第9話 好きな人の寝顔


 翌朝、普段通りクリニックに出勤した梛七は、珍しく早めに来ていた伊東へ声をかけた。

 

 「伊東先生、おはようございま〜す。早いですね」

 

 「お!わっきー、おはよう。今日ね〜五十嵐先生、体調不良でお休み。高熱が出たって昨日の夜中に連絡あってさ〜」

 

 「…えっ?五十嵐先生が…高熱ですか…?」

 

 「うん。ここ最近、五十嵐先生ずっと無理してたからね、疲労だよ…きっと。あ、今日は、予約の変更を優先にしてもらって、終わり次第早く帰っていいって」

 

 「分かりました…」

 

 朝の準備が全く手につかなくなるほど、梛七は完全に上の空になった。何も出来ないもどかしい気持ちが、風船のように膨れ上がっていく。ブラインドを開ける手が止まってしまった。


 (ダメ。ちゃんと仕事しなくちゃ…)


 個人的な私情を挟まないよう、梛七は何とか気持ちを切り替え、受付に戻って予約変更の対応に徹した。

 

 受付の藤原と佐々木も協力し、五十嵐が受け持っていた患者の診療は、全てキャンセルすることができた。残りの患者は矯正器具の調整や装着のみになり、伊東の助手は全て南に任せ、梛七は佐々木がやっていたカルテ整理を手伝うことにした。

 

 午前の診療が終わりに近づいてきた頃、五十嵐からクリニックに一本の連絡が入った。どうやらコロナやインフルの感染症ではなかったようだ。電話をとった藤原は、今日の状況と昼過ぎに休診する旨を報告し、大事をとって休んでもらうよう五十嵐へ伝えていた。

 


 ◇◇◇

 


 全ての診療を無事に終え、家に着いた梛七は迷惑を承知で五十嵐にラインを入れた。


 梛七━︎(五十嵐先生、お疲れさまです。体調、大丈夫ですか…?)既読


 五十嵐━︎(今日は、迷惑かけてすまなかった。熱だけなんだが、まだ下がりそうにない)既読


 梛七━︎(そうですか…。食事とか水分はちゃんと摂れてますか?)既読


 五十嵐━︎(水分だけは)既読


 梛七━︎(もし、必要なものがあれば持っていくこともできるので…。私でよければご連絡ください)既読


 五十嵐━︎(ありがとう。でも、気持ちだけで十分だ)既読

 

 これ以上、LINEを送ることはできなかった。


 (やっぱり、私に出来ることは何もないんだ…)


 梛七は諦めたようにiPhoneのサイドボタンを押して画面を閉じた。



 ◇◇◇



 梛七の気持ちを知らない五十嵐は、同僚の脇田に頼るわけにはいかないと、親友の橘に電話をかけていた。

 

 「大丈夫か?傑。悪ぃ〜、すぐにでも行ってやりてーんだけど、俺、今研修で東京なんだよ。誰か他に頼れる奴いねーか?」

 

 「そうか…東京か。それが、身内はみんな夜勤で…、親父は電話出ねーし、伊東も矯正の先生らとの飲み会で、珍しく誰も捕まんねーんだわ…」

 

 「こういう時に限ってか〜…。ん〜まいったな。あ!そうだ!ななちゃんは?」

 

 「いや…。一応、あいつから連絡もらったけど、さすがに悪ぃだろ…。心配かけたくねーし…」

 

 「たまにはいいんじゃねーの?心配かけたって。じゃ天宮に頼むか?」

 

 「やめろ。こんな時に冗談はよしてくれ…」

 

 「ぶはははっ。とりあえず、ななちゃんに来てもらえよ。それだったら俺も安心だし。あ、ごめん。病院からキャッチ入った。また連絡する」

 

 「あぁ分かった…。じゃ」

 

 橘と電話を切った五十嵐は、iPhoneを持ったまま寝返りをうった。自力で行動しようと思ったが、さすがにここまでの高熱に冒されていると、車の運転は疎か外出さえもままならない。五十嵐は悩みに悩んだ末、橘に言われた通り、連絡をくれていた梛七に頼ることにした。

 

 

 ◇◇◇



 五十嵐━︎(脇田、すまない。頼ってもいいか?)既読


 梛七━︎(もちろんです。何でも言ってください)既読


 五十嵐━︎(何か口にしたいんだが、適当に買ってきてくれないか?)既読


 梛七━︎(分かりました。何か適当に用意しますね。先生のご自宅を教えてもらってもいいですか?)既読


 五十嵐━︎(脇田がよく行くスーパーの横に、でかいマンションあんだろ。そこだ。10階の1001号室。オートロックは100100で解除できる。そのまま上に上がってきてくれるか)既読


