第8章 紅蜘蛛の巣

 密告結社けっしゃは帝国の公的機関ではない。

 が、ある意味、最も庶民が国家の威圧いあつを感じる組織であった。

 密告のあみは帝国の隅々すみずみまで張りめぐらされており、自宅の夕餉ゆうげの席で皇帝への暴言をいただけで、翌朝には邏卒らそつみ込まれるとさえわれている。

 密告結社の設立には神君しんくんとも呼ばれる初代皇帝アクティヌスが関わっていたとされ、そのおさであるフェティヌール侯爵こうしゃくは、まだフェケルノ王国の王子であった頃のアクティヌスが、魔女とまぐわって生ませた落とし子ではないかとうわさされていた。

 もしその噂が真実であれば、フェティヌールは、現皇帝キルゲリの庶兄しょけいということになろう。

 もっとも、帝国典範てんぱん皇位継承権者こういけいしょうけんしゃ名簿にはフェティヌールの名はなく、あくまでも噂というに過ぎない。

 そのような噂を知ってか知らずか、帝都ヒロールの東区にあるフェティヌールの屋敷には、連日来客が引きも切らなかった。

 今日も今日とて、ヒロール商工会の会頭かいとうおとずれたかと思えば、帝国軍の将軍が面会を求め、続いて帝国教会の新しい枢機卿すうききょうが新任の挨拶あいさつに来訪し、さらには皇立おうりつ魔道学校の校長が校舎こうしゃ移転の相談に来た。

 そのいずれの場合も、謁見えっけんなどと揶揄やゆされる広間で大勢の秘書官や護衛ごえいが立ち会う中での対面であった。

 しかし、その日最後の訪問客となった人物だけには、別室で一対一での面談が許された。

「えっ、前回は謁見の間でしたが? あ、いえ、失礼いたしました。有難ありがたき幸せにござりまする」

 動揺のあまり流れ出たひたいの汗をぬぐったのは、二十代後半ぐらいの青年であった。

 育ちの良さそうな細面ほそおもての美男で、髪は少しくせのある茶色の巻き毛、瞳は薄い茶色である。

 着ている服も上品な仕立てのものであり、あまり高位ではないにしても貴族の出身であろう。

 係の者に通された部屋はフェティヌールの私室らしく、大きな机の後ろには、壁面をくすように古い書籍が並んでいる。

 机に向かい合うように置かれた椅子で待っていると、「待たせたね」というやや鼻に掛かった声と共にフェティヌールが入って来た。

 その姿を見た青年は、ウッと息をんだ。

 皇帝家の血筋を思わせる漆黒しっこくの長い髪はれてゆるやかな曲線を描いており、吸い込まれそうな黒い瞳はうるんだ光を帯びている。

 薄く化粧けしょうしているなまめかしいその顔以上に青年を驚かせたのは、フェティヌールが着ている服であった。

 それは、ゆったりした大きなそでの付いた前合わせの絹織物で、すそ外套がいとうのように長く、くるぶしまでおおっている。

 靴は履いておらず、布製の室内履しつないばきである。

 唖然あぜんとしている青年に、フェティヌールは嫣然えんぜん微笑ほほえんで見せた。

「驚かせてすまぬ。この服装は、ぼくのお気に入りでね。らくなので、普段ふだん私室にる時にはいつもこの格好かっこうなのだよ。気にしないで報告してくれたまえ、レナハ男爵」

 レナハと呼ばれた青年はゴクリとのどを鳴らしてから、おもむろに口をひらいた。


 ……えー、それではご報告申し上げます。

 フェティヌール閣下かっかより調査のご依頼があった、古代ツェウィナ人の秘宝についてのダナルーク宰相の動きですが、北大陸への派遣部隊の隊長に刑事官カランどのを任ぜられたのは、すでにご承知かと存じます。

 そのカランどのですが、派遣部隊百名の選抜に当たり、帝国軍歩兵に加え、自己の出身母体である警邏けいら庁から数名を出向させ、更に帝国軍学校の指導教官であるブルシモンなる人物を、なんと副隊長に指名いたしました。

 このブルシモンとは、北大陸からの渡来人であり、あるいは現地での土地鑑とちかんを期待しての抜擢ばってきやもしれません。

 勿論もちろんこの人事じんじに対しては、部隊の主力である歩兵たちだけでなく、身内であるはずの警邏庁の部下たちからも不満の声が上がっており、出発前から剣呑けんのんな状況です。

 実は、閣下のご依頼の趣旨しゅしからはややはずれるかもしれませぬが、ブルシモンの行動を追尾した方が良いと判断し、本人に異動が告知される前に、お預かりしていた紅蜘蛛べにぐもをかれのりょうの部屋にはなっておりました。

