第9章 冷血の幼帝

 襲って来る数十匹の紅蜘蛛べにぐもからのがれるべく、おぼえたばかりらしい浮身術ふしんじゅつを使ったキゼアだったが、如何いかんせん三人分の体重をささえ切れず、すぐに地面に落ちてしまった。

 その瞬間、三人の体を包んでいた不可視ふかしまくのようなものがパッと光り、すぐに消えた。

いててっ、やっぱこんなの無理だよ」

 そう言ったのはエティックであったが、荒い息をいて声も出ない様子のキゼアに、ディリーヌは驚くべきことをめいじた。

「もう一度やれ!」

「ええっ」

 またしても不満そうな声を上げたのはエティックの方で、キゼアは黙ってうなずくのみ。

 再び三人がピタリとを寄せ合い、キゼアが呪文じゅもんとなえると、少しずつ上昇し始めた。

 その時にはもう、紅蜘蛛の先頭は目の前まで迫っており、フワッ、フワッと浮き上がるようにねながら走って来る。

「うへっ、気持ち悪っ」

 浅黒い顔をしかめるエティックを、ディリーヌが「少しは静かにしろ」とたしなめた。

 が、キゼアはそんな二人のやり取りも耳に入らぬようで、一心不乱いっしんふらんに念をらしている。

 ようやひざぐらいの高さまで浮いたものの、真下に来た紅蜘蛛たちは仲間の体に折り重なるようにして、三人の方へび移ろうとしている。

 さすがにエティックも息をんだが、ディリーヌはさらに声を強めてキゼアを叱咤しったした。

「このまま前進しろ!」

「はいっ!」

 自分の返事に鼓舞こぶされたように、キゼアは高さを保ったまま水平に進み出した。

 出だしこそゆるやかであったが、次第に速度を上げて浜辺に向かって行く。

 すぐに人間が普通に走るより速くなった。

 エティックも真っ白な歯をき出してはしゃいだ。

「いいぞ、キゼア! このまま海までき進め!」

 追って来る紅蜘蛛たちも引き離されぬよう跳び上がることはめ、八本のあしを全力で動かしている。

 が、すでに地面は柔らかい砂地すなじに変わっており、思うように走れないようだ。

 少しは距離がき、ディリーヌの顔にも安堵あんどみが浮かびかけたが、笑顔になる途中で止まった。

 ここまで順調に水平飛行して来た三人の高度が、徐々に下がり出したのだ。

「キゼア、気を抜くな! 海までれ!」

「……」

 キゼアは最早もはや返事をする余裕もなく、蒼白そうはくな顔で小さく呪文を唱え続けている。

 と、エティックが「やった、追い風になって来たぞ!」と喜んだ。

 通常なら海から陸へ吹く時間帯であるが、偶々たまたま逆向きに風が来たようだ。

 勿論もちろん人間三人を押すほどの風力ではなく、むしろ、追って来る紅蜘蛛にとって有利な風である。

 それがわかっているディリーヌは小さく舌打ちしたが、糠喜ぬかよろこびしたエティックも「あ、やべっ」と声を上げた。

 速度を増しただけでなく、紅蜘蛛たちは尻から長い糸を出し、それで追い風を受けて次々と空中に舞い上がり始めたのだ。

「くそっ!」

 ディリーヌは右腕をキゼアの胴にまわして体勢を安定させると、左手で再び短剣を抜いて構えた。

 エティックもギリッと奥歯をむと、ディリーヌと左右反転した体勢を取って、ふところから木工用の小さな刀子とうすを取り出した。

「おいらもやるぜ!」

 そのかんにも高度は下がり続けていたが、かなり近くから潮騒しおさいも聞こえて来た。

