アリスは不思議の国にいない

オニキ ヨウ

アリスは不思議の国にいない

 赤の女王に首をはねられる……前に夢から醒めた。

 絶妙なタイミングで起こされた。

 あれは僥倖だった、とアリスは思う。

 起こしてくれた姉ちゃんに感謝だ。

 ちなみに「僥倖」とは、ざっくり言うと「ラッキー」という意味だ。学校の授業で覚えた。


 僥倖。

 漢字で書けない。



 ❤ ❤ ❤


 大人になるにつれ、難しい言葉が増えていく。

 寡黙とか。憂鬱とか。

 読めそうで読めない言葉もある。

 磊落とか。誰何とか。

 アリスはそっと頭上を見上げる。

 しみったれた教室の天井がどこまでも汚い。誰も掃除をしないせいで、ヒモ状の埃が吊り下がっている。


 あの頃は良かったな、とアリスは思う。

 木漏れ日の中、姉ちゃんに甘えていた昼下がり。

 姉ちゃんの溺愛ぶりは目を見張るほどで、いくらゴロゴロしていても叱られなかった。いいにおいのする膝元でぐっすり眠りこんでしまっても、笑って許してくれた。

 今は軽く目を閉じただけで、イモムシ先生に叱られる。

「進学クラスで居眠りとは、貴様は進学する気があるのか!」

 イモムシ先生は相手が誰であろうが容赦なく怒鳴りつける。それも、クラスメイトの前で。さらし者にされる。

 先週、アリスの斜め向かいに座る男子生徒が怒鳴られた。その子は怒られた後で、友達と目配せしながらニヤニヤしていた。

 彼はチェシャ猫。神経が図太い。

 チェシャ猫はニヤけながら、仲間と下ネタで盛り上がる。

 すかさず赤の女王が来て、「男子たち! 教室で下品な話をしないで! 女子のみんなが嫌な気持ちになっているのよ! 分かんないの!?」とヒステリックに騒ぎ出す。

 赤の女王は学級委員長と生徒会長を兼務している。

 風紀を取り締まると見せかけて、自分が気に食わないことにキレているだけだ。彼女が気弱な生徒を相手に、正論っぽいいちゃもんをつけているところをよく見かける。

 休み時間になると眠りこけるネムリネズミ。

 でも、本当は眠っていない。友達がいないので、寝たふりをしながら携帯電話をいじっている。


 やれやれ、とアリスは思う。

 どいつもこいつも昔のまま。

 時が止まってしまったみたい。


 ……実のところ、アリスにはそれがうらやましい。



 ❤ ❤ ❤


 あの頃の夢が尾を引いている。

 未だに自分は不思議の国に固執している。姉ちゃんの膝元で見た、理不尽極まりない夢の世界。

 その後も、へんてこりんな夢は何度も見た。首をはねられるどころか、ガチで殺された夢も見た。しのアイドルとキスする夢も見たし、崖から突き落とされる夢も見た。

 しかし、一番は不思議の国だ。

 なんだかんだ言って、あの夢がいちばんエキサイティングだった。

 私には思いつかないほどのイカれぶり。イカれたやつら。イカれた世界。現代アートっていうのかしら? あのアウトサイダーな感じは、忘れようにも忘れられない。

 高校生になった今でも、色鮮やかな思い出が網膜もうまくに焼き付いている。

 現実と、混じり合うほどに。



 ❤ ❤ ❤


 帰りがけ、窓の向こうから音楽が聞こえる。

 校舎裏でマッドハッターと三月うさぎがサイファーをやっている。

 サイファーというのは、ラッパーたちが開く小さなパーティ。輪を囲み、リズムに乗りながら、即興そっきょうでラップを披露ひろうする。

 マッドハッターはトレードマークのシルクハットを「stussy」のバケットハットに変えた。紅茶ではなくモンスターエナジーを飲んでいる。

 三月うさぎは変わり映えない。変わり映えなく目がイッてる。彼の奇行は学内の噂になるほどだが、ラップはとても巧みらしい。カルト的なファンがたくさんついている。

 そういえば、とアリスは思う。

 以前、この人たちが開いたクラブイベントに参加したことがあった。マッド・モンスターエナジー・パーティー。音楽室を貸し切って、二人の新作ラップを聞いた。

 あのイベント、誰に誘われたんだっけ? と思う間もなく、アリスは見なかったことにする。

 あいつらと絡むとめんどい。



 ❤ ❤ ❤


