第八話 思い出のパンケーキ
「雫音殿、甘味を食べに行きませんか?」
「……え?」
今日も今日とて、縁側に座ってぼうっと空を見上げていた雫音は、前触れのない与人からの提案に、一拍遅れて疑問符を返した。与人の後ろには千蔭もいて、雫音と目が合うと、軽やかに笑いながらひらりと手を振っている。
「実は行きつけの喫茶店に、新メニューのチョコレートパフェがあるんです。それがとても美味しいので、ぜひ雫音殿にも食べて頂きたいと思いまして」
「そのお店には、パフェがあるんですか?」
――純和風建築の内装に、着物に、忍びという存在。そんな世界観の中で“パフェ”というワードが飛び出てきたことに、雫音は違和感を覚えた。
けれど天寧が、風之国では外来からの文化も取り入れていると言っていたし、横文字の言葉が混ざり合っていても不自然ではないのだろう。
けれど、やはりどこかちぐはぐで、可笑しな世界だと――雫音はそう思った。
これも乙女ゲームとやらの世界だからそういう仕様になっているのだと、あまり気にせずに割り切るしかないのだろうけど。
「もしかして雫音殿は、パフェを食べたことがあるのですか?」
与人が目を丸くして尋ねる。その口ぶりから察するに、風之国でパフェが食べられるようになったのは、つい最近のことらしい。
「えっと、はい」
「そうでしたか! 雫音殿は、甘いものはお好きですか?」
「……はい。甘いものは、好きです」
「でしたら、ぜひ食べに行きましょう! その後に城下町も案内しますので」
誘ってくれる与人は前のめりで、瞳はキラキラと輝いているように見える。その雰囲気にのまれた雫音は、半ば反射でコクリと頷いた。
「それでは、支度をしなければですね。女中を呼んできますので、雫音殿はこのままお待ちください」
そう言った与人は、後ろで結った長い髪を尻尾のように揺らしながら、部屋を出て行ってしまった。
「別に、嫌なら嫌って言ってもいいんだからね」
「え?」
「本当は外、行きたくなかったんじゃないの?」
まだ部屋に残っていた千蔭は、雫音が嫌々誘いを受けたと思っているようだ。
「いえ。別に……嫌ってわけではない、です」
「そうなの? ……アンタって、何考えてるのか分かりにくいよね」
「はい。よく言われます」
「……忍びの才能、あるかもよ」
感情の読み取りにくい雫音の顔をジッと見つめていた千蔭は、本気なのか冗談なのかよく分からない言葉を残して、与人の後を追いかけていった。
***
「――この店です! この店の甘味は、どれも絶品なんですよ」
女中に着物を着付けてもらった雫音は、与人と千蔭と共に、初めて城の敷地内を出て、城下へと赴いていた。
先ずはお目当てのパフェがある喫茶店に行こうという話になり、三人は『喫茶 夢庵処』と書かれた暖簾の下をくぐった。
内装は茶色を基調とした、落ち着いた色合いになっていた。アンティーク調の長机に、
「与人様、いらっしゃいませ」
歳は五十を過ぎているであろう、丸眼鏡をかけた御老公が、席まで案内してくれた。笑うと目尻にくっきりと皺ができて、優しそうな印象を受ける。
「あぁ、ひと月振りだな」
「えぇ。新作のパフェのご用意もできておりますよ。して、そちらのお嬢様は? 見かけないお顔ですが……」
雫音は小さく頭を下げた。
「こちらは雫音殿といって、この風之国に慈雨をもたらしてくれたお方だ」
「おぉ、ではあの噂は真だったのですね」
「噂?」
「えぇ。雨女神様がこの地に舞い降りて、雨を降らせてくれた、というものです」
黙って話を聞いていた雫音は、それを否定しようとした。自分は雨神などではない、と。嘘を吐いているようで心苦しくなったからだ。
「あの、それは…「有難うございます。貴女様のおかげで、大勢の者の命が救われました。今日はお好きなだけ食べて、寛いでいってくださいね」
雫音の小さな声は、届かなかったらしい。御老公は恭しく頭を下げて、朗らかな笑顔で礼を言うと、手にしていたメニュー表を机に置いた。
「とりあえず、今はいいんじゃない? アンタが雨を降らせたってことは事実なわけだし、店主も喜んでるみたいだしさ」
隣に座っていた千蔭に小声でそう言われた雫音は、開きかけた口を噤むことにした。店主らしい御老公は、もう一度深く頭を下げてから、店の奥へと戻っていった。
「ん? あそこにいるのは……すみません、雫音殿。オレは少々席を外しますので、メニューを見て待っていてください。千蔭、雫音殿のことを頼んだぞ」
「了解」
店内に見知った顔を見つけたらしい与人は、席を立って行ってしまった。
その背を見送れば、与人に声を掛けられた男性が慌てて席を立ち、頭を下げている姿が見える。一国の領主である与人が直々に挨拶にきたことに、驚いているらしい。
――やはり与人は、領主らしくない領主なのだな、と。
雫音は思いながら、店主から受け取ったメニュー表を開く。
そこには数枚の看板メニューの写真と共に、美味しそうなメニューの文字がずらりと並んでいた。パフェやプリンといった甘い物だけでなく、サンドウィッチやおにぎり、ナポリタンなどの軽食もあるようだ。
