第7話「背に腹は代えられぬ」 Bパート
藍色を霞ませた灰色グラデーションの空を、眠たそうな白い雲と黒い雲が千切れ途切れ気まぐれに泳ぐ。
早朝の風は夜を吸ったまま冷たく、北半球に冬の訪れを告げる。
時計の針はまもなく朝05時30分。
町は東雲、未だ明けず。
神無月も残り2日。
こうして新たなる日が巡り、また六曜は
山ではカラスが鳴き騒ぎ、海では魚の群れが右往左往し、町ではネズミが家を捨て、花は咲くのを躊躇う。
自然界では奇妙な異変が各地・各所で起きているが、それらを危機が近付いてくる前兆と理解する人間は極めて少ない。
ましてや今夕、雨滝砂歌音(砂姫乃の双子姉)を含む多くの被害者を出した凶暴なパイオビッカーである、あの大男が再び現われることなど、今この静かな朝、誰ひとり知ろうはずもない・・・。
アインザッツは早朝から出掛ける準備を進める。
幾つかの書類に再度、目を通す。
折しもコンコンと木扉をノックする者がいる。
書斎の物音が気になったのであろう、純白のガウンを羽織ったペニーがドアの隙間から顔を出す。
「・・・おはようございます、おじさま」
「ペニーか。起こしてしまったな。おはよう」
作業の手を少しだけ休め、入室する少女の方に向き直す。
「私は今から行かねばならん所がある。朝食は
「はい・・・」
「・・・いや、遅くなるやも知れん」
「え・・・?」
「今日一日、この屋敷で気兼ねなく自由に過ごしていなさい。但し、
「わかりました、おじさま・・・」
アインザッツは鞄に書類や、おそらくは小さめの“パイオボイニャーの布”であろうものを詰め込むと、厚い絨毯の上を微かな足音をさせ大股でエントランスホールへと向かう。
銀髪の少女は置いていかれまいと早足で着いていく。
途中、廊下にいた黒猫のセンチネルが2人を見付けお供する。
老紳士がロングコートに袖を通す。
玄関の大扉を開くと冷気が屋敷の床面にスゥウゥと入り込んだ。
裸電球のポーチライトが冷ややかに点る玄関先からアインザッツ博士を見送る少女と黒猫。
「ペニー、センチネル、充分に気を付けてな」
階段を降りる老体の息は白い。
「おじさまもお気を付けて。ご無事にお帰りください・・・」
か細いペニーの足首にセンチネルが戯れ「にゃあ」と短く鳴く。
少女と猫を背中に残して、老紳士は朝霧に覆い隠された森の小路へと姿を消す。
「おいでセンチネル。もう少し眠りましょう・・・」
同じ時刻、同じ寒い朝。
近所を走る新聞であろうか牛乳であろうか、配達のバイク音が聞こえる。
いつもと違う雰囲気と部屋の香りに寝ぼけ眼の砂姫乃が眉を潜める。
「・・・おはよう砂姫乃」
「・・・あぁ。あ、おはよう。あれ?・・・明日花だ。・・・あ、そっか、あたし明日花んちに泊めてもらったんだ」
「そうだよ・・・」
寝間着も自分のじゃない、知らないTシャツだ。
「・・・そうだそうだ。思い出した・・・。明日花、
「・・・そっか。よかった」
明日花は上体を起こし、はだけて見えていた右肩を隠すためにTシャツを引っ張る。
「ちょっと待って・・・砂姫乃、コーヒー飲む?」
砂姫乃が手足を「う~ん」と伸ばしながら答える。
「んあ、うん。紅茶ある?」
「あるよ。ミルクもレモンもないけど・・・」
明日花がケトルでお湯を沸かす。
「お砂糖だけでいいよ」
「・・・食パンはトーストする?」
「あたしは生のままで」
「ウチと一緒だ・・・」
2人は顔を見合わせ軽く笑う。
砂姫乃がカーテンを開くと、ぼんやりした陽光が優しく射し込む。
彼方の山並みが曇り空にシルエットを浮かべている。
