第10話 読めない心と親友の恋


 ゴールデンウィークが差し迫ったクリニックでは、高熱で休んでいた五十嵐の予約変更も重なり、1日の予約件数を大幅に超えた診察が慌ただしく行き来していた。

 

 忙殺的なスケジュールのお陰で、五十嵐と業務以外に話すタイミングが極端に少なくなり、梛七は変に気を落とさずに済んでいた。

 五十嵐は、あれから何事もなかったかのように出勤し、特に変わった様子もない雰囲気からは、誰かと結婚するような素振りは1ミリも感じない。敵対心からくる天宮の一方的な発言だったのだろうかと、梛七は、3番チェアーで子どものブラッシング指導をしながら考えていた。

 

 「脇田!どこにいる?」

 

 突然、五十嵐のピリついた低い声が、1番チェアーから聞こえてきた。

 

 「今、3番でブラッシングしてます」

 

 梛七は、少し大きめな声で返事を返す。

 

 「南、脇田と代わってくれ」

 

 「は、はい!」

 

 消毒室にいた南が急いで梛七のところに駆け寄る。

 

 「橋口は脇田と代われ」

 

 「はい」

 

 五十嵐の横で助手をしていた橋口の元へ、梛七は新しいグローブに変えながら急いで駆け寄った。

 

 医療の仕事は何でもスピードが求められる。不慣れな助手は、当然ながら先輩に仕事を奪われていく。反対に、助手の不慣れを先輩がカバーしなければならないことも多く、助手たちの底上げがクリニック全体の課題でもあった。

 

 五十嵐の隣で、C3:per(=シースリー:ペル・う蝕が歯髄まで進んでいる状態)の助手をしようとしていた橋口は、抜髄(歯の神経を抜くこと)する際に使うファイル(細いドリルのような器具)の知識が乏しく、それに気づいた五十嵐は、それがどういう意味なのかを橋口に分からせる為に、先輩の梛七を呼びつけた。

 

 「知らないことを知らないままにしない。分からないならちゃんと先輩に聞いておけ」

 

 「はい。すみません…」

 

 珍しく、五十嵐から厳しい言葉が飛んだ。いつもなら、先輩である梛七や南に「伝えておいてくれ」と言うのに。

 

 「橋口、脇田の隣でちゃんと見とけよ」

 

 「は、はい…分かりました」

 

 梛七は橋口を手招きし、ここから見るよう指示する。

 

 「脇田、Hファイルの25号の21ミリ」

 

 「はい」

 

 五十嵐と梛七の息のあった処置が始まる。

 五十嵐からファイルに付着する歯髄を差し出され、梛七はそれをガーゼで拭き取っていく。それを何度か繰り返し、汚染された神経を全て取り出す。梛七は、時折、唾液中の細菌が根管内に入らないようバキュームで唾液を吸い取り、次は根管を乾かすため、五十嵐に綿栓(=めんせん・綿のコットンを小さく割いて長細くしたもの)を渡していった。

 

 「FC」

 

 「はい」

 

 梛七は、綿栓の先端にFC(=エフシー)と言われる根管貼薬剤を染み込ませたものを素早く渡し、五十嵐はそれを根管内に差し込む。最後にキャビトンと呼ばれる仮封剤(=かふうざい・仮の蓋をするセメントのようなもの)で重鎮し、5分程度で全ての処置を終わらせた。

 五十嵐は患者に今後の治療の説明をしたあと、すぐに席を立ち、次の患者が待つチェアーへと向かっていった。

 

 「また後で一緒に復習しよう」

 

 「はい、またお願いします。すみませんでした」

 

 メモを取りながら自分の勉強不足を痛感した橋口は、申し訳なさそうに梛七に謝った。

 

 五十嵐は以前よりも怒る回数は減ったものの、機嫌が悪かったり、何も口に出さずイラついていることは多い。それは忙しければ忙しいほど増える。その殺気立った雰囲気と、何とも言えない威圧感に、新人だった頃の梛七も苦しんだ。五十嵐の機嫌が悪い日はいつも、スタッフたちと呪文のようにこの合言葉を唱えている。

 