 梛七━︎(分かりました。また分からなかったら連絡します)既読


 

 まさか、五十嵐から連絡が来るとは思ってもいなかった梛七は慌てて準備をする。

 

 (先生、意外と近いところに住んでたんだ…)

 五十嵐の家は、梛七の住むマンションから、徒歩10分もかからない所にあるお洒落な高層マンションだった。五十嵐は普段、車で通勤している為、てっきり、もっと遠くに住んでいるものだと思っていた。

 

 荷物を抱え、8分ほど歩いた梛七は、スーパーに立ち寄り、五十嵐の住むマンションのエントランス前に到着した。オートロックを言われた通り解除して、中に入り、降りてくるエレベーターを待った。

 エントランスに聳え立つ大きな窓と緑の木々たちが、美しいオレンジ色のライトに照らされ、ホテルの入り口のような高級感を漂わせていた。

 梛七は、降りてきたエレベーターに乗り、10階へ向かう。1001号室のウッド調のドアの前に着き、恐る恐るインターホンを鳴らした。

 自動で鍵が解除される音がして、入ってきてくれ、と五十嵐からラインが入った。

 

 ガチャ。


 「脇田です…お邪魔します…」

 

 玄関と廊下の照明が同時につく。

 玄関の扉を閉めると鍵が自動に閉まった。手を消毒し、靴を脱いで中に入ると、左奥にある扉が少しだけ開いていた。

 

 「先生…?」


 「ここにいる…」

 

 ベッドで横になったまま、ぐったりしている五十嵐を見つけ、梛七は荷物を置いて思わず駆け寄った。

 

 「先生っ…大丈夫ですか…?」


 「すまない…」


 「だいぶ辛そうですね…。今、色々持ってきたので、準備します」

 

 五十嵐は少しだけ上体を起こした。

 梛七はトートバッグから、買ってきた清涼飲料水を取り出し、キャップを外して五十嵐に渡す。

 熱、測りましょう、と言って、梛七はベッドヘッドに置いてあった体温計を五十嵐の脇にそっと入れた。

 

 「先生、キッチンお借りしてもいいですか…?」


 「好きに使ってくれ…」

 

 音の鳴った体温計を脇から取り出すと、39.5と表示されていた。少し横になっていてもらうよう五十嵐に伝え、梛七は荷物を持って、リビングにあるキッチンへ向かった。

 

 20畳程あるリビングに入ると、使用感のない真新しいアイランドキッチンが左側に設置されていた。

 梛七は、トートバッグから荷物を取り出し、持参した小さな鍋に水を入れ、おぼつかない手でIHコンロのスイッチを押した。

 

 キッチンからリビング全体を見渡すと、黒で統一された家具と、綺麗に整頓されたオシャレなインテリアが所々に飾られていた。

 素敵なお部屋だなぁ…、と思わず見惚れてしまう。

 

 梛七は、感心してる場合じゃない、と首を横に振り、持ってきた新品のアイスバッグに、水と氷を入れて五十嵐の寝ている部屋に持っていった。

 

 「先生…アイスバッグ、首周りによかったら…。今、鮭雑炊を作ってます。少しだけでも食べられますか…?」


 「あぁ…」


 「出来たらまた声かけますね」

 

 梛七はキッチンに戻り、カタカタ鳴り始めるフタを外し、溶き卵をゆっくりと流し込んだ。そこから更に弱火にして2分ほど煮立て、最後に、買ってきた鮭と三葉を添えて鮭雑炊を完成させた。

 

 五十嵐の寝ている部屋に行き、また五十嵐に声をかける。

 

 「先生…、鮭雑炊できました。起き上がれますか?」


 「あぁ…」

 

 五十嵐はアイスバッグを持ったまま、ゆっくりと起き上がり、ベッドから降りてリビングまで梛七の肩を借りて歩いた。アイランドキッチンの向かいにある、4人掛けのダイニングテーブルに五十嵐は腰を下ろし、用意されていた熱々の鮭雑炊を眺めた。明らかに手作りの雑炊だと見て分かった五十嵐は、驚いた顔を梛七に向ける。

 