 今にも閉じそうなまぶたを見開いたキゼアの薄茶色の瞳にも、白くくだける波頭はとうが見えた。

「……もう少し……」

 地面スレスレまで下がっていた三人の体がわずかに浮いた。

 ところが今度は速度が落ち始め、後方から風に乗って飛んでくる紅蜘蛛との距離が一気に縮まって来た。

「来るぞ!」

 警告を発した時にはディリーヌの短剣が一閃いっせんし、迫って来た紅蜘蛛の体を両断していた。

「こいつめっ!」

 同時にエティックも刀子で一匹を串刺くしざしにし、すぐに振り捨てた。

 が、じきに二匹目、三匹目と飛んで来て、防戦一方となった。

「これじゃキリがねえよ!」

 泣きごとをいうエティックをしかる余裕もなく、ディリーヌは左右に短剣を振るって紅蜘蛛をり続けていたが、ふと下を見て砂がれていることに気づいた。

「もう良いぞ、キゼア! エティック、走って海に飛び込め!」

「えっ?」

 ドンと衝撃があって三人は地面に落ちたが、そこはすでに波打ちぎわであり、足下あしもとを波が濡らした。

 ディリーヌは気を失って倒れ込んでいるキゼアを素早すばやく脇にかかえ、エティックの背中をたたいた。

「早く海へ!」

「うん!」

 波をり、もつれるように走りながら、二人は時々振り返って飛んで来る紅蜘蛛を斬り払った。

 水の抵抗に逆らって必死であしを動かし、大きな波が来るとももまで水にかるところまで進んだ。

「エティック、もぐるぞ!」

「わかった!」

 気絶したままのキゼアの口と鼻をてのひらおおうと、ディリーヌは大きく息を吸い、一緒に水中に身を沈めた。

 水面下でディリーヌの金髪が、美しい海藻のように広がる。

 エティックも深呼吸して自分の鼻をつまみ、海面に顔から突っ込んだ。

 そこまで飛んで来た紅蜘蛛が数匹海面に落ちたが、すぐに周囲が泡立ち、飛び出して来た魚に次々われた。

 少しがあってから、ブクブクと気泡がき上がり、三人の頭が水中から飛び出して来た。

「げほっ!」

 激しくき込むエティックと違い、ディリーヌは息も乱していなかったが、脇に抱えているキゼアはグッタリしている。

「まさか、死んだんじゃねえよな?」

 たずねるエティックを無視するように、あおい瞳で海岸の方を見つめていたディリーヌは、フッと表情をゆるめた。

 いつのにか風向きが変わっており、紅蜘蛛たちの姿も消えている。

「どうやら、あきらめてくれたようだな」

「おいっ、返事しろよ! キゼアは大丈夫でえじょうぶなのか?」

 声を荒げるエティックに、キゼアの方が薄く目を開けて「……大丈夫だ」と答えた。

 その青白かった頬に、少し赤味あかみが差している。

「……水中で、息を吹き込んでもらったから」


 同じ頃、市内の運河を通る船で皇帝宮こうていきゅうに到着したブルシモンは、カランに引きられるようにして宮廷前広場きゅうていまえひろばに連れて行かれた。

 万単位の出陣式が行われることもある広場の前方に、百名の隊員たちが広さを持てあましたようにを寄せて待っていた。

 その前に二人並んで立つと、カランはれぼったい目を細め、普段見せないような愛想笑あいそわらいすら浮かべてブルシモンを紹介した。

「さあ、おまえたち、この男がわたしの右腕みぎうでとなるブルシモンです。帝国軍学校で剣術を指導する教官ですから、武芸の達人ですよ。おまえたちにも良い助言をしてくれるでしょう。わたしがない時にはかれに従うように、いいですね?」

