第5話 保護者会2
方喰篤生は、何かと目立つ生徒だった。
生徒会長になる前から“そんな雰囲気がある”とよくウワサされていて、それでも“方喰なら本当になりそうだ”とアルファたちが言ってしまうくらい、彼の天性の人を惹きつける力はもの凄かった。
そして俺も最初は、そんな大多数のうちの一人だった。
当時の俺が篤生に抱いていた印象は、明るくて、純粋で、そして何に対しても真面目。友達思いで、感受性豊かで、いつも笑ってる。人に好かれていて、それ以上に人を好いている。賑やかな声が聞こえてくれば、その中心にはいつも誰よりも楽しそうな篤生がいた。
俺がずっと憧れてきた、まさに“理想の姿”を詰め込んだ人。俺は絶対、あぁはなれない。
篤生を目で追い、憧れなのか何なのかわからない感情を抱えていた頃。高等部に上がり、俺を取り巻く環境はとたんに一変した。
唯一心を開き、唯一俺に傷をつけた親友が、第二次性の変動でオメガクラスの在籍になった。ベータ、アルファ間の変動は、特に発現したての10代後半では珍しいことじゃない。それでも俺は、彼に何て声をかけたらいいのかわからず、そのまま疎遠になってしまった。
そんな俺の心のすきを突くように兄のいやがらせは激化し、彼を一目見るだけで発作を起こすようになった。それに比例するように、婚約者は俺への執着を強くしていき…。
俺はもう、限界だった。
全て捨てて、逃げ出したかった。
そう考えれば考える程、
『そういえば聞いた?オメガが二人逃げたらしいぜ。勇気あるよなー。俺は絶対ムリ』
彼への思いも、大きく膨れていった。
そんな、冬の日。
ついに俺は、俺たちは、運命の日を迎えた。
今までで一番近い距離で見る彼。
近くで見ると、本当に目が大きい。少し幼く見えるのに、どこか大人っぽい雰囲気もまとっている。そしてやっぱり、背が低いな。抱きしめたら、すっぽり隠れてしまうのかな。…紘と仲が良いのか。何を話すんだろう。
なんて、そんなことを考えてじっと見つめたまますれ違おうとした時。ふと、何かに引き寄せられるように篤生がこちらを向いた。
どくん、と心臓が跳ねて、とたんに彼はうずくまる。俺は、自分も無意識のうちに彼を誘発するフェロモンでも出してしまったのかもしれない、と焦ってその場を後にした。
それから篤生は俺を追いかけるようになって、昼食、放課後、休日がくるたびに俺の元へ駆け寄ってきた。
願い続けた状況だったはずなのに、俺は心の底から喜ぶことはできなかった。今まで目で追いかけるだけで、話してもこなかったのに。
フェロモンに惑わされた?
それとも小野家と関わりを持ちたいのか?
…なんて、篤生はそんな人ではないことくらい、わかっていたのに。
結局俺は、耐えきれなくなって(憧れていたとは告げず)告白を受けた。
篤生のことを、幸せにしてやりたい。
誰よりも、何よりも。
そして欲を言うなら、笑顔が弾けるその瞬間は俺だけを見ていてほしい。
…篤生の全てを、俺だけのものにしたい。
時が経てば経つ程、その感情は複雑になっていった。
もしこの王国に、貴族制が無かったら。
出会う確率は下がるかもしれない。
それでも、俺たちを阻む壁の数は、今より何枚も、何十枚も少なかったはずだ。
…そんな世界でなら、俺たちは、こんなに苦しみ続けなくても、よくなるのだろうか?
