第九話 疑惑



「失礼いたします」


 朝食を食べ終え、部屋でぼうっとしていた雫音のもとを訪ねてきたのは、身の回りの世話をしてくれている女中の一人だった。年は二十代前半といったところで、この屋敷にいる女中の中ではかなり若い方だ。


「そろそろ与人様がいらっしゃる頃合いかと思いまして、お茶をお持ちしました」

「有難うございます」


 盆に載せられているのは、湯呑みが二つと、茶菓子の饅頭が二つ。

 談笑中にこうして茶と菓子を持ってきてくれるのが恒例となっているのは、与人が甘味好きだというのもあるのかもしれない。


「どうです? 此処での暮らしには慣れましたか?」


 膝をついて礼儀正しく頭を下げた女中が、部屋に入ってくる。持ってきた盆を机上に置くと、与人のために座布団を出したり、掛け軸が傾いているのを直したりと、部屋の中を動き回りながらも、世間話をするように雫音に話しかける。


「はい。皆さんが良くしてくださるので」

「そうですか。それは良かったです。……雨女神様は、他の国に行かれる御予定などはないのですか?」

「そう、ですね……今の所は」

「そうなのですね」

「はい。……あの、何だか、すみません」

「あら、何故謝られるのですか? むしろ私どもは、雨女神様に、いつまでも風之国にご滞在していただきたいと思っていますから。何かご不便なことなどございましたら、いつでも仰ってくださいね」


 女中はそう言って朗らかに笑うと、昼食の支度をしてくると部屋を出て行った。


 そして、それから数分後。

 女中の言った通り、与人が部屋を訪ねてきた。


「雫音殿、失礼いたします。……ん? 今日は、もう茶が準備してあるのですね?」

「はい。先ほど、女中の方が持ってきてくださいました」

「はは、オレが雫音殿のもとを訪ねることは、お見通しだったようですね」


 照れ臭そうに笑った与人は、座布団の上に腰を下ろすと、湯呑みを手に取った。

 そして、温かい茶を喉に流し込んだ。――次の瞬間。


「っ、ゴホッ……ゴホ、カハッ……!」


 掌で口許を抑えた与人が、突然、咳き込み始めたのだ。上体を折り曲げて、苦しそうに身体を震わせている。


「よ、与人さん? どうし…「動くな」


 雫音は慌てて与人の側に行こうとした。けれどそれは、叶わない。

 何故なら、廊下に控えていたはずの八雲が素早い動きで入室し、雫音の首元にクナイをあてがったからだ。少しでも動けば、雫音の首元に刃が食い込むだろう。


「……これは、どういうこと?」


 困惑と険悪が入り交ざった空気の中、庭先から姿を現したのは、千蔭だった。


 苦しそうに咳をしている与人に気づくと、直ぐに近寄って頸動脈に手を当てる。そして「天寧、直ぐに医師を」と、姿は見えないが側に居るらしい天寧に、冷静に指示を出した。


「あ、雨女神様が、先ほど与人様の茶に何かを入れている姿を、この目で確かに見たんです! 私、不安で、怖くなって……それで、千蔭様を呼びに……!」


 千蔭の後ろから現れたのは、つい先ほどまで雫音の部屋に滞在していた女中だった。指先を真っ直ぐ雫音に向けて、悲痛そうな面持ちで肩を震わせている。


「やはりお前、間者だったのか」


 八雲は冷え切った声でそう言うと、掌にグッと力を込めた。首元にあてがわれたままの切っ先が、首元に食い込む。雫音の白い肌に、鮮血が伝う。


「ゴホッ、八雲、っ、止めろ!」


 与人が叫ぶ。

 しかし八雲は、クナイを下ろそうとはしなかった。眼光鋭く雫音を見据えている。


「……八雲、もういい。あとは俺がやるから」

「……承知しました」


 そこに、千蔭の制止の声が掛かる。

 主君と頭、二人からの指示に、八雲は渋々といった様子でクナイを下ろす。そして雫音の耳元で、「少しでも怪しい動きをしたら、殺す」と、低い声で脅しの言葉を吐き捨てた。


「っ、千蔭」

「……分かってますよ。とりあえず与人様は、解毒剤を飲んで安静にしていてください。薬物が茶に混入していたようですが、匂いからして、毒性の低いものですね。頭痛や吐き気を催す程度の症状で、後遺症なんかが残る心配もないはずですけど、一応医師の診察も受けてくださいね。……天寧、あとは頼んだ」

「うん、分かった」


 切羽詰まった声を出す与人に、千蔭は“分かっている”と、頷き返した。

 医師を連れてやってきた天寧は、眉をほんの僅かに下げて、雫音を見遣る。そこには心配の色が滲んでいたが、俯いていた雫音は、その表情には気づかなかった。


「話はあっちで聞くから。付いてきて」


 下を向いたまま、身動ぎ一つすることなく固まっていた雫音の手首を掴んだ千蔭は、誘導するように前を歩く。雫音は抵抗することなく、手を引かれるままにその後に続いた。


「ねぇ、本当にアンタがやったの?」

「……」


 足は止めぬまま、千蔭は尋ねた。目だけでチラリと後ろを向いたが、雫音は無表情で、何を考えているのか読み取ることはできない。

 他者の感情の機微には聡いと自負している千蔭だったが、どうにも雫音に対しては、その自信も崩れ去ってしまう。

 普通は、疑われていることに対して自分はやっていないと否定したり、動揺したり恐怖したりするものだろう。けれど雫音の表情は、そのどの感情とも結びつかない。何も、感じられない。


「だんまりじゃ、何も分かんないんだけど」

「……」

「頭、もう止めましょう。現場を見た者がいるのですから、やったのはこの娘に決まっています。聞くだけ時間の無駄です」


 後を追いかけてきた八雲は、雫音の背を睨みつける。


「……分かった。とりあえずアンタには、犯人が確定するまでの間、牢にいてもらう」


 何か思うところがあるのか、難しい顔をして考え込んでいた千蔭だったが、小さく嘆息して、雫音を地下牢へと誘導する。

 けれど雫音はやはり、やったのは自分だと罪を認めるわけでもなければ、自分はやっていないと声を上げるわけでもなく。千蔭に言われるまま、大人しくその後に続いたのだった。


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