 まるで子供に言い聞かせるような問い掛けにも返事はなく、百名の隊員たちは不貞腐ふてくされたように押し黙っている。

「いいですねっ!」

 語気を強めたカランにこたえる者はなく、隊員の一人が挙手をしているのが目に入った。

「何ですか? 質問はまだ許していませんよ」

 カランににらまれても隊員は平気な顔で、「質問じゃねえよ」とこたえた。

 帝国軍の制服を着ており、かなりの古参兵こさんへいのようだ。

「こう見えてもおれたちゃ皇軍こうぐんだぜ、隊長。なんで野蛮人の命令なんか聞かなきゃならねえんだ?」

 侮辱ぶじょくされたブルシモン本人は平然としていたが、カランの顔はいかりでみるみる赤くまった。

「お黙りなさいっ! 軍法会議に掛け……」

 その時、カランの裏返った声をき消すように大きな喇叭ラッパの音が鳴り響き、先触さきぶれの大音声だいおんじょうが聞こえて来た。

「皇帝陛下へいかーっ、ご臨席りんせきたまわりまーすっ!」

 さすがに百名の隊員たちは一糸いっし乱れず隊列を整え、こうべれた。

 カランもあわててブルシモンの手を引き、隊員たちの前に並ばせた。


 広場を見下みおろす張り出し露台ろだいに、美々びびしく着飾きかざった十歳ぐらいの少年が姿をあらわした。

 宝石をちりばめた大きなかんむりを頭にせ、金糸銀糸きんしぎんし刺繍ししゅうほどこされた外套がいとう羽織はおっている。

 漆黒しっこく直毛ちょくもうひたいの上部で綺麗きれいに切りそろえていたが、その下にある顔は異様であった。

 黒い瞳が極端に小さいため、周囲の白い部分がやけに目立つ切れながの目。

 いだように細い鼻梁びりょうと、その下にある薄く血色けっしょくの悪い唇。

 その顔に、他人ひと小馬鹿こばかにしたような薄ら笑いを浮かべている。

 これが少年皇帝、キルゲリであった。

 おさない皇帝の脇を固めるように、左右に二人の重鎮じゅうちんが立っている。

 一人は勿論もちろん、この派遣部隊を招集しょうしゅうした黒衣の宰相ダナルークであるが、もう一人の恰幅かっぷくのいい老人は、帝国軍をべるゾロン元帥げんすいであった。

 髪はかなり白髪しらがになっているが一部黒い毛も混じっており、何よりもその黒々とした太い眉と炯々けいけいと光る黒い瞳を見れば、皇帝家の縁者えんじゃとわかる。

 と、キルゲリが「じい」とゾロンを呼んだ。

「あの部隊を二手ふたてけて戦わせてみよ。負けた方は全員殺し、勝った方はまた二手に分けて戦わせ、負けた方は全員殺す。これをり返せば、最後に残った一人は最強の戦士ということになる。どうじゃ?」

 ゾロンが苦笑して何か言おうとするのをさえぎり、ダナルークが口をはさんだ。

「陛下、たとえおたわむれであったとしても、そのようなことは……」

 皆まで言わせず、キルゲリは甲高かんだか怒声どせいはなった。

「黙れっ! ちんは皇帝なるぞ!」

 グッと唇をむダナルークを片手でおさえ、ゾロンがすように笑った。

「陛下、宰相をおしかさるな。生真面目きまじめが取りのウダグス人ゆえ、陛下の高度な諧謔かいぎゃくはわかりますまい。いや、もしかして、自身のつらい過去を思い出してしまったのかもしれませんなあ」

 すると、キルゲリは皇帝らしからぬ下品な笑い声をあげた。

「おお、そうであったわ。まさにダナルークの生きざまそのものであったな。わが偉大なる父、神君しんくんアクティヌス帝がウダグス王国をほろぼさねば、ダナルークはいまだに剣奴けんどのままであったろう。いや、剣奴なら、こんなに長生きはできぬか」

 あからさまな嘲笑ちょうしょうびせられても、既に激情は去ったらしく、ダナルークの死んだ魚のようなにごったは何の感情も見せなかった。

「ご無礼の段は、ひらにおび申し上げまする。それよりも陛下、兵士たちにお言葉を」

 が、キルゲリはみを消し、プイと横を向いた。

「爺、おまえがやれ」

 自分が閲兵えっぺいしたいと言い出したことなど忘れたように、完全に興味をくした顔をするキルゲリに、ゾロンは慈父じふごとき笑顔でうなずいて見せた。

「ははっ、御意ぎょいのままに」

 これも想定内であったのかダナルークは表情を変えず、ゾロンに道をゆずるように一歩下がった。

 さらに振り向いて「陛下にお椅子を」と部下にめいじたところを見ると、キルゲリ自身にしゃべらせるつもりは最初はなからなかったのであろう。

 ゾロンも自分に派遣部隊激励げきれい挨拶あいさつを振られることはわかっていたようで、露台から身を乗り出すようにして、戦場できたえた声を張り上げた。


 ……帝国軍精鋭せいえいの諸君!

