第3章 月下の逃避行

 神官の口から伸びる長い舌は、明らかにキゼアの顔面をねらっていた。

 クネクネと大理石の床の上をって来ると、その亀頭きとうのようにふくらんだ先端を伸ばし、後ろ手にしばられて自由のかないキゼアの口にもぐり込もうとする。

 その表面は粘液ねんえきのようなものでヌラヌラしており、キゼアは嫌悪感をあらわにして顔をそむけ、歯をいしばって口を閉じた。

 が、蛇のような舌は右に左に動き回り、しつこくキゼアの唇をじ開けて口内に侵入しようとして来る。

「くそっ!」

 キゼアは毒吐どくづくと、むしろ大きく口を開けた。

 いっそ、その舌にみついてやろうと決意したようだ。

 が、その意図は相手もすぐに察したらしく、長い舌はサッとキゼアの顔面から離れると、洋袴ズボンすそ隙間すきまから入り込んで来た。

「ううっ、気持ち悪っ!」

 そのれた感触に、キゼアは悲鳴のような声を上げたが、すぐに「あっ!」と顔をしかめた。

 今度はキゼアの肛門を狙っているようで、洋袴の生地きじの上からでも尻の部分で舌がうごめいているのがわかる。

 キゼアも肛門の筋肉に力を込めてそれを阻止しているようだか、口と違って歯がないから、少しでも気がゆるめばたちま挿入そうにゅうを許してしまうだろう。

「やめろ! やめてくれ!」

 必死で懇願こんがんするキゼアを、舌を伸ばしたまま嘲笑あざわらうように見下ろしていた神官の視線が、ふと、動いた。

 その目が恐怖に見開みひらかれた次の瞬間、空気をくような鋭い音と共に長い舌がられ、あたりに血が飛沫しぶいた。

「ぐぇふっ!」

 血塗ちまみれの舌を押さえて床に倒れた神官の横に、いつの間にか抜身ぬきみの剣を持った黒い人影が立っていた。

 その顔を見たキゼアは、思わず「え? ディリーヌさん?」と声を上げた。

 が、ディリーヌは剣を片手に握ったまま油断なく神官をにらんでおり、切り離されてもまだクネクネと動いている長い舌をもう一方の手でつかむと、キゼアの洋袴からズルズルと抜き取った。

 それを遠くへほうり投げてから、初めて「大丈夫か?」とキゼアにいた。

 キゼアはまだ荒い息のまま、何とか答えた。

「は、はい。ありがとうございます。でも、どうして、ここへ?」

「話は後だ。こいつにトドメを刺すから、しばし待て」

 ディリーヌが再び両手で剣を構えると、倒れていた神官が半身だけ起こして何事かしゃべり出したが、舌が切れているため発音が不明瞭ふめいりょうで聞き取りづらい。

「ひゃめてけれ。ふぁたくしはケスひんでんの、ふぉんもののひんかんだぞ。ふぁたくしをころせば、ふぉまえはしざいとなる。おお、ふぉうだ。かねならたんとふぁるぞ。なあ、とりふぃきしよう。なんなら」

 突然その言葉が途切れ、頭部が上に飛ぶと、首から噴水のように血があふれ出した。

 表情も変えずに剣を振って刃先から血を飛ばすと、ディリーヌは改めてキゼアの方に向きなおった。

「こいつの言ったことは本当だ。神官が妖魔に取りかれていたことは、まだ知られておらぬ。誰かに見つかると面倒だ。一先ひとまず、安全な場所まで逃げよう。確かおぬし、隠形おんぎょうができたろう?」