 が、今日になっても紅蜘蛛が戻って来ず、明日はいよいよ部隊が北大陸へ向けて出航する日ですので、経過報告を兼ねてご相談に参った次第しだいなのです……


 報告を聞き終わったフェティヌールは、笑顔のままフッと吐息といきした。

可哀想かわいそうに、あの紅蜘蛛は一昨日おとついの夜死んだよ。いや、殺されたのだ。離れていてもぼくには感じるいのち律動りつどうが、プッツリ途切とぎれたからね」

 レナハは唇を戦慄わななかせつつ、「申し訳ございませんっ!」と叩頭こうとうした。

 が、フェティヌールは笑顔をやさず、「良いのだ」とうなずいて見せた。

「あの紅蜘蛛はそろそろ寿命だから、交換の時期だと思っていたのさ。それに、あらかじめブルシモンに目を付けていたのはなかなかの慧眼けいがんだよ、レナハ男爵。うむ。これはご褒美ほうびをあげなきゃねえ」

「え?」

 レナハが驚いて顔を上げると、フェティヌールは椅子から立ち上がり、こちらへ歩いて来ていた。

 その顔にはとろけるようなみを浮かべており、「こわがらなくていいよ」と言いながら着ている服の帯紐おびひもき、前を左右に開いた。

 レナハの目が飛び出しそうに見開みひらかれた。

 フェティヌールはその服の下には一糸いっしまとっておらず、異様な裸体が丸見えとなっていた。

 胸には女のように豊かな乳房ちぶさがある一方、陰毛もない股間には巨大な男根だんこん屹立きつりつしていたのである。

 フェティヌールの笑みが深くなった。

「これを目にした以上、すぐには帰さないよ。ああ、悪いようにはしない。さあ、一緒にたのしもうじゃないか?」


 その翌朝。

 帝都ヒロール中央区の運河にある船着ふなつ近くに、ブルシモンの姿があった。

 かたわらには、荷台にんだ大きな荷物をここまで運んで来たらしい三人の人足にんそくがいる。

 三人ともきたない布で頬被ほほかむりをしており、着ている服もぎだらけで、普段は乞食こじきをしている者のように見える。

 が、無論、この三人はディリーヌ、キゼア、エティックであった。

 振り返ったブルシモンは苦笑した。

「見送りはもうこの辺でいいぞ。いくら何でも、おまえたちの格好はあやし過ぎる」

 頬被りからあおのぞかせながら、ディリーヌも笑った。

「そうだな。まあ、いざとなれば、キゼアの隠形おんぎょうで逃げるつもりだが、三人一緒では体の一部が見えてしまうかもしれず、派遣部隊の副隊長におかしな噂が立っても困るからな」

 キゼアが「すみません」と小声であやまると、エティックがフンと鼻を鳴らした。

「別に逃げる必要なんかねえよ。誰かに聞かれたら、先生の内縁の妻と隠し子ですって言やあいいんだ」

 ブルシモンは声を上げて笑った。

「カランのやつが聞いたら喜びそうだな。すぐに捕吏ほりに取り囲まれるぞ。それより、おまたちの方の船の手配はつきそうなのか?」

 これにはディリーヌが答えた。

「ああ。わたしは旅慣たびなれているからな。港の近くでたむろしていた人相の悪い連中に渡りを付けた。相場そうばの倍払えば、北大陸へ向かう渡航船とこうせんに密航させてくれる男がいるそうだ」