「この季節・・・あそこから朝陽が昇るんだね・・・」
寝間に戻ってきた明日花が遠くを眺めながら囁き、初めてお泊まりを許した2コ年下の女の子の隣に寄り添う。
ここからの日の出は彼女も初めてだった。
砂姫乃も朝の光景に目を細める。
「きれいだよね・・・」
しばしの緩やかなひと時。
それを呼び覚ますかのように、お湯が沸く。
明日花は小走りでキッチンに立つと、カチャカチャと食器を並べ、朝食の準備を始める。
「あぁ、明日花、手が痛いでしょ。あたしがするよ!」
砂姫乃が交替する。
こうして小さい組み立てテーブルに紅茶とコーヒー、お皿には6枚切り食パンが2枚。
2人は「いただきます」と声を揃える。
「こうやって食パンを千切って甘い紅茶に浸けるとおいしいのだよ」
「ウチ、それはちょっと・・・待って・・・」
「はい、あ~~~ん」
砂姫乃は有無を言わさず明日花の口に運ぶ。
「・・・あ。おいしい」
「でしょ」
朝陽が射し込み始め、畳に少女2人の重なる長い影を描く。
「ぜ・ん・ぜ・ん・ね・む・れ・な・か・つ・た!」
ベッドの上の憩子が髪を逆立たせ、眉間に深い溝を刻み、目を充血させて吠える。
「
娘の大声にママが慌てて部屋に飛び込んでくる。
憩子が眼鏡の上下を反対に掛け、何をか決意し、母親をキッ!と睨む。
「あのねママ! 私、転校する!」
「はぁ!?」
憩子は、砂姫乃と明日花の関係が気になって気になって一睡もできなかったみたい。
何だか嫌な予感がする・・・。
一方こちらは夜風。
彼女も砂姫乃と明日花が気になってはいたものの、それなりには眠れた様子。
ベッドから起き上がると両手を組んで大きく伸び。
簡単なストレッチをこなすとキッチンでカップにミルクを注ぐ。
(電話を掛けたいけど、明日花さんの家に電話はなかったわね・・・)
夜風は洗面所で身支度を整える。
(今日は木曜日・・・。夕方はいつもの時間にいつもの場所。砂姫乃は大丈夫かしら?)
夜風が目をやるカレンダーの日付は、1980年(昭和55年)10月。
一日のスタート、混み始めた県道18号線。
ナーサ副長官の運転する白い自家用車が、明日花の学校から砂姫乃の学校へと順番に向かう。
助手席の砂姫乃がドライバーに尋ねる。
「ねぇナーサ、いつも明日花を送ってるの?」
「いいえ。今朝が初めてよ。昨夜、夜風が電話をくれたのよ。明日花が狙われてるって」
「あぁそれで・・・」
「そういうこと」
ナーサは狙われている明日花も心配だが、砂姫乃の父娘問題も気に掛かる。
「ところで事情は夜風から聞いたわ。砂姫乃、お父様のこと大丈夫?」
「うん、明日花が元気をくれたからね。夜風もいこいこも、それからナーサも付いてるし! 心配は心配だけど、次に会ったらちゃんと話してみるよ」
「そうね。よかった。元気そうで安心したわ。何かあれば遠慮なく話してね」
「ありがとう、ナーサ」
運転席と助手席の会話を後部座席から明日花は温かく見守る。
車の流れがスムーズになってきた。
ハンドルを握るナーサがルームミラー越しに明日花を見る。
「明日花、起きてる? もうすぐ着くわよ」
「ウチ、このままどこか行きたいな・・・」
「ダメダメ! 頑張って勉強してくるように!」
「はぁ~い・・・」
口を尖らす明日花。
ナーサと砂姫乃がクスクス笑う。
「あぁ。明日花。夕方空いてたらここに来なよ。いこいこと夜風も来るから」
砂姫乃は、さっとメモを書いて明日花に回す。
「ナーサも来なよ!」
「あ~、私はお仕事なのよ」
「残念・・・」
「けど、近いうちにみんなには集まってもらうつもりよ」
「やっぱりパイオボイニャー関連で?」