 『大丈夫。今日はそういう日だから』と。

 

 助手たちが萎縮しないように、梛七は常に助手たちをこうして気にかけ、今日もこの呪文を橋口と一緒に唱えていた。

 

 色んなものを抱えているであろう五十嵐の背中を眺めながら、梛七は次の患者を呼びに待合室へ向かった━︎━︎━︎。

 


 ◇◇◇

 


 「じゃ、明日からみんな長期の休みに入るから、ゆっくり羽を伸ばしてくれ。遠出する時は、くれぐれも事故には気をつけるように。また10日後によろしくな。お疲れ様」

 

 『お疲れさまでーす!』

 

 忙殺的な日々がようやく終わり、明日から10連休の休みに入る。スタッフたちは、顔に安堵とやり切った感を浮かべながら続々と帰っていく。

 

 「脇田、着替えてからでいい。少し話せるか」

 

 「は、はい」

 

 「院長室で待ってる」

 

 「分かりました。着替えたらすぐ行きます…」

 

 (何だろ…。仕事の話?もしかして、天宮さんと結婚するって話?…)

 変な汗が湧き出てくる。胸を激しく打つ鼓動が止まらない…。すぐに女子用更衣室に入り、私服に着替た梛七は、冷静さを取り戻そうと何度も自分の胸を摩った。

 

 ふっーと深呼吸。

 

 コンコンッ。

 医院長室の扉をノックする。

 

 「入れ」

 

 「失礼します」

 

 ソファーにどすっと座っていた私服姿の五十嵐と目が合う。

 

 「お待たせしました。あの、お話とは…?」

 

 「そこに座れ」

 

 「は、はい」

 

 神妙な面持ちで五十嵐は脚を組み直す。梛七は、早くなる鼓動をますます抑えられなくなっていた。

 

 「ここしばらく忙しくて、ずっと言えずにいたんだが…」

 

 「はい…」

 

 「……」

 

 「……」

 

 「…連休明けから、本格的に助手たちの指導をして欲しい」

 

 「……」

 

 目が点になる。今の間は何だったのか。

 (し、指導…?)

 さっきの変な汗や緊張はどこへやら、梛七はポワ〜っと力なく拍子抜けしてしまった。

 

 「ん?どうした?」

 

 「いっ、いえ。私もそろそろ必要だと思ってましたので、ははっ。連休明けから本格的に指導していきたいと思います」

 

 「何笑ってんだ。気持ち悪いぞ」

 

 「す、すみませんっ」

 

 「ま、そういうことだから、また連休明けからよろしく頼む」

 

 五十嵐はバッと立ち上がり、机にあった荷物と上着を抱えた。梛七は拍子抜けした顔を浮かべたまま、荷物を持ち、二人は従業員用の玄関へと向かった。

 靴を履き替える五十嵐の背中を見ながら、変に期待を裏切られた梛七は少し不貞腐れた。

 好きが故に、感情を大きく揺さぶられているのだなぁ、と梛七は思う。読めない五十嵐の心。いつになったらこの機微を掴むことができるのだろうか。西陽に照らされた五十嵐の横顔はとても眩しく、いつもより遠くに感じた。

 

 

 「家まで送ってやる。乗れ」

 

 「い、いえ。今日はいつものスーパーに寄って帰りたいので…」

 

 「じゃ、そこで降ろしてやる」

 

 天宮がどこかで見ていたら怖いと思っていたが、梛七は断れなかった。

 五十嵐の車は相変わらず綺麗にされていて、今日は落ち着いた洋楽が流れていた。助手席の位置は、静岡の学会に行った時と同じまま何も変わっていない。誰も乗せていないのだろうか、と梛七は顔色を伺うように五十嵐を見た。

 

 「連休、どっか行くのか?」

 

 「あ、いえ。女友達がうちに遊びに来るのと、実家に顔を出しに行こうかと思ってるぐらいで…どこにも。先生はどうされるんですか?」

 

 「あぁ?俺?俺は、ジム行って、たぶん橘と飯食いに行って、親父が顔出せって、うっせーから俺も実家に行く感じかな」

 