 陛下のご所望しょもうにより、わがはいから諸君らへのはげましの言葉を述べさせてもらう。

 が、その前に、少し昔話をさせていただく。

 わがはいが神君アクティヌス帝におつかえ申し上げたのは、まだフェケルノが弱小な王国であった時代であり、わがきみも末席の王子であらせられた。

 その後、流行はややまいにより三人の兄君あにぎみが次々に身罷みまかられ、皇太子となられたわが君は、わがはいと共に兵制の改革を断行された。

 走竜そうりゅう部隊、海竜かいりゅう部隊、飛竜ひりゅう部隊を矢継やつばやに創設されるや、周辺の四王国へ進撃を開始されたのだ。

 アナン、ウダグス、クレル、ドズフェと次々に四王国を制覇され、その遠征中に先王が崩御ほうぎょされていたこともあって、初代のフェケルノ帝国皇帝として即位なさることを宣下せんげされた。

 一方わが君は、属州となった旧四王国から簒奪さんだつすることは厳しくいましめられ、むしろフェケルノ本州ほんしゅう同様に慰撫いぶするようめいぜられた。

 そして、わがはいの横におる宰相を見てもわかるように、属州からもへだてなく人材を登用され、帝国の繁栄をもたらされたのだ。

 ああ、しかし。

 悲しむべきことに、その神君も一昨年、よわい七十七にしてこの世を去られた。

 だが、諸君、心配はらぬ。

 神君は、われらに希望の光を残してくだすった。

 そうだ。

 ここにおわす二代皇帝キルゲリ陛下だ。

 陛下は先月九歳となられたばかりだが、その利発りはつさはさすがに神君のお血筋おちすじと、わがはいも感涙かんるいむせぶこと屡々しばしばである。

 聡明そうめいなるキルゲリ陛下のご威光いこうもと、今しも帝国はその最盛期をむかえておる。

 が、油断はならぬぞ。

 わが帝国の周囲には、その繁栄をそねむ複数の敵国がある。

 特に近年軍事力を増強しつつある東の隣国りんごくヤンルー連合王国とは、今しも国境周辺で小競こぜり合いが続いている。

 本来ならすぐに蹴散けちらせる相手であるが、わが帝国軍を東側国境に集中すれば、そのすきいて西も南も動き出すのは目に見えておる。

 よって、わがはいは一層の軍備増強を主張しておったのだが、宰相は財政逼迫ひっぱくを理由に、なかなか首をたてに振らなかった。

 ところがどうだ。

 貴重な戦力をいて、北大陸に橋頭堡きょうとうほとなる駐屯地ちゅうとんちつくりたいと言い出した。

 わがはいは耳を疑ったよ。

 宰相も夜毎よごとのお遊びが過ぎて、ついに心に変調をきたしたのかと。

 おっと、失敬しっけい

 だが、よくよく聞いてみれば、成程なるほどうなずける点も多々あった。

 北以外の三方に敵をかかえるわが帝国にとって、未開の北大陸に拠点きょてんを持つことは、確かに戦略的な意義がある。

 また、未開であるが故に様々な物産ぶっさんもあろう。

 もっとも、宰相の話の中には真偽不明しんぎふめい風説ふうせつも混じっておったが、まあ、それはそれとして。

 ともかく、先遣隊せんけんたいとしての諸君らに対する、陛下のご期待は大きいぞ。

 皆一層、奮励ふんれい努力せよ!

 以上だ……


 広場に整列する百名の中から、まばらな拍手が聞こえた。

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