 「…これ、脇田が作ったのか?」


 「あ、はい。売ってるものよりも手作りの方が体にいいと思って…。あっ、すみません。勝手に作ってしまって…市販の物の方がよかったですか…?」


 「…いや。ありがとう。いただきます…」

 

 梛七は、余計なことをしてしまったのではないかと口をつぐんだ。良かれと思った行為が、かえって迷惑だったんじゃないかと、急に不安になった。

 

 取り皿に取り分けた鮭雑炊を五十嵐はゆっくりと口に含み、とろんとした疲れ目で「美味い…」と声を漏らした。五十嵐は半分ほど食べ終わって、取り皿にれんげを置く。

 

 「こんな美味い鮭雑炊、初めて食った…。残りは明日の朝に食うから…置いといてくれるか…?」


 「は…はい。お口に合って良かったです…」

 

 梛七の不安は少しだけ和らいだ。

 冷蔵庫を開けていいか五十嵐に確認し、トートバッグから出しておいた清涼飲料水とゼリーを冷蔵庫に閉まった。

 

 五十嵐をベッドまで連れて行き、梛七はキッチンに戻って後片付けを始めようとした刹那。ここに立って、またこの光景を眺めることが出来るのだろうか…、それともこれが最初で最後の眺めになるのだろうか…、と行末を映し出すかのような切ない思いを巡らせた。


 (またここに来れたらいいな…)


 梛七は、最後にまたリビング全体を眺める。

 キッチンを元通り綺麗にして、梛七は荷物を持って五十嵐の部屋へ向かう。ふと時計を見ると20:52を指していた。

  

 「先生…私はこれで帰りますね…。キッチンに雑炊、冷蔵庫にゼリーが入ってますので、食べられそうな時に食べてください。何かあったら…また連絡してくださいね」

 

 五十嵐は、目を瞑りながらそっと口を開いた。

 

 「…なぁ、脇田…」


 「はい」


 「…ほんの少しでいい、隣にいてくれないか…」

 

 普段の頼もしい五十嵐からは想像もできないような弱々しい問いかけに、梛七は目を見開いて驚いてしまった。こくりと静かに頷きながら、上着と荷物を置いて五十嵐の寝ている横にそっと腰を下ろした。


 秒針の音だけが静かに鳴り響く。


 五十嵐の無防備な寝顔を眺めていたら、好きだという気持ちがいつも以上に溢れ出てきた。力なく解放された手をそっと握りたくなった。頬にそっと触れたくなった。辛そうな体をそっと抱きしめたくなった…。

 あまりの愛しさともどかしさに、梛七は首を横に傾げながら眼球を潤わせた。

 ゆっくりと目を開けた五十嵐と梛七の潤んだ瞳が優しくぶつかり、しばらく見つめ合う…。

 

 「…どうした?泣きそうな顔して…」


 「い、いえ…すみません。大丈夫ですか…?」


 「引き止めて悪かった…。一人で帰れるか?」


 「はい、大丈夫です。すぐそこですし。ゆっくり休んでくださいね。おやすみなさい」


 「…おやすみ。家に着いたら必ずLINE入れてくれ」


 梛七は大きく頷き、荷物を持って静かに部屋を出ていった。玄関の扉が静かに閉まっていく。まだ寝室に残っている梛七の香りを感じながら、五十嵐はまた深い眠りについた。

 


 ◇◇◇

 


 翌朝、目が覚めた五十嵐はすっかり元通りになり、寝ぼけた身なりをしたままリビングへ向かった。昨日の出来事は高熱のせいであまり覚えていなかったが、確かに梛七がここにいたという痕跡はIHのコンロにしっかりと残っていた。梛七が作った鮭雑炊を温め直し、五十嵐は冷蔵庫を開ける。


 (本当に気が利く女だな…あいつは)


 パウチに入ったゼリーを取り出し、五十嵐はそれを咥え、リビングのカーテンを開けた。

 テレビをつけ、朝のニュース番組を眺めながら、鮭雑炊をダイニングテーブルに運ぶ。そういえば、あいつはちゃんと家に帰れたんだろうか、と寝室に放置していたiPhoneを急いで取りに行き、黒い画面をタップした。


 梛七━︎(先生、今家に着きました。早く元気になってくださいね。おやすみなさい)


五十嵐は、安心してリビングに戻り、梛七へお礼の返事を返した。

 

