第十話 襲撃
雨が止み、空には三日月が昇っている。深い闇夜に包まれた時間。雫音は以前にも来たことのある牢の中で、膝を抱えてじっとしていた。
何故牢の中に入れられているのかと言えば、与人の茶に何かを混入した疑いをかけられているからなわけだが、勿論、雫音はそんなことはしていない。そもそも雫音は、毒などを入手する術もない。
だというのに、何故自分はやっていないと声を上げなかったのか。
何故なら雫音は、諦めているからだ。信じてもらえなかった時、声が届かなかった時の辛さを、雫音はよく、知っていたから。
「(私、このまま殺されちゃうのかな。それならそれで、仕方ないのかもしれないけど、でも……痛いのは、嫌だな)」
膝に顔を埋めた雫音は、目を閉じた。もう何も考えたくなくて、そのまま意識を手放そうとした。
その時、牢の鍵がガチャンと開けられる音がした。
「雨女神様。さっきはごめんなさいね」
雫音は、ゆっくりと顔を持ち上げる。牢の中に入ってきたのは、一人の女だった。
黒く長い髪を後ろで結いあげている。キリリとした切れ長の目は意志が強そうで、赤い紅が引かれた口許は、綺麗な弧を描いている。
雫音が何度も顔を合わせたことのある人物だった。雫音がこの牢に入れられることになった、元凶とも言える存在。
「貴女は……」
「改めまして、私は
深々と頭を下げた雛菊は、ここ最近、雫音の身の回りの世話をしてくれていた女中だった。
「私のためって、どういうことですか? それに、どうやってここに……外には、見張りの人がいたはずなのに……」
「あぁ、眠ってもらったんです」
雛菊はニコリと綺麗に笑った。よく見れば雛菊の格好は、普段のような着物姿ではなく、身体のラインがよく分かる、生地の薄そうな服を着用している。そして腰元のベルトには、拳銃のようなシルエットをしたものが二つ、ぶら下がっていた。
それを目視した雫音は、そろりと顔を持ち上げて、雛菊の目を真っ直ぐに見据えた。
恐怖心といった感情はない。ただ、雛菊がこのような行動を起こした理由を、知りたいと思った。
「貴女の目的は、何ですか?」
「私は、貴女を助けにきたんです」
「助けに……?」
「えぇ。そして、貴女の……雨女神様の力が必要なんです。どうか風之国を出て、私と一緒に来てくださいませんか?」
屈んで雫音と目線を合わせた雛菊は、笑みを消し去り、真剣な顔をして懇願する。
「……それは、出来ません」
「何故です? それにこのままじゃ、雨女神様は疑われたままです。最悪殺されちゃうかもしれませんよ? ですが私と一緒にきてくだされば、雨女神様に何一つ不自由させることなく、その身をお守りするとお約束します」
雛菊は外の様子に警戒しながら、雫音を説得するべく言葉を並べ立てていく。
けれど雫音は、首を縦には振らない。
「私……与人さんたちに、たくさんお世話になりました。だけどまだ、お礼の言葉も、全然伝えられていません。だから、黙っていなくなることは……したくないんです」
「……分かりました」
雫音の言い分に、雛菊は眉を顰めながら頷き返す。そして、牢の外へと歩いていく。
「ですが私も、そう簡単に引き下がるわけにはいかないんです。ですから私が……雨女神様の心残りを、失くしてきて差し上げます」
雛菊は、腰元にある拳銃を一挺手にする。
「それって、どういう……」
「与人様を、この手で葬ってきてあげるってことですよ」
「……は、何言って……「大丈夫です。雨女神様が手を汚すわけではありませんから、気に病む必要はありません。汚れ仕事は、私のような日陰に生きる者がすることですので」
冷えた声。淡々とした口調でそう言った雛菊は、動揺している雫音を置いて、牢の外に出た。
「別の迎えの者が直にやってきますから、雨女神様は此処で待っていてください」
「っ、あの!」
雫音は声を上げる。けれど雛菊はその声を無視して、闇夜の中を駆けていった。
「っ、……待ってください!」
雫音は、雛菊の後を追いかける。錠が開いたままの牢を出れば、見張り番だったのであろう男が倒れている姿が見えたが、雛菊の言っていた通り、眠っているだけのようだ。
暗く細い階版で何度か転びそうになりながらも、雫音は足を止めることなく駆けあがった。そして、地下にある牢から地上へと出る。
雨は降っていなかったが、ついさっきまで顔を出していた月は、厚い雲に覆われて見えなくなっていた。
靴を履いていないので、小石や木の枝が足裏に刺さってジクジクと痛みだす。けれど雫音は、それでも足を止めなかった。与人を捜して走った。
与人がいなくとも、誰でもいい。与人が狙われていることを伝えなければ、と。その一心だった。
「(っ、いた)」
庭園を真っ直ぐに突き進んでいけば、屋敷の縁側を一人で歩いている、与人の姿が見えた。走る速度を緩めた雫音は、与人に声を掛けようとする。