「ええ」
「そっか・・・そうなっちゃうよね・・・」
砂姫乃がパイオボイニャー事件とは関係なく集まりたいと思っているのはナーサにも明日花にも痛いほどよく分かる。
07時15分。
明日花の通う中学校の正門。
ナーサは停車させると、後ろの明日花に注意をする。
「明日花、さっきも言ったけど、危ないと感じたら、とにかく逃げなさい。いいわね?」
「うん・・・そうする・・・。ナーサも気を付けて・・・」
明日花は運転席側の後部ドアから車を降りると、ナーサ越しに助手席の砂姫乃を見る。
「砂姫乃も・・・無茶しないで・・・」
「うん。そっちも用心して!」
砂姫乃は明るく返す。
「じゃ、ナーサ・・・」
明日花は寂しそうに、もう一度ナーサに挨拶する。
3人はお互いに顔を見回すとうなずき、再会の約束を無言で誓う。
明日花が車を離れ、校舎へと歩き出す。
ナーサは次の目的地、砂姫乃の中学校へと車を走らせた。
それらのやり取りを離れた物陰から観察する者が1人。
アメリカンスタイルの大型バイクに股がったその女性(赤地に黒ラインのライダースーツは胸元が豊満、且つ細い腰なのできっと女性なのだろう)は、ナーサの運転する車の尾行を開始する。
だが、ヘルメットの中に見えるのは人間の顔ではない。
まるで熔鉱炉の如くメラメラと炎が燃えたぎっている。
信号待ちの際に酸素を取り込むためゴーグルを開けるとボウアッ!っと轟音を響かせ火炎が噴き出す。
右隣で待つ軽トラのおっちゃんが「ひぃっ!」っと、左隣で待つ中華粉末スープのトラックの運ちゃんが「はあぁいやぁっ!」っとビックリ仰天。
ファイヤーレディーは青信号に変わるとバイクを陽炎に揺らしながらドドドドドと発進し、追跡を再開する。
07時55分。
「ありがとう。助かったよ!」
砂姫乃の通う中学校に着く。
「元気出しなさいね。きっと良いことが待ってるわ。きっとね」
「うん」
「また連絡するわ。じゃあ、またね」
「ナーサも無事にだよ」
砂姫乃を降ろし、ナーサは通勤自動車の群れに消える。
こうやって女学生らしい普通の生活を送ることが、何よりも幸せで大切なことなのだとナーサ副長官は考えている。
人生も折り返しを過ぎてくると、悟ると言わないまでも何となく気が付いてくるものなのだ。
人の一生は、楽しいことや嬉しいことの質量よりも、辛いことや悲しいことの質量の方が多い、と。
特に歳を重ねるに連れ、後者が圧倒的に占めてくるという事実。
だからナーサは若い娘さんたちの幸せを少しでも手助けし、守ってあげたいと思う。そう、切に願う。
砂姫乃が校門をくぐろうとした時、通学の生徒たちの中からクラスメイトの愛子と真美が早足でトコトコトコと駆け寄ってきて、いつものテンションで話してくる。
「砂姫乃! 砂姫乃! 今の美人、誰よ!?」
真美が砂姫乃に体当たりする。
愛子も興味津々だ。
「ブロンド美人との朝帰りなんて、砂姫乃はプレイボーイね」
「誰がプレイボーイだよ!」
中学生らしい戯れが棒術少女には心地好く感じる。
しかし、それら一連の流れを離れた所から見ていた印田坊介クンが不審げに独り言をつぶやく。
「あれぇ? あの外国人、どっかで見覚えあるんぼ。誰だったんぼ?」
印田クンの疑問をよそに、生徒たちは次々に登校してくる。
それはごく当たり前の光景であった。
いや、ごく当たり前の光景であるべきなのだ。
「砂姫乃にもこれを進ぜようぞ!」
「ん? バレッタ?」
「私の手作りなのじゃ。最近こういう七宝焼きの趣味を始めたのだ」
「ほら見て、わたしも貰ったの。3人お揃い」