ーーー
「おい」
「いてっ」
「ん、次お前が取る番」
差し出されたトランプから右端の一枚を取って、自分の手札と揃える。叩かれた肩を擦って揃った手札がないか確認していると、紘が「あっ」と声を上げ、こちらを向いた。
「その…ごめん」
気まずそうに視線を彷徨わせ首筋に触れる紘へ何に対しての謝罪だろうと考えを巡らせていると、肩を擦っていた手が目に入り「あぁ」と短く呟いて身体を向け正座をした。「いい。もっとしてほしい」と彼の目をじっと見つめると、「ドエムかよ」とおでこにデコピンを食らう。目が合って笑い合い、少し熱くなった頬へ手の甲をあてた。
「すきありっ」
「あ、」
背を向けていた朋哉にトランプを引き抜かれ、振り向く。朋哉は「こっちに背中向けてたのが悪いんだからな」と言ってにやりと笑い、数字の揃った手札を中央へ置いた。
「てか、仲直りしたんだ?」
「あぁ」
「喧嘩した覚えねーよ」
葉月へトランプを向けた朋哉を微笑みながら見つめ、残っていたオレンジを食べる。少し酸っぱくて顔をしかめると、紘から笑い声が溢れた。
「お前ら、似てきたよな」
「…篤生と俺が?」
「は?嫌なの?」
「いや…嬉しい」
「はっ、相変わらず単純だな」
「何食ってんのー?」
少し前までの警戒心はどこへやら、肩へ頭を乗せた朋哉はまさに今食べようと手に取っていたオレンジを奪い、ひょいと口へ入れる。元来パーソナルスペースは広いものの俺には一向に心を開いてくれなかった彼との距離がここまで近づいたのが嬉しくて、頬を緩ませてしまう。それに気づいた紘に結構強めな力で肩を叩かれ、彼の方を向いた。
「篤生に言いつけるぞ」
「…何が?」
「無自覚かよ。びびったわ」
「何に」
「あっは、龍也なんてタイプから百億歩ぐらい離れてるし。紘って意外とロマンチストだよな〜悪いけど誘われても俺から振るから」
あぁそういう話か、と笑い、指についたオレンジの汁に吸い付く。何か上手い返しをしたくて考え抜いた結果「朋哉はさすがに背が低すぎる」と言うと、紘の何倍もの力で背中を叩かれ、「…お」と間抜けな声を上げた。
「さすがに今のは痣になりそうだ」
「次身長の話したらメガネの方を割るからな」
「…それは勘弁してほしい」
「さすがにまだ伸びるだろ。160だろ?全然望みあるって。頑張れ頑張れ」
「嫌味かお前?159だよ」
「それしかないのか」
「あー今の傷ついたー篤生に言いつけよー」
なんて気の抜けたやり取りの中、朋哉の飲んでいたスムージーを一口貰いながらふと顔を上げて机を挟んだ正面に座る葉月と煌牙の方を見る。なんだか静かだなと思っていたら、顔を突き合わせていちゃつきながら煌牙がどのトランプを取ろうかと悩んでいた。…俺も篤生と居る時、周りから見たらあんな蕩けた表情をしていたのだろうか。なんでか今羞恥心が襲ってきている。
「早くしろよお前らー」
「いや!葉月がぜってぇジョーカー持ってんだって!!」
「…先輩、本当にその端っこのでいいの?」
「は!?いや、やっぱり…」
「本当にいい?」
「これもやばい!?」
「煌牙、遊ばれているだけだ。男らしく早く取れ」
普段はあまり見ないようないたずらっぽい笑顔を向ける葉月に、朋哉が「可愛い〜」と倒れ込む。朋哉は普段よく口癖のように“可愛い”“やばい”と言うが、今日の可愛いは確かにと納得せざるを得なかった。
こいつらと仲良くするまで、人の顔をじっくり見ることなんてなかった。そもそも俺は周りに比べて身長が高いから、視線が合うことも少ない。だからこうして交友関係が広がって、人の感情の機微を知れて、…今までは言葉にできなかった感情の名前も知れて、本当に良かったと思っている。友人なんていらないと思っていた一年前の自分に言ってやりたい。お前は少ししたら心を許せる人が何人も現れるぞと。
「そういえば、篤生どんくらいで戻ってくんだろ」
「さぁ?会うの久しぶりだろうし、ゆっくり待っとこうぜ」
「あぁ…」
静まり返った扉を見つめる。部屋を出る際に篤生が一瞬見せた苦しそうな顔が頭をよぎって、視線を落とす。考えれば考える程心配が募っていき、そっと腰を上げた。
「俺、少し出て…」
ドンッ!