 梛七は聞こうか迷った。天宮さんと一緒に過ごさないのか…と。いや、余計なことは聞かないほうがいい。また機嫌を悪くされたら困る。

 

 「ははっ。そうなんですね、橘先生と勝先生によろしくお伝えください」

 

 「あぁ。伝えとく。ここでいいか?」

 

 「あ、はいっ!ありがとうございます!楽しんでくださいね連休。では、また。お疲れさまです」

 

 車を降りた梛七は、五十嵐の方を向いて軽く頭を下げる。五十嵐は、梛七に向かって手を上げ、マンションの方じゃない大通りへと消えていった。

 

 

 ◇◇◇

 

 

 ピンポーン。

 

 「はーい」

 

 「おっつぅ〜梛七!酒とつまみ持ってきた!」

 

 「え〜、ありがとう梢子〜。入って〜」

 

 「お邪魔しまーす」

 

 GW初日の夕方、約束していた梢子が梛七の家に遊びに来た。お酒を呑むだろうと思い、梛七はカレーではなく、割烹料理店で出るような沢山のつまみを作っていた。

 

 「これ全部、梛七が作ったの?」

 

 「うん!味見してみて。このだし巻き玉子、いい感じにできたの〜」

 

 梛七は冷えたグラスを冷蔵庫から取り出し、ダイニングテーブルに座っている梢子に渡す。

 冷えた缶ビールをお互いのグラスに注ぎ合い、乾杯とグラスを重ねた。

 

 「ねー梢子。ちょっとさー、話があるんだけど…」

 

 「何、いきなり。まだ一杯目なんだけどー。それ一杯目でもダイジョブなやつ?」

 

 「ん〜どうかな。五十嵐先生の元カノのこと…なんだけど…」

 

 一杯目では少々早すぎると思ったが、梛七は、梢子と会った時に話そうと、天宮と鉢合わせた出来事を事細かに話した。想像していた通り、梢子の顔が段々としかめ面になっていく。

 

 「はぁ〜っ⁈五十嵐先生ともうすぐ結婚するって⁈意味分かんないんだけど!」

 

 「私も、意味わかんない…」

 

 「絶対、結婚なんて嘘だってー。だってそういう相手がいたら、普通はそういうことしないでしょー。スタッフを好意的に?家まで送るとか。家に呼ぶとか。100パーその女の嘘だって」

 

 グラスの中にあった少量のビールを勢いよく煽る梢子。梛七も同じくグラスを空け、冷蔵庫で冷えていた2本目を開ける。

 

 「五十嵐先生には話したの?」

 

 「話してない…」

 

 「何でよ?」

 

 「タイミングなくて…」

 

 梢子は溜め息を吐く。梛七の性格を分かっているだけに強く咎めることはできない。でも、事実を報告する必要は絶対にあると梢子は話す。

 

 「伝えといた方がいいよ。お互いの為にも…」

 

 「うん…」

 

 「何があるか分かんないから」

 

 「うん…」

 

 「もう負けんな!梛七!いい?ここまできたんなら、何が何でも五十嵐先生にこの想いを伝えんだよ!」

 

 「わかってるよぉ〜。分かってるけどさ…」

 

 梛七はきょとんと肩を落とす。そんな梛七を見かねた梢子は、梛七の背中を思いっきり叩いた。

 

 「いったぁ〜い」

 

 「はい、ななちゃん、シャキッとするぅ〜」

 

 梢子はくすくす笑いながら梛七の作った揚げ出し豆腐を食べる。とろ〜んとした顔を見せながら、うまっ、と声を漏らしていた。

 

 「でも、気をつけた方がいいかもね。その天宮って女。話聞いてるとストーカー気質じゃん。もしかしたらこの家も知られてるかもよ…」

 

 「かもしれない。だからちょっと怖いの。色んな行動をどっかから見られてるかもしれないと思って…」

 

 そう。本当にそれが怖いのだ。常に見張られているのではないかと、梛七はずっと不安に思っている。

 

 枝豆を含みながら、神妙な面持ちで梢子は続けた。

 

 「なんかあったら絶対、電話して。絶対だよ」

 