「へぇ~真美なかなかやるじゃん! でも、あたしの髪型じゃ変じゃない?」
「あら、ショートにだって似合うわよ」
「そうそう。でね、愛子は女の子っぽいから赤で、砂姫乃は男の子っぽいから青、私は2人を注意する立場だから黄色」
「なるほど納得・・・って、あたしが男の子だって!?」
「ピーカンでイメージぴったしよ、砂姫乃」
「そ、そうかなぁ~?」
結局、この日、太陽が高いうちは非日常な異常事態は起きずに済んだのであった。
砂姫乃にとっても、また憩子や夜風、明日花にとっても、学校生活という日常はパイオビッカーであることを忘れられる心休まるひと時。
そんな風に、人間ひとりひとり、誰もが誰も、平和で気持ちを穏やかに暮らす・・・。
それがこの星、地球に住むものすべての理想なのである。
だが、辛いこと悲しいことの上に成り立っている何気ない平穏はいとも簡単に壊れてしまう。
その原因のひとつが突然やって来る。
1980年(昭和55年)10月30日、木曜日。
夕日が傾き、順々に世界を朱色に染めていく。
会社や学校から帰る人たち。
目的の場所へと急ぐ人たち。
街は十人十色、ネオンが灯り始め、よく聴く流行歌の数々があちらこちらで流れる。
駅前を中心に夜の世界がザワザワ、ガヤガヤとオープンする。
まだまだ営業を回る会社員、自宅へ直行なOL、今から塾へ向かう学生、週末休みまであと半分!と気合いを入れに居酒屋のサラリーマン。
様々な想いを胸に人は今日を生き抜いている。
そう、半年前の、あの4月末の夜と同じように・・・。
「いこいこ! 夜風! 遅いぞ!」
「砂姫乃ちゃん、ごめんなさい、お待たせ」
「待たせたわね」
特に触れはしなかったが、憩子も夜風も、砂姫乃が元気な様子で安心する。
気の置けない間柄ゆえの良い関係。
そんな3人がやって来たのが、ここ。
大通りからちょっと離れ、裏路地に佇む雰囲気のある喫茶店。(実は夜風もクラスメイトに教えてもらったらしい)
砂姫乃はほぼ毎週木曜日、いこいこと夜風の3人で、この小さな喫茶店に集まっていた。
マスターお気に入りのイージー・リスニングが流れる店内。
砂姫乃もいこいこも夜風も、大きなウィンドウから往来を行く人たちに平和を感じつつ、銘銘が好きなものを注文し、他愛のない穏やかな会話を楽しむ。
ちなみに、砂姫乃は紅茶(気分でミルクやレモンの時も)とフルーツケーキ、いこいこはイチゴパフェかバナナパフェ、夜風はココアとチーズケーキを注文することが多い。
そして、別に何かルールを設けているわけでもなかったが、各々がパイオビッカー関連の話題は自然に避けていた。
危険だった戦いを思い出し、こうして無事でいられることを安心し喜ぶ会話をする時だってあるが、基本は女子中学生&女子高校生の若い娘たちの厳かな集いである。
もちろん3人の誰もが口には出さないが、パイオビッカーであるという現実の上に築かれた仲間意識、友情、愛情であったのに間違いはない。
つまり、3人のこの週一回のティータイムは、隠し事のない本当の自分を出せる素敵で貴重な時間なのだ。
既にここに来てから1時間半ばかり。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎてしまう。
また、砂姫乃たちに限らず、そんな心持ちの人々が街を賑わせている。
皆が皆、それぞれがそれぞれ、大なり小なり幸せな時間を過ごしているのだ。
18時4分。
そいつは突然、現われた。
「夢見る無敵、荒ぶる身、
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