誰が聞いてもそう聞こえる、鈍い音。壁に何かを強く叩きつけたような、否、叩きつけられたような音。さっと頭が真っ白になって、良くない考えが頭を支配した。
「ケンカか?」
「…ねぇまさか、来てない…よね?渋谷美國って人」
「は?どうやって宿舎に入るんだよ」
呼吸が早まる。立ち上がったはいいものの足が震えて力が入らず、動くこともできずにその場に立ち尽くした。「お前は落ち着け」と紘に手を引かれる。
「…いや、少し見てくる」
「他の生徒だったらどーすんだよ」
「それはそれでいい。確認するだけだ」
トランプを伏せた葉月が、「僕も」と立ち上がる。それにつられるように煌牙も立ち上がり、その腰を抱いた。葉月は、「確認してくるだけ」と煌牙を見上げる。
「紘、お前はここにいるか?」
「…いや、やっぱり俺も行く」
「え?じゃあ一人になりたくないから俺も…」
『…んで俺まで巻き込まれなきゃいけないんだよ!』
「っ、」
「あっ、おい龍也!」
鍵は開いてるくせにガチャガチャとぎこちなくドアノブを上下させて、体重をかけて扉を開ける。扉の目の前にいた息を荒げた男と目が合い、とっさに拳を握りしめてそちらへ歩こうとする。しかし、追いかけて部屋を出た葉月とぶつかり一瞬で頭の中がクリアになった。それに続くように背中を少し強く叩かれ、「落ち着け」と肩を抱かれる。
「あいつに俺らが接触すると事態が拗れる。篤生の方には葉月と朋哉もいるし、煌牙にもアラ先呼びに行かせたから」
「……あいつ、篤生の親だな」
「あぁ。…どうやって宿舎に入ったんだか」
篤生は壁沿いに座り込んでいて、チョーカーから覗く首元と頬は赤くなり少し腫れていた。縁が切れていたとしても、親なんじゃないのか?自分が産んだ子に、よくこんな行いができるな。
「いい加減にしろよ!」
「っ」
「篤生…」
聞いたことのない大声に、篤生の側にいた葉月が目を丸くして肩を震わせる。篤生は彼が反射的にぎゅっと握りしめた手を上から被せるように握りしめ、毅然とした瞳で自分の母親を見上げる。
…でもそれは、おおよそ“親”に対して向けられる表情ではなかった。当たり前だろう。この人のことは詳しくなんて知らない。…それでも、今すぐにでも俺が消してやりたいくらいのどうしようもない悪人なのだという印象に尽きている。
「お前が俺に言ったこと、したこと、全部ぜんぶ覚えてるんだぞ!あれから美國さんがどんな生活を送ってたって、俺が知ったことじゃない!そんな罰が下るだけのことを、お前は自分の息子にしたんだ!」
ピリついた空気の立ち込める中、紘がつばを飲み込む音が聞こえてくる。実の親に裏切られた経験を持つ紘にとって篤生の言葉はひどく響いただろう、とその腰を擦り「大丈夫か」と小さく声をかけた。「あぁ」と短い返事と共に、紘は俯いてしまう。空気があまりに悪くて、一刻も早くこの場から立ち去りたい。…でも、その前に…
「悲しいコト言うなよ。誰がお前を産んでやったと思ってるんだ?」
「よく言うよ。俺は…俺は、お前に名前を呼んでもらったこともない。こうやって自分の都合が良いようにしようとする時だけ呼ばれたって、虚しいだけなんだよ」
「…篤生」
もう限界だ。聞いてられない。俺は男へ目もやらずにその前を素通りし、地べたに座る篤生の前にしゃがみこんだ。「立てるか?」と声をかけたが、「りゅう」と名前を呼んでから目に溜まっていた涙がぼろぼろと溢れ始めてしまう。普段泣き顔どころかしんどそうな顔すら見せたことがない篤生のそんな姿は、まるで心の内をさらけ出されたようで。そのあまりに脆く儚い泣き顔に、どうしようもなく胸が痛んだ。
「部屋まで運ぶ。ごめんな、遅くなって。一人で…怖かっただろう」
「っ…ん」
「葉月も戻ろう。立てる?」
「あっ…」
「もー、怖がりなんだから。肩貸してあげる」
「篤生の事は任せてくれ。朋哉、葉月と…紘のことも頼む」
「え?…あぁ、了解。先に部屋戻ってて」