 「…うん。分かってる。ありがとう、梢子」

 

 

 ピンポーン。

 突然、梛七の家のインターホンが鳴った。話の流れから、二人は驚きを隠せず顔を見合わせる。

 

 「何?このタイミングで…怖いんだけど…誰だろ」


 「梛七、待って。私が画面見る」

 

 梛七と梢子は恐る恐る、光っているインターホンの画面を覗く。そこには顔見知り、いや絶対的安心な人物が映し出されていた。

 

 「梛七ぁ〜!アンタちっとも電話出てくんないから来ちゃったじゃないの〜。あらやだ、梢子ちゃんもいたの〜?こんばんは〜」

 

 騒がしく大きな紙袋を抱えて、ずかずかと玄関に入ってきたのは梛七の母、脇田ひろ子だった。

 

 「ひろ子ママじゃん!久々ぁ〜」

 

 「久しぶりね〜梢子ちゃん、元気だった?相変わらず、お肌綺麗ね〜。どこの使ってるの?」

 

 「えっとね〜ここのやつ。韓国の━︎━︎━︎」

 

 学生の頃から梛七の実家に遊びに来ていた梢子は、梛七の家族とも仲が良い。ひろ子にも、父の一茂(かずしげ)にもタメ口で話す。早くに両親を亡くしてしまった梢子は、誰よりも家族思いで、梛七の家族を自分の家族のように大切にしている。それを知ったひろ子は、母親のように思ってちょうだい、と涙を浮かべて梢子に伝えていた。

 

 「ちょっと、ママ。この袋ん中何入ってんの〜?」

 

 玄関先で強引に渡された紙袋を抱えて、梛七はひろ子に尋ねる。

 

 「ちょっとこっち持ってきて。一緒に食べな〜い?じゃーん、見て。Chez moi(シェ モワ)のタルトケーキ〜」

 

 「何その女子な感じ!」

 

 「えーやばっ。これ、新しくできたあのフランス人のケーキ屋さんのだよね?超〜並んでんじゃん。あそこ」

 

 大きな紙袋から出てきたのは、まさかの艶々のイチゴがたくさん乗ったタルトケーキだった。並ぶのが嫌いなひろ子はどうやって手に入れてきたのだろう。ひろ子の幅広く存在する友人のツテだろうか。梛七は、そんな事を思いながらお皿とフォークを人数分用意し、ひろ子専用の紅茶を淹れていた。

 

 「ねぇ、パパは大丈夫なの?一人にさせて」

 

 「今日あの人ゴルフなの。その後、取引先の人たちと食事会。世の中が賑わってるっていうのに、家でひとりケーキ食べるのもつまんないじゃない。ランチに行くお友達たちも、家族の予定が入ったりしていて会えないのよ〜。だからふらっとドライブがてら、梛七の家に遊びに来たってワケ」

 

 ふぅ〜ん。そういうことか。梛七は、てっきりまた一茂と喧嘩でもして逃げてきたのかと思っていたが、どうやら今回は違っていたようだ。確かに、このタルトを一人寂しく食べるのは辛すぎる。そこは梛七もひろ子に同情した。三角に切り落とされた先っぽをフォークで刺し、口に含む。さすが行列のできる店だけあって、イチゴも、クッション材のようにたっぷりひかれたカスタードクリームも格段に美味しかった。普通に考えてお酒の後にタルトはしんどいが、これは完全に別腹だった。

 

 三人でタルトを食べながら、たわいもない話を二時間ぐらいする。ひろ子の職場の花屋に、イケメンが来たという話で盛り上がり、「早くあなた達もいい人見つけなさぁ〜い」と説教じみたことを吐き散らして、ひろ子は満足気に帰っていった。

 

 酔いも程よく回ったところでそれぞれ風呂に入り、寝る準備を始めた梛七と梢子。リビングに布団を川の字に並べ、オレンジ色の豆電球をつけて布団に入った。

 

 「ねぇ、梛七」

 

 「ん?」

 

 「私もさ、好きな人できたんだ…」

 

 「えっ?マヂ?」

 

 「…うん。歯科医師の橘青志って人…」

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