 遠い昔、アリスは賢い女の子だった。

 小さなアリスは、学校で教わったポエムをで言えた。

 虫や鳥を相手に暗記したポエムを披露した。ラップバトルもなんのその。奴らが意味不明な主張をし始めたら、間違いを指摘することができた。

 赤の女王とだって、バチバチやり合った。裁判沙汰になったときでさえ、啖呵たんかを切って手下どもをむかった。

 とてもじゃないが、今はそんなことできない。彼女が怒り始めたら、他の女子と一緒にこっそりと教室を抜けて、騒ぎが収まるのを待っている。


 結局、声のでかいやつが勝つのよ……この事実、知りたくなかったなぁ。



 ❤ ❤ ❤


 アリスは校庭の木陰に腰掛け、自販機で買ったポカリスエットを飲む。ポカリにはdrink meと書いてない。十七歳のへんてこりんな身体は、小さくなる兆しも見えない。

 昔は良かったな、とアリスは再び過去を回想する。不思議の国の大冒険。アリスは聡明そうめいで強かった。


 そう、とっても強い女の子だったのだ。



 ❤ ❤ ❤


 校庭では陸上部が練習をしている。

 白ウサギは速く走る……けど、三位だ。

 アリスはごくりと唾を飲みこむ。

 昔はあんなに速かったのに、今思えばそんなでもない。ゴールした後で、本人も首をかしげている。

 止まるんじゃない、走るのよ!

 喉元まで出かかった言葉をアリスは飲み込む。


 白ウサギが逃げなければ、物語は始まらない。


 アリスは白ウサギを応援している。今期の大会では予選落ちしないでほしい。風のように走って、金メダルを勝ち取ってほしい。

 アリスは白ウサギを凝視する。

 さあ、走って。

 走るのよ。

 そして私を、不思議の国に連れて行って。



 ❤ ❤ ❤


 白ウサギがアリスに気づく。

 地面を蹴って、傍に来る。

 アリスの制服に長く薄い影が差す。



 ❤ ❤ ❤


「有田さん」と白田くんが言う。

「それ、ちょっとくれる?」

 白田くんはポカリをごくごく飲む。アリスは口を半開きにして、逃げないウサギの上下する喉仏を見上げる。

 白田くんはそういうのを気にしないタイプだ。

「誰か待ってるの?」と白田くんがポカリを返しながら尋ねる。

「誰も待ってない」とアリスは答える。

「いつもこの木の下にいるから」と白田くんが続ける。

「誰かと待っているのかと思って」

「誰も待ってない」

 アリスはペットボトルのキャップを捻り、震えながらポカリを口にする。

 アリスはそういうのを気にするタイプだ。

「私、暇じゃないし……」

 アリスは七歳の女の子のように小さくなる。

「誰も、待ってないし……」

「そっか」と白田くんは言う。

「邪魔してごめんね」と謝られる。

 今度こそ、白いウサギが逃げる。


 アリスは——実のところ——アリスではない。

 有田鈴ありたすずという名前の、女子高生。

 みんなから「アリス」とも呼ばれていない。

 ただし、姉からは「夢見がちな子だ」と思われている。


「白田くん!」

 アリスは白ウサギの背に向かって声をかける。

「このあと、ケーキ食べに行かない?」

「このあと?」と白田くんは目を丸くする。

「部活のあとで?」

「白田くんが嫌なら、別にいいけど……」とアリスは早口で言う。

 アリスはびくびくしている。声が震えているのが自分でも分かる。小さなアリスは泣きそうだ。

 アリスが泣いたら、校庭が涙の海に沈む。

 大洪水になると、後が大変だ。

「明後日なら空いてるけど」と白田くんが首を傾げながら言う。

「なんでケーキ?」

「大きくなるから」

「大きく?」

「成長、できる気がして……、私が私に戻れると言うか……」

 しどろもどろのアリスの声をさえぎるように、部員集合の笛の音が鳴り、白田くんが戻っていく。

「あとで連絡する!」と言い残して。

「私も連絡する!」とアリスは答える。


 アリスは目に浮かんだ、緊張の涙を拭う。

 そして、胸を撫で下ろす。


 私は不思議の国にいる。

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