第十二話 それぞれの決意
雫音の疑いが無事に晴れた、二日後のこと。
大した怪我をしているわけでもなかったのだが、与人に絶対安静と言われてしまった雫音は、あれから部屋で大人しく過ごしていた。といっても、元々部屋から出ることなく過ごしていたので、数日前とほぼ変わりのない日々を送っているわけだが。
そして今日は、与人から話があると言われていた。大切な話らしい。
部屋を訪ねてきた与人の後ろには、先日の宴の席で見かけた家臣二人の姿も見えた。勿論、千蔭の姿もある。深紅の瞳は、雫音の姿を映すと、どこか呆れたような色に染まった。
「アンタって、いつ見ても、本当に表情が変わらないよね」
「おい、千蔭」
失礼な物言いをする千蔭を、与人が咎める。けれど雫音は、そんな発言にも慣れっこなので、平然とした様子で言葉を返す。
「それは、私が喜んだりすると、雨が降ってしまうので」
「は? ……何それ、どういうこと?」
「どういうって……そのままの意味です。私の感情に左右されて、雨が降ることが多いんです。でも、いつも雨だと困ってしまうので……なるべく、感情を出さないようにしています」
雫音の感情に左右されて雨が降るという事実が初耳だった二人は、驚いている。
「へぇ。自由自在に雨を降らせる力があるってわけでもないんだね」
「雫音殿、それは……」
冷静に分析している千蔭に対して、与人は硬い表情になった。かと思えば、膝の上にある両掌をギュッと握りしめて、意を決した様子で開口する。
「オレは、雫音殿の笑った顔が、見てみたいです」
「……え?」
「雫音殿は、素敵な御方です。いつ
少しだけ照れた様子を見せながらも、与人はキラキラとしたエフェクトが付きそうな、眩しく優しい笑みを広げている。
それを真正面から受けた雫音はキョトンとしながらも、今更ながらに、ここが乙女ゲームの世界であることを思い出した。
雫音は実際に乙女ゲームをプレイしたことはないが、もし、この場面に選択肢があるとしたら、
1. 照れる 2.感謝する 3.笑い返す
といったような表示が現れていたかもしれない。
けれど雫音は、純粋な好意を嬉しく思いながらも、乙女ゲームのヒロインのように、恥じらったりときめいたり――その感情が激しく揺さぶられるようなことはなかった。
表情を変えることなく、冷静に、言葉を返す。
「でも、それだとずっと雨が降って、大変なことになってしまいますし……」
「ですが、そのために雫音殿が我慢するのは、違うと思います」
「でも、もう慣れてしまっていますし……別に、我慢しているわけではないですから」
「慣れているなど……そんな悲しいこと、言わないでください。それに雨が降ったおかげで、多くの者が救われたのです。雫音殿が気にして感情を抑える必要などありませんよ」
「ですけど、それだと雨が降り続いて、逆に多くの人を困らせてしまいますし……そのことを思えば、感情を抑えていた方が楽で…「はいはい、話が並行していってるよ。その話は今は置いておくとしてさ。それより今は、この子に相談したいことがあるんでしょ?」
終わりの見えないやりとりに終止符を打ったのは、千蔭だった。
控えていた家臣の二人は、雫音たちのやりとりを見てポカンと呆けた顔をしていたが、千蔭の言葉に小さく咳払いをして、居住まいを正した。
「そうですぞ、与人様。今日は雨女神様に、お願いをするために参ったのでしょう」
「お願い、ですか?」
雫音が聞き返せば、与人は何とも言えない、複雑げな表情になった。
「はい。実は……以前にもお話したかとは思いますが、風之国以外の国でも干ばつが続き、困っている者が大勢いるのです。雫音殿の噂がどうやら諸国まで広がっているようで、雫音殿の力を貸してほしいと、各国から書簡が届いておりまして」
火之国だけでなく他の国からも、雨女神様の来訪を求める書簡が、風之国まで届いていたのだ。
「しかし、雫音殿を他国に向かわせるなど……やはり危険だ」
与人は眉を顰めて、低い声で言う。
「しかしそれでは、雨女神様を奪還しようと、他国が我らの領地にまで攻め入ってくるやもしれませんぞ」
「いくら協定を結んでいるとはいえ……特に火之国は、先日の件もあります。また何を仕掛けてくるか、分かったものではありません」