腫れた頬とは反対側へ包み込むように触れる。俯いてふるふると背中を丸めるその細く小さな体を担ぐように抱き上げた。力なく背中へ腕を回され、ふっと微笑む。
「部屋に戻ったらサンドイッチを食べよう。朋哉の飲んでいたスムージーも飲みたそうに見ていただろう、一口貰えば良い」
「あはっいいね。なんなら残り全部飲んでもいいよ」
「ぼっ、僕の飲んでたミルクティーも飲んでいいよ」
「お前はまず立つの!」
「だって足に力が…早く肩」
扉の前で必死に深呼吸をする紘へ「無理に呼吸しない方が良い。朋哉たちとゆっくり戻ってこい。…何なら、俺の飲んでる薬もあるから」と耳打ちをする。開きっぱなしの扉へ足を伸ばそうとすると、乾いた笑い声が聞こえてきて紘の方へ振り返った。「平気だ、これくらい。葉月に肩貸してくる」と背を向ける姿に、軽く頷いて部屋に入ろうとした。その時だった。
「おい」
ぐっと肩を掴まれる。焦ったようなその声から誰が掴んだかなんて振り返らなくてもわかった。篤生がしがみつく力が強くなり、その体を抱え直す。
「お前だろ?大公の子、公爵家の嫡男」
「…だったら何か?」
肩へ掴みかかるその手を見つめてから、その先にいる男を睨みつける。興奮しているのかなかなか言葉を繋げられないその姿に舌打ちをした。
「公爵家の子ならわかるだろ?こんな混血の化け物と一緒にいても未来なんかねぇって。賢いアルファ様ならわかんだろ?な?」
「混血…?」
今しがた葉月へ肩を貸し、立ち上がった紘がそう溢す。篤生がうわ言のように「もうやめて」と呟くのが聞こえてきて、これ以上はもう俺も限界だった。
「話しは終わりましたか?」
「…は、」
背中がぞくりとざわめき立つのがわかる。篤生の腕の締めつけは強くなって、額にはじわりと汗が浮かんだ。呼吸が荒くなって、視界が狭くなっていく。頭に血が上るとはこういうことなんだな、とどこか他人事のように考えて、篤生の耳にそっとキスを落とした。その身体がぴくりと震え、自然と笑顔が溢れた。
「それじゃあ、俺たちはこれで」
男はその場で立ち尽くしたまま、肩を震わせて一点をじっと見つめている。手を上げても、酷い言葉を口にしても、結局は威勢だけだ。
部屋に入り背中でドアを閉め、篤生のベッドへ向かった。ローテーブルや床には食べていたものやトランプ、ボードゲームが散乱していて、それを踏まないように避けながら歩く。ふっ、とちいさな笑い声が聞こえてきて、それにつられそうになりながらも笑いをこらえ、その体をベッドの上へ優しく下ろした。
「横になるか?」
「いや…大丈夫」
「なら少し待っててくれ。頬の手当をしたいから…救急箱はどこだ?」
「りゅう。話し、たいことが…」
か細い声に、耳を傾けてベッドの前へ膝をつく。未だに震えが止まらない篤生の手を握って、「聞かせてくれ」と強く頷いた。
「……紘、たちは?」
「あぁ、あいつらは…」
そこへ、タイミングを図ったようにスマホの通知音が鳴る。ポケットへ入れていたそれを出すと、スリープ画面には紘からの“先生が来てくれた。俺らは煌牙の部屋にいるから何かあったら呼んで。返信もいらない”というメッセージが映し出されていた。扉の前で聞き耳を立てていたのだろうか、と扉の方を見てから、いい友人を持ったなと微笑んだ。
「煌牙の部屋に居るらしい」
「そっか」
「俺だけでは不安か?」
「そんな。龍也がいてくれるだけで安心できるよ」
「そうか」
篤生の優しい笑顔に、空気が柔らかくなる。肩の力を抜いて、篤生の手を握っていた手とは反対の手でその頬へ触れた。涙が跡をつけていて、それを擦る。篤生はくすぐったそうに目を閉じてから、愛おしそうな表情でその手にすり寄った。
「…今まで、黙っててごめん」
「隠し事、の話か?」
「そう。校外学習の日、言おうと思ったんだけど…勇気が出なくて。結果、焦らすみたいになっちゃって…」
深呼吸をして、握っていた手に力が込められる。何度も上下するその肩はやはりまだ震えていて、再び流れ出した涙を追うように拭った。