 キゼアは困った顔になった。

「まあ、できなくはないですが、完全じゃないんです。少し色や形が見えてしまいますし」

 皆まで言わせず、ディリーヌは「構わん」とさえぎった。

「もう日も暮れた。下手へたな魔道でも、多少は役に立つ」

 相変わらずの失礼な物言ものいいに、このような場合であったが、キゼアはフッと笑ってしまった。

「わかりました。じゃあ、この縄をほどいてください」

 キゼアが後ろを向いた直後、ヒュッと剣先がくうを斬る音がして、縄がはずれた。

 筋肉が強張こわばっていたらしく、キゼアが手足を伸ばしていると、ディリーヌがれたように告げた。

「急げ。人の足音が近づいて来ている」

「はい。では、体をぼくに密着させてください」

「こうか?」

 意外にも良い香りがし、黒革くろかわの服を通して伝わるディリーヌの体温に、キゼアはほほを赤らめた。

 が、言われた時にはまだ聞こえなかった足音がハッキリと聞こえて来たため、あわてて隠形の態勢を取った。

 おぼろれながら二人の姿が薄れたが、やはり少し色彩が残っている。

 蠟燭ろうそくの明かりの中をもやのような色彩が移動し始めた。

「その先に、地上へ出る階段がある」

 ささやくようなディリーヌの声が聞こえ、キゼアの「地上?」というやや大きな声がした。

「しっ! 声を落とせ。姿を消しても、それでは意味がないぞ」

「すみません。気がついたらここにいたので」

「説明は後だ。黙って進め」

 薄暗い中、階段らしきものが見えたが、足音はその上の方から聞こえて来る。

 かすかに話し声も聞こえたが、「この忙しい時に、神官はどこへ行かれたのだ?」という言葉からして、この地下室はほかの人間には内密に作られたものであろう。

 足音と話し声が一旦いったん遠ざかるのを待ち、靄のような色彩は一気に暗い階段をのぼった。

 最上段の上に四角い板のようなふたがしてあり、その四辺の形に外の明かりがれている。

 靄の中からスッと手が伸び、四角い板を少しだけ押し上げた。

 中に差し込んで来た青白い光は、月明かりのようだ。

 そのまま周囲の様子をうかがっていたが、近くに物音がしないのを確かめると、ディリーヌの押し殺した声で「行くぞ」と合図があり、靄のかたまりが外へ出た。

「このまま海へ向かう」

「え?」

「静かに」

 靄は大きく神殿の外周をまわり、表の参道の近くに出ると、参道と平行に北へ進んだ。

 吹いて来る風の中に、いその香りがただよっている。

 ザアッ、ザアッと波の音が聞こえて来た辺りで「もう姿を見せても良かろう」と声がして、靄から二人の姿があらわれた。

 ディリーヌは振り返り、あおい瞳で闇をかすように見ていたが、「今のところ、追手は来ないようだな」と安堵あんどすると、意外なことをキゼアに告げた。

「これから舟に乗り、中の島へ渡る」

「はあ? どういうことですか?」

「理由は海へ出てから話す」

 キゼアは声をうわずらせた。

「ええっ、で、でも、実はぼく、叔父さんに行くなと言われたので、こっそり家を出て来てしまったんです。早く帰らないとしかられます」

 ディリーヌは鼻で笑った。

「あの飲んだくれにか? だが、死ぬよりマシだろう」

「そりゃそうですが……。え? ぼく、殺されるような理由は」

「おぬしにはなくとも、ケス神殿のがわにはある。少なくとも、神官を殺した犯人の仲間と思われるのは間違いない」

「だって、そもそもあれは妖魔の仕業しわざですよ。ぼくは、被害者なんです!」

「しっ。声がでかい。くわしい話は舟に乗ってからだ。さあ、行くぞ」


 ヒロールは元々港町であったのだが、帝都として整備される際、入り江に運河をつなげ、やや奥まった位置にある皇帝宮こうていきゅう近くまで船が入れるようにしたため、かえって浜辺はさびれてしまっていた。