家臣の二人が異を唱えるが、与人は難しい顔をしたままだ。
「あぁ、それは分かっている。それに、他国の民が困っていることは事実だ。それを救いたいという思いもある。しかし、オレは……雫音殿を送り出すことが、心配なのだ。オレも共に付いていければいいのだが……」
「与人様が直々に向かわれるなど、あってはなりません。貴方は我が国を背負う領主なのですよ!」
家臣たちは、慌てた様子で制止の言葉を紡ぐ。領主が国を空けて諸国を回るなど、普通に考えて、ありえない話だろう。
「……」
黙って話を聞いていた雫音は、声を上げようとした。けれど躊躇し、開きかけた口を閉じる。そんな雫音に目敏く気づいたのは、千蔭だった。
「どうかした?」
「えっと、……いえ。何でもないです」
「……言いたいことあるなら、言えばいいだろ。アンタのその口、何のために付いてるわけ? ただのお飾り?」
言い淀んだ末、結局口を閉ざした雫音に、千蔭はきつい口調で責め立てるようなことを言う。それを聞いた与人はギョッとした顔をして、慌てて千蔭を制する。
「なっ、千蔭、オマエは何を言って…「いいから、与人様は黙ってて」
しかし、自身が仕えている主である与人さえ一蹴してみせた千蔭は、雫音の目を真っ直ぐに見据えたまま、尚、問いかける。
「アンタはさ、どうしたいわけ?」
「……私、は……」
「……大丈夫だよ。アンタが出した答えを、誰も跳ねのけたりしないから」
雫音は、そろりと顔を上げる。視界に映ったのは、予想に反してずっと優しい顔をしている千蔭だった。鼓膜を揺らした声も、雫音の心を解きほぐすような、柔らかな色をしている。
「わた、し……行きます」
「雫音殿?」
「困っている人たちがいるなら……私の力で、少しでも、その人たちを助けることができるなら……私、行きたいです」
困惑している与人を真っ直ぐに見つめて、雫音は、自身の思いを伝える。
「お願いします」
そう言って、頭を下げた。
「……雫音殿。顔を上げてください」
与人に促されて、雫音はゆっくりと頭を上げる。
せっかく心配してくれた与人の気持ちを、無下にするようなことを言ってしまった。――怒らせてしまっただろうか。呆れているだろうか。……困らせて、しまっただろうか。
無表情ながら、そこには微かな不安の色が滲んでいる。けれど、そんな雫音の心配をよそに、顔を上げた先では、与人が朗らかに微笑んでいた。
「むしろお願いする立場なのは、こちらの方ですから。他国の民を救うためにも、雫音殿の力を、お貸しください」
そう言って、与人は頭を下げた。顔を上げれば、ポカンとした顔で固まっている雫音を視界に映して、与人は可笑しそうに、クスクスと笑う。
「はは、雫音殿がこうして、“お願い”をしてくださったのは、初めてですよね。……オレはそれが、とても嬉しいです」
予想外の返しに呆けていた雫音だったが、本当に嬉しそうに笑っている与人の姿を見て、胸の中にじわじわと、温かなものが広がるのを感じる。
「与人さん。本当に、本当に……ありがとうございます」
雫音は、これまで世話になった分の思いも込めて、心からのお礼を伝えた。
固唾を呑んで成り行きを見守っていた家臣たちも、無事に話が纏まったことに安堵の笑みを広げている。
「(……やっぱりアンタには、そういう顔の方が、似合ってるよ)」
発破をかけた張本人は、いつもよりずっと柔らかな表情をしている雫音をチラリと盗み見て、フッと口許を緩めながら、軽い口調で与人に話しかける。
「与人様、安心してよ。他国には、俺が付いて行くからさ。……この子が行くって言ったら、初めから、俺を護衛に付けるつもりだったんでしょ?」
「あぁ、そうだな。……千蔭。雫音殿のことを、きちんとお守りするんだぞ」
「はいはい、分かってるよ」
「それから……言わずとも分かっているとは思うが、オマエは風之国にも、オレにとっても必要な存在だ。雫音殿と共に、無事に戻ってくるんだ。いいな?」
「……言われなくても、分かってますよ。全く、与人様は心配性なんだから」
千蔭は溜息を漏らしながらも、まんざらでもなさそうな、どことなく嬉しそうな顔をして、与人の言葉にしかと頷いた。
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