「千蔭さんも、見られますか?」
千蔭にも見えるようにと、雫音は開いたメニューを左隣に寄せる。
「否、俺はいいよ」
けれど千蔭は、興味なさげに首を振る。
再びメニュー表に目を落とした雫音だったが、そこに書かれた食べ物の名前を目にした瞬間、幼い頃の記憶を思い出した。
「……どうかした?」
ぼうっとしている雫音に気づいたらしい千蔭が、不思議そうに尋ねる。
「え? ……あ、いえ。ただ、懐かしいなと思っただけで」
「懐かしいって、何が? ……パンケーキ?」
雫音が指さす文字を声に出した千蔭は、また不思議そうに小首を傾げた。
「はい。子どもの頃に母が、よく作ってくれたんです」
綺麗な黄金色に焼かれた、分厚くてふかふかのパンケーキ。真ん中にバターをのせて、メープルシロップを垂らした、パンケーキといえばのオードソックスなあの味。母の作ったパンケーキが、雫音は大好きだった。
あの頃の雫音は、自身の体質のこともあり、学校を休みがちだった。イベント事がある日などは、特にだ。
けれど母は、そんな雫音を責めることも、学校に行きなさいと諭すこともしなかった。雫音の大好きなパンケーキを作って、「一緒に食べよう」と、いつだって優しく笑いかけてくれた。
「お待たせしました。雫音殿は何にするか、決められましたか?」
知人への挨拶を終えたらしい与人が戻ってきた。目の前のソファ席に腰を下ろして、雫音の手元にあるメニュー表を覗き込む。
母のことを考えてぼうっとしていた雫音は、何を注文するか、まだ決めていなかった。けれどここは、与人おすすめのパフェを頼むのがいいだろう。そう思ったのだが……。
「この子はパンケーキにするってさ」
「パンケーキですね。承知しました」
「え、いや、その……」
千蔭の言葉に頷いた与人は、店員を呼ぶと、そのまま注文を進めてしまった。
「あの……私、パンケーキにするなんて、一言も……」
「でも、食べたいんでしょ? 言わなくても、顔に書いてあったよ」
千蔭は雫音の顔を見ることなくそう言うと、「俺は冷たい玄米茶で」と店員に注文をする。
それから十数分ほどして運ばれてきたのは、千蔭が頼んだ玄米茶と、与人が頼んだチョコレートパフェ。そして、二段重ねになったパンケーキだった。パンケーキの皿が載ったトレーには、レモンの輪切りが浮いたアイスティーもセットになって置いてある。
「さっ、雫音殿。食べてみてください」
「……それじゃあ、いただきます」
嬉しそうな顔をした与人に促された雫音は、ナイフを使って一口大に切ったパンケーキを、パクリと頬張った。ふわふわの生地に、バターと甘いシロップが合わさって、口の中で蕩けていく。
「……美味しい」
呟けば、雫音の隣に座っていた千蔭が、フッと息を漏らす音が聞こえる。
「そういう顔も出来るんじゃん」
「……え?」
鼓膜を揺らした、優しい声。顔を上げた雫音は、左を向く。
そこにあったのは――初めて目にする、千蔭の笑顔だった。
いつものような貼り付けた笑みではなく、眉を下げて、口角をほんの僅かにだが上げている。とても分かりにくいけれど、そこにあるのは心からの、確かな笑顔だった。
雫音が思わず見惚れていれば、千蔭は自身の手元にあるグラスを手に取った。グラスを口許に持っていき、よく冷えた玄米茶を一口。喉仏が小さく上下する。
そして、グラスを口許から離した千蔭の顔は、いつもの作り笑顔に戻ってしまっていた。
「雫音殿に気にいっていただけて、よかったです」
雫音のほころんだ顔を見て満足そうに笑った与人は、自身が頼んだチョコレートパフェに手を付け始める。
「ほら、早く食べなよ」
「……あ、はい」
呆けていた雫音は、千蔭の言葉に頷いて、パンケーキをまた一口頬張った。口内が優しい甘さに満たされて、頬が勝手に緩んでいくのが分かる。
「……アンタってさ、ずっと人形みたいに感情のない顔してるじゃん。今みたいに笑ったり、それこそ、もっと怒ったり悲しんだりしてもいいんじゃない?」
グラスを置いた千蔭は、机に頬杖をつきながら、右隣に座る雫音を見つめる。ジッと見られていたことに気恥ずかしさを覚えた雫音は、口の中にあるパンケーキを飲み込んでから、口許をぎゅっと引き結んだ。
「……千蔭さんには、言われたくないです」
「あはは、まぁそれもそうか」
雫音の返しに、千蔭は可笑しそうな声音で同意を示した。
そこにあるのは、やはりいつもの、綺麗な作り笑顔で。
――さっきの笑顔の方が、ずっと素敵だったのに。
雫音は、ただ純粋に、そう思った。
けれど何故だか、それを口にすることはできなくて。
「……」
雫音はパンケーキをまた一口、パクリと頬張った。
母が作ってくれた味とは、どこか違う。
けれど、何だか懐かしくて、優しい味がする。そんなパンケーキだった。
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