「俺っ……ごめ、」
「…ゆっくりでいい」
言わなくてもいい。
知らないままでいたい。
それは、口にしないままぐっと飲み込んだ。
何の話かは、なんとなくわかる。
だからこそ、その話を聞いてしまえば、俺達の関係が変わってしまう気がした。
「、おれ…っ」
とめどなく流れては落ちていく涙を、手の甲で何度も拭き取る。まるで涙を隠しているかのようなその仕草を、どうもにもできないままじっと見つめた。
「発情期、来たことないって…それはなんとなく、わかってる…ん、だろ?」
「…うん。何となく…そうかな、とは…思ってた」
「俺、龍也に…運命の存在に出会ったから、発情期が来なくなったって、…信じたかった。でも、違った」
か細い声に耳を傾けながら、その両手を強く握りしめる。こうでもして繋ぎ止めていないと、ふっとどこかへ消えてしまいそうだった。
「…龍也、あのな」
「あぁ」
「俺…お前が大好きなんだ。運命とかそんなの抜きにしても、お前が、どうしようもなく好きなんだ」
彷徨わせていた視線が合うと、篤生はとたんに顔をぐしゃりと歪めて泣きじゃくってしまう。嗚咽を漏らしながらしゃくりあげるその姿に、思わず衝動的にその体を抱きしめた。
「俺も…俺もそうだ」
「…っだから、だから、」
ぐっ、と胸元を押される。はっと我に返って体を離し、「苦しかったか?」とその顔を覗き込むと、赤く泣きはらした瞳でじっと俺を見上げた。まるで睨みつけるような視線に「本当にすまない」と伸ばした手を、明確に振り払われてしまう。空中で静止したその自分の右手を見つめて、「は?」と声を溢した。
「…別れよう」
「……わかれ、って」
「何度も言いたくない。別れよう。そう言ってる。もうこれ以上は、無理だ。お前だって気づいてるだろ」
「何か言われたのか、あの男に」
とっさにそう口にして、その両肩を掴んだ。少しの間の後、じっと目を見つめられたまま「違う」と返される。…その少しの間で、なんとなくわかる。彼が何かを隠していることくらい。
「俺はお前の恋人なんだ。隠し事なんかしないで、悩んでいることや嫌なことがあれば教えてほしい」
そこまでを口にして、はっと口をつぐんだ。数ヶ月前の校外学習で、隠し事をしていることに引け目を感じていた篤生へ伝えた言葉。
『いつか篤生が誰にも話せない秘密をふとした拍子に話せるほど、頼れる彼氏になるから』
違う。俺が今言ったことは、あの時俺が言ったこととは真逆だ。こんなの駄目だ、良くないと思うのに、“良くない”と思うそれは本心なのか?という考えが生まれ、矛盾する心を抱えた頭がパンクしそうだった。
篤生のことが好きだ。
だからこそ、頼れる彼氏でいたい。
ただ、ただそれだけなのに…。
「…さっき、二人でいた時に、王陛下が来ただろ」
意を決したような芯が太い掠れた声に、頷きを返してその顔を覗き込む。再びそらされてしまった視線は少し下の方を見つめていて、少し焦げた茶色い瞳が涙で滲んでいた。
「俺を探してたのに、なんで嘘をついてまで庇ってくれたんだ?」
「篤生の怯えようが酷かったから、絶対に渡しちゃダメだと思ったんだ。それに…」
少し目を伏せて言葉を探していると、ふと篤生が俺の方を向くのがわかる。なんだか目を合わせられなくて、そのまま膝の上で丸まっていた篤生の手を握った。
「ジノン、と王陛下が言っていた」
「…」
「あの名前を聞いて、全てのピースがハマった感覚がしたんだ。篤生の生みの親は“渋谷”美國。平民出身ながら辺境伯である篤生の父親と婚姻していたと考えると、同じ北部出身だと考えるのが普通だ。そして…おそらく、血筋を理由に発情期が来ていないんだよな?」
「…全部知ってたんじゃねえか。俺が…」
心音が痛い程鳴り響いて、つばを飲み込んで顔を上げる。篤生は何かが抜け落ちたような、何かを諦めたような、そんな顔でじっと俺を見つめていた。
「渋谷ジノンと王陛下の、孫だって」
「……ごめんな、黙ってて」
