第3章 月下の逃避行
神官の口から伸びる長い舌は、明らかにキゼアの顔面を
クネクネと大理石の床の上を
その表面は
が、蛇のような舌は右に左に動き回り、しつこくキゼアの唇を
「くそっ!」
キゼアは
いっそ、その舌に
が、その意図は相手もすぐに察したらしく、長い舌はサッとキゼアの顔面から離れると、
「ううっ、気持ち悪っ!」
その
今度はキゼアの肛門を狙っているようで、洋袴の
キゼアも肛門の筋肉に力を込めてそれを阻止しているようだか、口と違って歯がないから、少しでも気が
「やめろ! やめてくれ!」
必死で
その目が恐怖に
「ぐぇふっ!」
その顔を見たキゼアは、思わず「え? ディリーヌさん?」と声を上げた。
が、ディリーヌは剣を片手に握ったまま油断なく神官を
それを遠くへ
キゼアはまだ荒い息のまま、何とか答えた。
「は、はい。ありがとうございます。でも、どうして、ここへ?」
「話は後だ。こいつにトドメを刺すから、
ディリーヌが再び両手で剣を構えると、倒れていた神官が半身だけ起こして何事か
「ひゃめてけれ。ふぁたくしはケスひんでんの、ふぉんもののひんかんだぞ。ふぁたくしをころせば、ふぉまえはしざいとなる。おお、ふぉうだ。かねならたんとふぁるぞ。なあ、とりふぃきしよう。なんなら」
突然その言葉が途切れ、頭部が上に飛ぶと、首から噴水のように血が
表情も変えずに剣を振って刃先から血を飛ばすと、ディリーヌは改めてキゼアの方に向き
「こいつの言ったことは本当だ。神官が妖魔に取り
キゼアは困った顔になった。
「まあ、できなくはないですが、完全じゃないんです。少し色や形が見えてしまいますし」
皆まで言わせず、ディリーヌは「構わん」と
「もう日も暮れた。
相変わらずの失礼な
「わかりました。じゃあ、この縄を
キゼアが後ろを向いた直後、ヒュッと剣先が
筋肉が
「急げ。人の足音が近づいて来ている」
「はい。では、体をぼくに密着させてください」
「こうか?」
意外にも良い香りがし、
が、言われた時にはまだ聞こえなかった足音がハッキリと聞こえて来たため、
「その先に、地上へ出る階段がある」
「しっ! 声を落とせ。姿を消しても、それでは意味がないぞ」
「すみません。気がついたらここにいたので」
「説明は後だ。黙って進め」
薄暗い中、階段らしきものが見えたが、足音はその上の方から聞こえて来る。
足音と話し声が
最上段の上に四角い板のような
靄の中からスッと手が伸び、四角い板を少しだけ押し上げた。
中に差し込んで来た青白い光は、月明かりのようだ。
そのまま周囲の様子を
「このまま海へ向かう」
「え?」
「静かに」
靄は大きく神殿の外周を
吹いて来る風の中に、
ザアッ、ザアッと波の音が聞こえて来た辺りで「もう姿を見せても良かろう」と声がして、靄から二人の姿が
ディリーヌは振り返り、
「これから舟に乗り、中の島へ渡る」
「はあ? どういうことですか?」
「理由は海へ出てから話す」
キゼアは声を
「ええっ、で、でも、実はぼく、叔父さんに行くなと言われたので、こっそり家を出て来てしまったんです。早く帰らないと
ディリーヌは鼻で笑った。
「あの飲んだくれにか? だが、死ぬよりマシだろう」
「そりゃそうですが……。え? ぼく、殺されるような理由は」
「おぬしにはなくとも、ケス神殿の
「だって、そもそもあれは妖魔の
「しっ。声がでかい。
ヒロールは元々港町であったのだが、帝都として整備される際、入り江に運河を
ディリーヌとキゼアが向かった
体重がないかのように軽い足取りで穴を
先に桟橋の端に着き、一つに
「早くしろ。
「わかってますよ!」
口を
「こんなことなら、魔道の
「
「え、そんな……」
さすがに
「す、すみません」
仕方なく手を前に回すと、柔らかな感触があった。
「
「あ、はい」
幸い顔を見られなかったから良かったものの、キゼアは真っ赤になっていた。
が、そのようなことにはお構いなく、キゼアを背負っているとは思えぬほどの速度で、ディリーヌは桟橋を渡り切り、その勢いのまま海に向かって飛んだ。
「うわっ!」
キゼアは思わず声を上げたが、ディリーヌは
舟は二人乗りの小さなもので、ディリーヌは桟橋の柱に
「よし。背中から降りろ。すぐに出発する」
少し
が、海のない地方の生まれで舟に乗ること自体初めてのキゼアにとって、
「わあっ!」
「何をやってるっ!」
ディリーヌに袖を引かれ、その胸に抱き
が、すぐに
「
「す、すみません」
情けない顔になったが、泳げない自分が海に落ちたら逆に迷惑をかけると思ったらしく、キゼアは本当に這い蹲った。
「ふんっ」
ディリーヌは
二人の乗った小舟が進むヒロール湾は、両手のように細く伸びた東西の
それでも、風雨の荒れる季節の一時避難場所として
中の島はヒロール湾の内部にある小さな無人島で、湾のほぼ中央に位置することからこの名が付いた。
外洋が荒れるこの季節には、うねりを
が、月明かりに照らされる中の島の近くに船影は見えず、
「大丈夫か?」
ずっと黙ったまま舟を漕いでいたディリーヌが声を掛けたのは、中の島に到着する直前であった。
実はそれまで船酔いを我慢して口を開かなかったキゼアは、返事をしようとして「うっ」と口を押え、
それでも海水で口を
さすがにディリーヌも苦笑した。
「無理をさせてすまなかったな。もうすぐ上陸だ」
「はい」
吐いて少し楽になったらしく、キゼアは周囲を見回した。
「あれが中の島ですね。でも、無人島でしょう?」
「そうだな。定住している者はいないはずだ。よって、誰にも
「泊まるのですか?」
「当たり前だろう。まあ、野宿だがな。おお、心配せずとも、あの神官のようにおぬしに手出しはせぬ」
自分の冗談に笑うディリーヌに、キゼアはちょっとムッとした顔になった。
そのまま会話も
直進せずにやや蛇行しているのは、海中の
と、前方に砂浜が見えて来た。
「よし。この辺に乗り上げよう」
そこはもうディリーヌの
「あっ、ぼくも手伝います!」
「泳げぬ人間は、この水深でも溺れることがある。余計な手間を掛けさせるな」
キゼアは
その
「よし、降りていいぞ!」
キゼアが降りて
「まあ、
黙って
「そう落ち込むな。誰にだって
「いえ、ぼくは……」
その時、ディリーヌが大きなクシャミをした。
「すまん。海で洋袴が濡れたからな。とにかく薪を集めてくれ。わたしは火を起こす準備をしておく。焚火で服を乾かしながら、おぬしを助け出した
言うなりディリーヌは
そのまま上着も脱ぎ始めたため、キゼアは慌てて後ろを向いた。
「あっ。薪を探して来ます」
「頼むぞ」
小走りに森のある方へ行ったキゼアにはもう見えなかったが、ディリーヌは脱いだ黒革の上着を腰に巻き、その袖を軽く結ぶと、近くの木の枝に洋袴を
月明かりに照らされたその背中には、不思議な形をした
「へええ。まるで宝の地図みてえだな」
それは、キゼアの声ではなかった。
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