 ディリーヌとキゼアが向かった桟橋さんばしも古びて木材がちかけており、所々に穴がいている。

 体重がないかのように軽い足取りで穴をけ、一定の速さで前を行くディリーヌのあとを、キゼアは一歩一歩安全を確認しながら進んだ。

 先に桟橋の端に着き、一つにしばった金色の長い髪を風になびかせながら振り返ったディリーヌは、あきれ顔でキゼアをかした。

「早くしろ。潮目しおめが変わる前に舟を出さねばならぬ」

「わかってますよ!」

 口をとがらせて反撥はんぱつしたものの、油断すれば穴に足をみ入れてしまいそうで、捗々はかばかしく進めない。

「こんなことなら、魔道の浮身術ふしんじゅつを勉強しとくんだったなあ」

 愚痴ぐちるキゼアの前までディリーヌが戻って来て、後ろ向きにしゃがんだ。

ぶされ」

「え、そんな……」

 さすがにじるキゼアに、ディリーヌの「死にたくなければ、負ぶされ」という本気なのか冗談なのかわからぬ催促さいそくの言葉と共に、グッと背中が押し付けられた。

「す、すみません」

 仕方なく手を前に回すと、柔らかな感触があった。

馬鹿ばか、そこは乳房ちぶさだ。少しズラせ」

「あ、はい」

 幸い顔を見られなかったから良かったものの、キゼアは真っ赤になっていた。

 が、そのようなことにはお構いなく、キゼアを背負っているとは思えぬほどの速度で、ディリーヌは桟橋を渡り切り、その勢いのまま海に向かって飛んだ。

「うわっ!」

 キゼアは思わず声を上げたが、ディリーヌはあし屈伸くっしんだけで上手うまく衝撃を殺し、海面に浮かんでいた小舟にり立った。

 舟は二人乗りの小さなもので、ディリーヌは桟橋の柱にもやってある綱をほどいた。

「よし。背中から降りろ。すぐに出発する」

 少ししいような気もしたが、キゼアは素直に「はい」と降りた。

 が、海のない地方の生まれで舟に乗ること自体初めてのキゼアにとって、波間なみまに揺れる小舟の上で立つのは思った以上に難しく、左右によろけて海に落ちそうになった。

「わあっ!」

「何をやってるっ!」

 ディリーヌに袖を引かれ、その胸に抱きめられると、また良い香りがした。

 が、すぐに怒声どせいびせられ、突き放された。

阿呆あほうっ! 舟を転覆させる気か! 舟底ふなぞこつくばって、じっとしておれ!」

「す、すみません」

 情けない顔になったが、泳げない自分が海に落ちたら逆に迷惑をかけると思ったらしく、キゼアは本当に這い蹲った。

「ふんっ」

 ディリーヌは苛立いらだちをかくそうともせず、キゼアをまたぎ越し、船尾にあるを握ると力を込めてぎ始めた。


 二人の乗った小舟が進むヒロール湾は、両手のように細く伸びた東西のみさきに囲まれており、北の外洋の荒波からまもられている。

 それでも、風雨の荒れる季節の一時避難場所として重宝ちょうほうされているのが、二人が向かっている中の島であった。

 中の島はヒロール湾の内部にある小さな無人島で、湾のほぼ中央に位置することからこの名が付いた。

 外洋が荒れるこの季節には、うねりをけて停泊ていはくする船も多い。

 が、月明かりに照らされる中の島の近くに船影は見えず、すでに漁港に戻っているのであろう。

「大丈夫か?」

 ずっと黙ったまま舟を漕いでいたディリーヌが声を掛けたのは、中の島に到着する直前であった。

 実はそれまで船酔いを我慢して口を開かなかったキゼアは、返事をしようとして「うっ」と口を押え、船縁ふなべりから顔を出して海に向かっていた。

 それでも海水で口をすすぐと、「ええ、大丈夫です」と強がった。

 さすがにディリーヌも苦笑した。

「無理をさせてすまなかったな。もうすぐ上陸だ」

「はい」

 吐いて少し楽になったらしく、キゼアは周囲を見回した。

「あれが中の島ですね。でも、無人島でしょう?」

「そうだな。定住している者はいないはずだ。よって、誰にもはばからず一晩過ごせる」

「泊まるのですか?」

「当たり前だろう。まあ、野宿だがな。おお、心配せずとも、あの神官のようにおぬしに手出しはせぬ」

 自分の冗談に笑うディリーヌに、キゼアはちょっとムッとした顔になった。

 そのまま会話も途切とぎれ、ディリーヌは櫓を漕ぐことに集中した。

 直進せずにやや蛇行しているのは、海中の岩礁がんしょうけているようだ。

 と、前方に砂浜が見えて来た。

「よし。この辺に乗り上げよう」

 ひとちると、ディリーヌは櫓を立てて海底を押すようにした。

 舳先へさきの方の舟底がガリガリと砂をこすると、舟から飛び降りた。

 そこはもうディリーヌの太腿ふともも辺りまでしか水深がなく、ともに手を掛けてグイグイと押し始める。

「あっ、ぼくも手伝います!」

 あせって自分も舟から降りようとするキゼアを、ディリーヌは「よせ!」と止めた。

「泳げぬ人間は、この水深でも溺れることがある。余計な手間を掛けさせるな」

 キゼアはくやしそうに唇をんだが、相手の言っていることが正しいことはわかっているから、反論はできない。

 そのかんにも小舟は押され、船体すべてが砂浜に乗った。

「よし、降りていいぞ!」

 キゼアが降りてからになった舟を、ディリーヌは今度は舳先側から引き上げ、船首の穴に通した綱を近くの木の幹に結んだ。

「まあ、しおが満ちても、ここまで上げておけばいいだろう。さて、焚火たきびをするから、たきぎになりそうな枯れ枝を集めてくれ」

 黙ってうなずいたキゼアに、ディリーヌはなぐさめるように告げた。

「そう落ち込むな。誰にだって得手不得手えてふえてはあるさ。ましておぬしはまだ若い。これから学ぶことも多かろう。おお、そうだ。いっそ、本格的に魔道を修行してもいいかもしれんぞ」

「いえ、ぼくは……」

 その時、ディリーヌが大きなクシャミをした。

「すまん。海で洋袴が濡れたからな。とにかく薪を集めてくれ。わたしは火を起こす準備をしておく。焚火で服を乾かしながら、おぬしを助け出した経緯いきさつなどを説明しよう。うむ、とりあえず下は脱いでおくか」

 言うなりディリーヌは黒革くろかわの洋袴をサッとろしてしまい、白い下穿したばきが見えた。

 そのまま上着も脱ぎ始めたため、キゼアは慌てて後ろを向いた。

「あっ。薪を探して来ます」

「頼むぞ」

 小走りに森のある方へ行ったキゼアにはもう見えなかったが、ディリーヌは脱いだ黒革の上着を腰に巻き、その袖を軽く結ぶと、近くの木の枝に洋袴をるした。

 さらに上着の下に巻いていたさらしも解くと、洋袴の横に干す。

 月明かりに照らされたその背中には、不思議な形をした刺青いれずみほどこされていた。

「へええ。まるで宝の地図みてえだな」

 それは、キゼアの声ではなかった。

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