「ずっと黙ってたのは俺の方だ。…本当の事を言って、嫌われたくなかった。ごめん、自分勝手で」
流れていく涙を拭って、身を乗り出してそのおでこにキスをする。パチパチと瞬きをして、むっとした表情で顔をそらす篤生に、その頬を包むように撫でた。
「嫌いになるわけない」
「龍也はそうでも、周りの大人たちは違うだろ?何て言うんだよ、お前の親に。“陛下を誑かして駆け落ちを図ろうとしたオメガの孫”だぞ?絶対に反対されるに決まってる」
吐き捨てるように声を荒げながら頭を振る姿に、なんでか涙が流れた。「そんなことない」と消えかかった声で言いながら、涙の跡を擦る。
「…っもう無理なんだって。これ以上は…俺の心がもたない」
握った手は冷たくて、小さくて、風が吹いたら消え去ってしまいそうだった。俯き、肩を震わせてこらえるように泣く篤生は、この小さい体で一体どれ程の重圧を抱えて生きているのだろう。…俺1人では、彼を支えることはできない。それが、よくわかった気がした。
「…お互いに、少し落ち着こう。紘を呼んでくるから、俺は…離れておくな。数時間でも、数日でもいい。お互い冷静になって、もう一度話そう。でも、俺は別れる気はないことはわかっていてくれ」
「……わかった。頭に入れておく」
「…それから、お前が誰の孫でも、息子でも、俺には関係ない。俺が好きなのは、渋谷ジノンの孫でも、あの男の息子でも、…方喰家の長男でもない。今ここにいる、小さくて泣き虫な、“篤生”だから」
ーーーーー
言い聞かせるように話す龍也をじっと見つめる。淡々と話しながらもその顔色が変わることはなくて、ついうつむいてしまった。
「…ごめんな。支えてやれなくて」
頭に温かい手が添えられて、少しだけ髪の毛をくしゃくしゃにされる。足音が遠ざかって扉が閉まる音が聞こえてきて、大きく息を吐いた。ぎゅっと握りしめていた手を開いて頭に触れる。
「追いかけろよ…」
ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていき、それが落ちて滲んでいく膝を手で叩いた。美國さんに言われた言葉が頭の中を支配して、おかしくなってしまいそうだった。
「追いかけろって!」
考えを霧散させるように叫ぶと、喉がぐっと閉まって咳が止まらなくなってしまう。頭の中が真っ白になって、体温がぐっと上がるのがわかった。意識を引っ張り出されるような嫌な感覚がして、“あぁまたか”なんて他人事のように思いなから前かがみになる。気づいたら身体を床へ打ち付けていて、目の辺りがじんじんと痛んだ。
「篤生!」
少しの間ぼーっとベッドの足を見つめていると、ふいに体を抱き起こされる。紘が心配そうな顔で俺を見ていて、ぎゅっとその服を握った。
「お前今朝薬多めに飲んだだろ!ゴミの量でわかんだからな!」
「…ごめ」
「話さなくて良い。…あいつ、任せておけとか言ってたくせに」
口元へ運ばれたコップに口をつけながら、中の水を飲み込む。水分が体中に染み込むようで、本能的にそれを飲み干した。体温が下がって冷えた頭で龍也とのやり取りを思い出し、胸がチクリと痛む。
「……あいつ、手当もしてねぇじゃねえか。腫れるから、頬だけ湿布貼っとくか」
ベッドにうなだれて、洗面所へ救急箱を取りに行く背中を見つめた。「どこだっけ?」なんて言ってごそごそと漁る音を立てる紘へ、「そこじゃなくてクローゼット」と投げかけて立ち上がった。
「もう平気か?寝てていいのに」
「いい。起きてたい」
「そ?なんか葉月と煌牙イチャつきだしてさー、朋哉と部屋出てきたらあいつは親に捕まって話してくるーとか言っていなくなるし。一人ぼっち寂しかったわ」
「…ごめん。ね、残りの全部食べて良い?」
「あは、いいよ。一緒に食お」
少し冷えた湿布を頬へ貼られ、そこへ触れる。
3日後には帰省なのに、“あの人”に会ったらなんて説明しよう。
ーーーーー
「おや、手紙ですか?」
