくれ」

 顎髭がそれを片手でおさえ、「何の用だ?」と訊いた。

 女は手に持った紙片を差し出しながら「これを渡してくれって」と言う。

 揉み上げが苛立いらだって「いってえ誰からだ?」と声を荒げると、女は少し震える声で「サモゾフって人」と答えた。

「なあにいっ!」

 言うなり口髭が紙片をひったくり、その場で広げた。

 そこには、『女はオルジボセ号にてもなく出航。詳細はチウチニッケに聞け』と書いてある。

 痩せた娼婦が「じゃあ、確かに渡したよ」と告げて去ると、ユラナはうつむいて「あのくさ外道げどうめっ」と毒吐どくづいた。

 顎髭が笑いながら「どうする? 婆さんは始末して行くか?」と言ったが、揉み上げは首を振った。

「時間がしい。船が出航したら、おしめえだからな。幸い、チウチニッケには貸しがある。すぐに行こうぜ」


 かなりってから、サモゾフはディリーヌたちのところへ戻って来た。

「待たせてすまねえ。意外にもチウチニッケの野郎が抵抗しやがってな。最近わったばかりの新しい船長が厳しいらしい。まあ、何とか、相場の倍ぐらい握らせて承知させたよ。さあ、行こうぜ」

 ディリーヌは如才じょさいなく「手間てまをかけさせたな」と笑ったが、サモゾフが歩き始めると、キゼアに口の動きだけで伝えた。

 ……用心しろ。何かあやしい……

 キゼアも黙って頷いたが、エティックだけは暢気のんきひとちた。

「やっぱり船旅はワクワクするよなあ。北大陸って、どんなとこだろう?」

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