 ブルシモンの顔がくもった。

「おいおい、大丈夫か? そのまま異国に売り飛ばされるぞ」

 が、ディリーヌは歯を見せて笑った。

「それは逆だな。海上に出たらひと暴れして、船を乗っ取ってやろうと思っているくらいだ」

 唖然あぜんとするブルシモンに、エティックも笑いながら告げた。

心配しんぺえすんなよ、先生。おいらもついて行くからさ」

 これには、ブルシモンだけでなく、キゼアも驚いて「えっ?」と声を上げた。

「だって、学校はどうするの、エティック?」

 エティックは照れたように鼻をこすった。

「もう休学届は出して来た。一応、期間は一箇月いっかげつにしといたよ」

 あきれ顔のブルシモンに、ディリーヌが「わたしがすすめたのだ」と説明した。

「おぬしがいない学校でくだらぬ授業を受けるより、実地で学んだ方がいいとな」

 ブルシモンはフッと表情をゆるめ、「仕方あるまい」と頷いた。

ただし、船を乗っ取るのは、最後の手段にしてくれよ」

「なるべくそうしよう」

 冗談とも本気ともつかないディリーヌのこたえにブルシモンも笑ってしまい、「じゃあ、気を付けて行けよ」と手を振ると、大きな荷物を軽々と背負せおって立ち去った。


 三人と別れて船着き場へ急ぐブルシモンが通り過ぎた物陰ものかげに、立ち尽くす人影ひとかげがあった。

 癖のある茶色の巻き毛がザンバラに乱れ、うつろに見開かれた薄茶色の瞳にまったく生気せいきがないが、それはレナハ男爵であった。

 と、カラカラに乾いた唇が少し開き、その隙間すきまから何か赤いものがい出て来た。

 赤ん坊のてのひらほどもある紅蜘蛛であった。

 紅蜘蛛はキラキラと糸を引きながら、ブルシモンの後を追って行く。

 が、紅蜘蛛はその一匹だけでなく、後から後からゾロゾロとレナハの口から出て来た。

 それに合わせて徐々に口も開いて行き、まるで大声で絶叫しているかのように大きく開いた時には、虚ろだった目がクルリと白眼しろめになり、くずれるように後ろに倒れた。

 それでも紅蜘蛛はレナハの口からあふれるように次々にあらわれ、同時にレナハの顔がしぼみ、しわだらけになって行く。

 いや、顔だけではない。

 首も、手も、見える部分から肉がげ落ちて骨と皮のような状態になっており、おそらくは全身が同じように変化しているのであろう。

 およそ百匹ほどの紅蜘蛛が四方八方に散って行った後には、木乃伊ミイラのような姿となったレナハの遺体だけが残されていた。


 一方、船着き場に到着したブルシモンは、背負っている大きな荷物に追って来た一匹の紅蜘蛛がもぐり込んだことなど知らずに、れたような表情で待っていたカランに「やあ」と声を掛けた。

 カランはれぼったい目を更に細め、「遅かったですね」と不満げに言った。

「部下の報告ではりょうを出た後、どちらかへ寄り道なさったようですが?」

 ブルシモンは表情を変えずに肯定した。

「ああ。寮に置き切れない古い書物などを知り合いに預けていてな。いつ戻って来れるかわからんから、一旦いったん引き取って来たのだ。それより、おれを見張らせているのか?」

 カランも平然と答えた。

「ええ、あなたをまもるためにね。出発前に闇討やみうちしようと計画している馬鹿者ばかものがいるらしいとのれ込みがありましたので」

 ブルシモンは苦笑した。

「ほう。随分ずいぶんきらわれたものだな」

「笑いごとではありませんよ。あなたに万一のことでもあれば、わたしの首が飛びます。とにかく、皇帝陛下の閲兵えっぺいむまでは、騒動を起こさないでください」

 ブルシモンの顔色が変わった。

「陛下が? 宰相閣下ではなく?」

 カランはわざとらしく大きなめ息をいた。

「勿論ダナルーク閣下も同席されます。しかし、勅許ちょっきょずに海外派兵するわけにも行かず、宰相が儀礼的に陛下に奏上そうじょうされたところ、是非ともご自分もたいとおっしゃられたそうで」

「あの……」

 思わず不敬ふけいな言葉を口にしそうになったブルシモンは、あわてて自分の手で口をおおった。

 カランは鼻で笑うと「とにかく早く船に乗ってくださいな」とうながした。

「これから皇帝宮こうていきゅう横に船をけ、広場に百名全員で整列して行進しなければならないんですよ。おかげ渡海とかいは明日に延期となりました。まったく、あ、いえ、何でもありません。さあ、行きましょう」


 その頃、ブルシモンと別れた三人は、頬被りだけは取ったものの、人足の格好のまま浜辺の方へ歩いていた。

「そういえば、薬草は手に入ったのか?」

 ディリーヌにかれたエティックが返事をする前に、キゼアがまた「すみません」と謝った。

「ぼくのせいで余計な心配をさせてしまって」

 エティックが憤然ふんぜんとして、「謝んなくていい、って言ってんだろ」と口をとがらせた。

「人間誰だって得手不得手えてふえてはあんだからよ。心配しなくたって、船酔い止めの薬草は売るほど持って来たぜ」

 エティックがふところから出して見せようとした時、ディリーヌが黙って短剣を抜いた。

 その視線の先に、赤い水溜みずたまりのようなものが見えている。

 エティックもキゼアもすぐにそれに気づき、絶句した。

 それは、徐々にこちらに近づいて来る、何十匹もの紅蜘蛛であった。

 ディリーヌは何故なぜか抜いた短剣をさやに戻し、二人にささやいた。

多勢たぜい無勢ぶぜいだ。一匹二匹殺したところで、とてもふせぎ切れん。キゼア、訓練の成果を見せる時だぞ」

 キゼアは大きく息を吸うと「わかりました」と応えた。

「二人とも、ぼくの体にピッタリとくっ付いてください」

 エティックが不安そうに「隠形したって、相手が蜘蛛じゃ駄目だめだろ?」とたずねたが、キゼアは「早く!」とかした。

「わかったよ」

 三人が一塊ひとかたまりとなった時には、紅蜘蛛たちはすぐ近くまで迫っていた。

「それじゃ、始めます!」

 キゼアはそう宣言すると、呪文じゅもんのような言葉をとなえた。

 と、三人の体がわずかに浮き上がった。

 キゼアのひたいから脂汗あぶらあせが流れ、必死に念じているようだが、まだ指一本分ほどしか地面から浮いていない。

 そのかんにも、更に紅蜘蛛は近づいて来ている。

 エティックが泣きそうな声で「もうちょっと何とかしてくれよ」と頼んだが、キゼアの必死さがわかっているのかディリーヌは何も言わず、ただ油断なく紅蜘蛛の動きを目で追っているだけであった。

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