開いていた手紙を閉じて、「フィン神父」と彼の名前を呼んで笑う。目の前に広がる庭園を見つめて、その手紙を封筒へしまった。
「あの子からの手紙です。もう少しで夏の休暇なので、また会いに来ると」
「おや、もうそんな時期ですか」
「ふっ、僕も、つい先日会った気がしていました」
神父に付いて来たのか足元へ近寄ってきた飼い猫へ手を伸ばして微笑む。ごろごろと喉を鳴らして手元へ擦り寄るので、両手を伸ばしてその体を抱き上げ膝に乗せた。太陽がぽかぽかと暖かく、猫もその小さな体を伸ばして丸くなる。ガゼボに入ってきたフィン神父もその隣に座り、猫の頭を撫でた。
「さて、アルファの彼氏とは続いてるでしょうか」
「続いてるらしいですよ。校外学習も、二人で楽しんだと」
「…似てきましたね、貴方に」
「違いますよ。今の第一学校の校外学習はそういう行事なんです。…私みたいにそのまま逃走しそうとする馬鹿は、さすがにもういないでしょうから」
「おや、これは失礼。そうだったのですね」
猫を撫でながらつい意識的に深呼吸をしてしまい、「心配ですか?」とその手を上から被せるように握られてしまう。びっくりした猫は膝から飛び降りて逃げていってしまい、二人で顔を見合わせて笑った。
「それはもう…。時代が変わったとは言え、オメガはいまだにアルファの道具で、あの子は…道具にはなれない、特殊な子ですから。私と同じ状況に置かれたら、きっと…私以上に苦しむことになる」
朝から夜まで分刻みで管理された生活。
何の為かもわからない錠剤。
…そして、月に一度の繁殖日。
あの施設での日々は、いまだに私の人生の暗闇であり、思い出すだけで冷や汗が出てしまうような、恐ろしいものだった。
そして、そんな日々の中で、そこを何の為の施設とも知らずに毎日のように足を運んで「本の続きを読んで」とねだるあの子の存在は、何よりの救いだった。
「あの子は強い子です。ちょっとやそっとじゃ折れない。なんたって、あの名門第一学校の生徒会長なんですから」
肩を抱かれ、優しく、脈拍に合わせるようにたたかれる。そのリズムに合わせて呼吸をしながら、ふっと笑みを溢した。
「…国内初の、が抜けてますよ、神父様」
「おや、出ましたね、ジジバカが」
「やめてください。美國に怒られますよ」
癖のように喉仏へ触れながら、二人で肩を震わせて笑い合う。そこへ、建物の中をせわしなく行き来してい青年がひょっこりと顔を出して「大司教様!」と飛び出してきた。会釈をする彼に笑顔で返して、フィン神父は腰を上げる。
「サボりは終わりですね」
「大人しくお仕事に戻ってください」
「ジノンも今日は清掃当番でしょう。貴方は貴族出身だから怒るに怒れないと他の神父たちがぼやいていましたよ」
「わかりました。今日は急ぎます」
「そうしてあげてください」
澄んだ空気が流れて、髪がさらわれるようになびく。フィン神父を連れて行こうと建物から出て庭におりてきたマークは、ガゼボに入ってベンチの前でしゃがみこみ「お手紙、受け取ったんですね」と笑った。
「はい。ありがとうございますと郵便の方に伝えておいてください」
「もちろんですよ。そろそろ篤生が来る頃ですよね?楽しみです。今回はどんな土産話を持ってきてくれるでしょうか」
「また長くいるだろうから、勉強を見てもらいなさい。高校は篤生と同じ学校に通いたいんだろう」
「おぉ、それは名案ですね」
大きな鐘の音がして、焦るようにフィン神父は手を振って建物へ入っていく。「やばい、俺も行かなきゃ!」と立ち上がったマークへ笑いかけて、建物の中へ消えていく背中を見つめた。
“第一学校 第二宿舎 方喰篤生”
その宛名を見つめて、それをぎゅっと握った。背もたれへ背中を預け、うなだれるように天井をじっと見上げる。
「…和臣」
そっと目を閉じて、息を吸い込んだ。
つづく
おとぎ話は、夢のままで。 ハル @Rukanan
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