 鮭雑炊が入った小さな鍋をふと見る。見覚えのあるブランド名… 。先日、静岡のアウトレットに行った時に、梛七が好きだと言っていたキッチンウェアの鍋だと五十嵐は気づいた。わざわざ持ってきてくれたんだな、と顔を綻ばせながら、半分残しておいた鮭雑炊を温かいうちに食べる。


 (やっぱり美味い…)


 手料理をあまり食べたことのない五十嵐は、梛七の手料理に胃袋を掴まれてしまった。

 


 ◇◇◇

 


 昨晩の夜、五十嵐の家の玄関を出て、エレベーターで1Fのエントランスに降りた梛七は、外に出て一人の女性に声をかけられていた。

 

 「脇田さん?先日はどうもありがとう」

 

 梛七は一瞬、誰だか分からなかったが、靡く栗色のロングヘアーを見て、先日クリニックに来た五十嵐の元カノ、天宮恭子だと認識した。

 

 「あっ…。先日、クリニックに来られた天宮さん…でしょうか…」


 「ふふっ。そう。名前覚えててくれたのね、さすが傑のお気に入りの衛生士さん。ところで、傑の家で何してたの?」

 

 天宮の目つきが急に変わり始める。

 

 「五十嵐先生、高熱を出されてまして。私は必要なものをお届けに伺っただけです」

 

 天宮を煽らないよう、梛七は毅然とした態度で振る舞った。

 

 「ふぅ〜ん。傑とどういう関係なの?」


 「私はただの同僚です…」


 「ただの同僚なのに、家を出入りできる関係なんだ〜」

 

 天宮は嫌味を含めた口調で、梛七を責め始める。

 

 「目障りなんだよね、あなた」


 「……」


 「静岡の学会で、傑の横に立って挨拶に回ってたらしいじゃない?」


 「それはただ、スタッフとしてご挨拶をし…」


 「あのさー悪いんだけど、私の傑に近寄んないでくんない?私たちもうすぐ結婚するから」

 

 梛七は左手で口元を押さえ、絶句してしまった。

 

 「仕事でも、傑と距離を置いてほしいの。これ以上、あなたを傷つけたくないから〜。だからよろしくね」

 

 天宮は、気味の悪い笑みを梛七に向けていた。

 気持ちの整理ができない梛七は、呆然とその場で立ち尽くしてしまう。

 

 「ねぇ?聞いてるぅ?」

 

 艶やかな唇を立てて覗き込んでくる天宮を無視し、梛七は勢いよくその場から走り去った。

 

 行き交う車のヘッドライトに照らされるたび、これまでの五十嵐との思い出が鮮明に蘇ってくる。

 孤独を感じていた新人時代に、手を差し伸べてくれた五十嵐。変わりたいという願いに、疲れた顔一つせず、沢山の時間と労力を費やしてくれた。どんなけ厳しく叱られても、絶対に諦めず、五十嵐の背中を必死で追いかけた。自ら「距離を置く」だなんて、そんな選択はしたくない。懸命に築き上げてきた信頼関係を、誰も知らない赤の他人に、こんな形で、壊されてしまうのは心外だった。


 五十嵐の口から聞くまでは絶対に信じないと、梛七は自然と滲み出てくる涙を両手で拭いながら家路を急いだ。今日の五十嵐には、天宮と鉢合わせたことは話さないほうがいいと思い、当たり障りのないLINEを入れておいた。

 


 ◇◇◇

 


 一晩中、物思いに耽た梛七は、リビングのソファーで目を覚ました。


 (今日は、休診日でよかった…こんな顔で出勤できない…)


 どうやら化粧を落とさず寝てしまったようだ。ファンデーションは崩れ、アイラインは滲み、マスカラの細かいカスが下瞼に点々とついている酷い有様だった。床に放置していたiPhoneの画面をそっとタップすると、五十嵐から届いていたLINEが2通表示された。

 

 五十嵐━︎(脇田、昨日は色々と面倒かけて悪かった。お陰で熱も下がって、明日からは出勤できそうだ。脇田も、今日はゆっくり休めよ)既読

 五十嵐━︎(あ、鮭雑炊、美味かった。ありがとな)既読


 

 普段よりも優しい文面を読んだ梛七は、自分だけが知っている五十嵐を信じたいと思った。

 

 リビングの大きな窓から陽が差し込み、灰色とオレンジ色が混在した鮮やかな空を見遣る。

 梛七の心にかかった靄(もや)をゆっくり掻き消すかのように、空はうらうらと晴れ渡っていった。

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