「……っ、危ない!」
雫音は叫んだ。――庭の先、茂みに身を潜めた雛菊が、拳銃を構える姿が見えたからだ。
駆け寄ってくる雫音を目にして、与人は驚いた様子で目を丸くしている。
しかし、まだ、身体が思うように動かないのだろう。呆気にとられたまま固まっている与人を守るように、雫音は正面からその身体に抱き着いた。
次の瞬間。パンッ! という銃声音とほぼ同時に、カキーンッ! と、雫音にとって聞き慣れぬ金属音が、背後から響いた。
「八雲、東の方向に一人逃げた。こっちは俺がやる」
「了解」
千蔭の声だ。そして、次いで聞こえてきたのは、八雲の声。
雫音が背後を見れば、すでにそこには八雲の姿はなく、険しい顔をした千蔭が一人立っているだけだった。
「雫音殿、お怪我はありませんか!?」
雫音の腕の中にいた与人は、雫音の両肩を掴み返して、顔を覗き込んでくる。そこには狼狽の色がありありと滲んでいる。
「わ、私は大丈夫です……」
「本当ですか? っ、何故このような無茶を……!」
苦しそうに声を震わせる与人だったが、息を小さく吐き出して逸る心を落ち着かせると、雫音の顔を真っ直ぐに見据えた。
「ですが、オレを守ろうとしてくれたんですよね? ……有難うございます。オレはまた、雫音殿に助けられてしまいましたね」
笑っているはずの与人は、今にも泣き出してしまいそうにも見えたけれど、ひどく優しい顔をしていた。
それを直視した雫音は、何故だか胸が、ギュッと苦しくなるのを感じた。
「はぁ、失敗しちゃった。雨女神様の心残りを減らして差し上げたかったのに」
話していた雫音と与人は、声の聞こえてきた庭の方に、同時に顔を向けた。
そこには与人に向けて銃弾を放った雛菊が居て、対峙するような形で庭に下り立っていた千蔭が、鋭い睨みを利かせていた。
「やっぱり、アンタの仕業だったわけね」
「あら、バレちゃってました?」
心の芯まで凍えそうな、低い声。
けれど雛菊は、そんな千蔭の問いかけに対しても、平然とした様子で応える。
「アンタ、つい最近入ったばかりの子だよね? 怪しいと思って、素性を調べさせてもらったんだ。そしたらまぁ、嘘だらけの経歴が出てきたわけなんだけど」
「フフ。駄目じゃないですか。そういうことはきちんと調べておかないと」
「そうだね。ウメさんの知り合いの娘さんってことで、調べが甘くなってた。それは完全に、こっちの落ち度だ」
ウメさんとは、女中の中でも一番長く勤めている女性で、歳は八十を過ぎているらしい。信頼のある女性からの紹介ということで、素性調査が甘くなってしまったようだが、そもそもウメさんからの紹介だということ自体が、嘘だったようだ。
「で、アンタはどこの国からの回し者?」
「火之国」
雛菊の口から告げられた国名に、千蔭と与人両者の顔が、更に険しくなった。
「その書簡に書いてある通りです。我が主は、雨女神様がお越しになることを心待ちにしています。……雨女神様。良い返事を、お待ちしていますね」
その言葉の直後。雛菊の周囲に、ボフンッと音を立てて、白い煙が上がった。
千蔭は懐に隠し持っていたクナイを、雛菊目掛けて飛ばす。けれどクナイは煙幕を突き抜けて、奥にある木の幹に突き刺さった。
そして、数秒ほどして、煙幕が消えた。雛菊が立っていたはずの場所では、一羽の黒くて大きな鳥が、羽をばたつかせながら宙に浮いている。
「と、鳥? が、何でここに……?」
雫音が呆気にとられている間にも、千蔭は懐から取り出したクナイを標的目掛けて飛ばす。けれど黒い鳥は、それを華麗な身のこなしで軽々と避ける。
「そう簡単に逃がすわけないだろっ」
「フフ、またお会いできる日を楽しみにしていますね」
大きな黒い鳥はそのまま上空へと舞い上がり、鉛空の下を突き進んでいった。
「……え? 今あの鳥から、雛菊さんの声がしたような気が、するんですけど……」
「火之国には、獣人族がいるのです。あの者も、その血筋の者なのでしょう」
「獣人、族?」
「はい。そんなことより、まずは手当てをしましょう」
「手当てって……わっ」
上空を見上げたまま呆然としていた雫音の身体が、宙に浮いた。
与人が雫音を横抱きにして、持ち上げたからだ。
「あの、与人さん……!?」
「足裏が切れています。それに、首のところも。あれから治療をしていませんよね?」
「えっと、でも、もう……」
足裏の傷は、此処に来るまでの間にできたもの。首元の傷は、八雲にクナイを押し付けられた時にできたものだ。
すでに血も止まっているし大丈夫だと言おうとしたが、辛そうにグッと眉を顰めている与人の顔を目にしてしまえば、その言葉を口にすることはできなかった。
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