フラッター
午前3時
フラッター
到着した駅の名前を宣言する電光掲示板の表示と共に電車に乗り込んできた女の子は、彼女の首元にも届かないような背丈の男の子と手を繋いでいた。夏の熱気に抗うように気崩された制服と、しっかりと握られた左手がアンバランスで、思わず目が吸われる。通勤通学ラッシュは過ぎ去り、座席の埋まりもまばらになった車内で彼女は、表情が薄い男の子を私のひとつ右隣に空いていた座席へ促す。そのさらにひとつ右隣の座席は埋まっていて、彼女は座った男の子と向かい合う形で立ち、吊り革に掴まった。弟かな、と思うと同時に変な時間だな、とも感じる。そうして数秒、2人のことを見比べて、しまった、と心の中で呟く。私の左隣の座席は空いていたのだ。座席ひとつ分、左にずれることの労力は少ない。しかし私はそれを行うタイミングを逃した、と感じてしまった。気遣いができなかった、なんていう道徳の教科書のような自責の感情ではない。私は座席に男の子が座った瞬間、その子と、向かい合っている女の子の顔を見ている。その上で動かないことを選んだ、という状況が自分にとって居心地が悪かったのだ。イヤホンから流れるお気に入りのギターサウンドの抑揚が無くなったように聞こえる。結局私の左隣は埋まらず、その不快感を抱えたまま4駅ほど電車は進み、多くの乗り換えで使われる二俣川駅で2人は電車を降りた。2人が見えなくなってから、適当な駅で車両を変えれば良かったかななんて思う。そんな神経を擦り減らすような思考が世では優しさと呼ばれるなら、優しさとは生きづらさの指標だろう。
1時間に満たない時間、電車に揺られただけで、車窓から見えていた大型広告やビルたちは藍色の山や青空に変わっていた。まるで何もかもがあるように感じる煌びやかな都会も、少し足を伸ばせばすぐになくなることに儚さを覚える。その感覚ももう慣れたものだが、この景色を見るたびに私が地元の田舎を離れて都心に暮らしている意味はあるのだろうかと考えてしまう。どこで暮らしていたって、日々というのは案外変わらない。こんな景色の移ろいを見るたびにそんなことを感じる。改めて手元の資料に目を落とす。豪雨の影響による小田原市内での土砂災害。民家一軒が半壊する被害があったが、幸いにも負傷者は居ないらしい。これから私が取材をする災害も、どこでも起こりうるものだ。そのことも、暮らしは変わらないという実感を強くする。車内のアナウンスは鴨宮駅に到着したことを知らせている。目的の根府川駅まではあと10分程度で到着する。そこから先は、車窓から見える緑を眺めていた。
ホームと地続きの改札をくぐった先小屋のような簡素な構内を出て振り返ると、その先の相模湾が綺麗に見えた。その小屋がまるでアルバムの縁のようだ。私は自分のスマホのカメラアプリを起動し、それを写真に収めた。視界に広がる青に見惚れてしまいそうになるのを堪えて、手配してあるタクシーを探す。小さな駅なので、目的の車はすぐ見つかる。夏の日差しを避ける場所がなく、それを浴びながら車の前で手を組んでいる運転手に少し申し訳なく思いつつ、近づいて挨拶をする。
「月刊織折々の倉木です。本日はよろしくお願いします」
「お待ちしておりました。どうぞ」
促されるまま車内に入る。事前に伝えた目的地に向かって走り出したところで、仕事用のショルダーバッグに入れていたデジカメにストラップをつけ、首にかける。事前に確認はしているが、一度電源を付けて電池残量と容量を見る。数刻で確認を終えるとまた電源を切る。これは私の習慣だった。その後は外の景色を眺める。流れる緑も、停止した時に聞こえる蝉の声も、私にはどこか懐かしかった。
「のどかですね。この辺りは」
運転手は同調した後、
「ただ、この前の豪雨の時は世界が違って見えましたね」
と呟く。なんて平和で良い話題なんだと思った。記者なんて仕事をしていると、ジャンル問わず沢山の出来事が耳に入る。そして印象に残るのは当然インパクトのある話題だ。つまり、嫌なことばかり記憶に残る。だから記憶にも残らないような、なんでもない出来事ばかりというのがいかに幸せなことか、なんて老人のような感想を抱く。過剰すぎるアンテナを持つことは苦しい。けれどそんなことすら生きている証のように思えてしまうから、私は鈍感でいたくない。
目的の江之浦までの10数分は、運転手と時折会話をしながら外を眺めていたらすぐだった。土砂災害で交通規制がされている寸前で下ろしてもらう。相模湾を見下ろすような少し小高い土地は、晴れた空と合わさって綺麗だった。取材のための写真を数枚撮り、確認する。それをいくつかの構図で繰り返す。天気が良いのも相まって、そうして私の仕事はすぐに終わってしまった。他の資料は軒並み揃っているので、あとは文章を構成するだけだ。味気ないものだと思う。あまり長居していると流石に熱気にやられそうだ。近場で待ってもらっているタクシーに戻ろうとしたところで、私の進行方向から歩いてくる初老の女性が見えた。向こうから会釈をされたので、私も会釈を返す。
「こんにちは、記者の方ですか?」
声をかけられると思ってはいなかったので、一瞬驚いたが、それほど間を置かずにはい、と答える。
「急にお声をかけてすみません。わたし、あの家のものなんですが」
今度ははっきりと驚いた。なぜ今ここに、という疑問と、私が記者であると思いながら話しかけてきたことへの困惑が混ざって頭が回らなくなる。言葉を返さずにいると、彼女は続ける。
「その、声をかけたのはですね。私たちの今の暮らしを、記者さんから多くの人に伝えて欲しくて」
彼女の表情や声色からは、多少の疲れと、祈るような気配を感じた。反射的にメモを構えたが、それを見て私は少し冷静になれた。彼女は言葉を続けた。今の生活や、失った家財、夫の足が悪いことなどを、主観的な語り口で。救いを求めている、ということは強く伝わり、現状に対して同情こそ生まれたが、これは記事にできないと感じる。声を伝えることはできる。しかし記事というものは常に中立でなければならないという考えを、私は大切にしている。私の書いた事実が結果として人を救うことはあれど、誰かを救うための意思を文章にしてはならないのだ。結局、私のメモには「何かを書いている」というパフォーマンスのために書かれた意味のない文字の羅列が残されただけだった。
再びタクシーに根府川駅まで載せてもらい、駅を眺める。目的の電車が近づくまで、風景に見惚れていた。しばらくして到着した電車に乗り込んで一息つく。そのまま暫くの間は流れる景色をただ瞳に映していた。その時間の中で、なんの気無しにSNSを眺める。何度か意味もなくスワイプを繰り返し、流れてきた投稿にぎょっとした。
『17歳少女、9歳男児死亡 無理心中か 横浜市』
私が書いた記事は人々に何を与えるだろう。中立であるべきという美徳を掲げて、その結果を放り投げているのはあまりに無責任なのではないか。私はこの問いを、何度も頭に浮かべている。けれどそれに対する答えだけが、いつまでも出せずにいる。
フラッター 午前3時 @RyAsumi
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