第28話 衝撃の出来事

 ガタガタと揺れるバスの車内は相変らずだ。相も変わらずボロく、整備するお金もないのかシートはところどころ破れ、剥がれている。


「…………」

「…………」


 後ろから二番目の席に僕と氷雨は隣合わせで座っていた。

 あんな異常なできごとがあったのか信じられないぐらい、普通だ。

普通に二人並んで、学校から帰っている。


「これがバス。公共交通機関、というものでございますか。まーべらす、でございます」


 まぁ後ろに普通じゃないのがいるが。

 クウは一番後ろの長椅子型の席のド真ん中に座り、興味深そうに硬いシートの反発の感触を楽しんでいる。


「……ごめんね、肩を貸してもらっちゃって」

「いいよ」


 氷雨の謝罪を受け入れる。

 雰囲気は、この穏やかな雰囲気は普通だ。

 先ほどまで命の奪い合いを、戦いをしていたなどと信じられない、平穏な時間が流れている。

 あの後、僕たちは何事もなかった。

 豪來という転生者と戦ったというのに、ユリスという異世界人が死んだというのに。

 クウが何事もなくした。

 異世界転生した者特有の謎の力で全てを———まぁ、もみ消してしまった。

 普通の放課後の日常の時間が流れだしたので、僕も氷雨もその時間に溶け込むしかない。それでも氷雨は恐怖で完全に腰を抜かし、失禁もしていた。だから、僕は彼女をトイレに連れていって、彼女自身にある程度は体を綺麗にしてもらい、まだ体に力が入らないということで肩を貸しながら、バスに乗せ彼女を家まで送ることになった。


「本当に……ごめん、着替えまで手伝ってもらって……」


 氷雨が体操服の裾をつまむ。自らが着ている。


「手伝った……って、持っていっただけだよ」


 トイレで着替えている氷雨の元に、僕は教室にある彼女の鞄から体操服を引き出し渡してやった。今日、授業で体育があって幸運だった。体育がなければ着替えがなく、そのまま彼女は帰ることになっただろうから。

 それは屈辱……だっただろう。


「氷雨」

「……ん?」

「どうして助けてくれたんだ?」


 向日葵は助けなかったのに。

 糞尿に制服がまみれて帰るよりも屈辱的な仕打ちを受けた向日葵のことは見殺しにしたのに。

 どうして、あの時に豪來さんの足を掴んで助けてくれたんだ?


「助けた……って、掴めそうな場所にあった足首を掴んだだけだよ」


 失笑まじりの声で彼女は答える。


「でも、あの人は、豪來さんは剣を持っていたし万が一があったら死ぬところだった。氷雨は……そういうことをしない奴だと思ってた」

「そういうことって」

「勇敢な行動。氷雨は臆病な奴だと思っていた」

「…………」


 スッととなりの空気が変わったのを感じた。冷たく、冷え込んだ感じだ。


「そんな風に思っていたんだね」

「そんな風に思っていたよ」


 事実だろう。

 でなければ、向日葵を見捨てたりしない。荼毘と付き合い続けたりもしない。友達を失ったりもしない。

 ————フッ。

 自嘲的な笑いが零れそうになるのを、こらえる。

 そんなことを知らずに氷雨は自分の話を始める。


「ただ———あんたに詰め寄られて、自分がどんなに向日葵に酷いことをしていたのか、あんたに気づかされて。もう少し本気に生きてみようって思っただけよ」


 そして、赤くなった頬を見せないようにプイッとそっぽを向いた。


「私、やりたいことないんだよね。得意なことも夢中になれることも何もない。だけど、まぁ、とりあえず向日葵に謝るところから始めてみる……始めたい。そう思ったの。そう思ったら……あそこであんたを見捨てたら、もう、向日葵に謝る資格すら失くしそうな気がしたから……仕方なくよ……私、もう、後悔したくないんだよね」

「……そうか」


 氷雨は、僕と同じだ。

 僕と同じ場所に今立ったのだ。

 氷雨のことが嫌で、自分のことが嫌で、この街から逃げ出した僕と同じ。僕は距離を置いてあの金髪のお姉さんによって改めて気づかされて自分のやりたいことに気が付いたが、氷雨は……照れ臭い話ではあるが僕によって気づかされたようだ。

 一度、罪を犯して、自分の心に嘘をついて手遅れになって。もう二度度そんな後悔をしないようにと決意した。

 その決意は多分———これから死ぬまで揺らぐことはない。

 揺らがせちゃいけないと、強く思う確かにある存在ものだ。


「そうか」


 おんなじ言葉をもう一度言うと自然と氷雨がわの肘置きに手を置いた。

 その手にすっぽりと収まるような形で氷雨が手を重ねた。


「向日葵に謝る」


 氷雨が呟く。


「僕は許さない」

「うん……でも、逃げないで」


 それは自分と友達でい続けてという意味だろうか。それとも、この重なっている手を放さないでという意味だろうか。


「ああ、見捨てない」

「……ごめんね、ありがとう」


 その氷雨の言葉は素直に僕の胸に響いた。

 そして、ギュッと彼女の手の平に力がこもる。


「ねぇ、義経はほんとうにいなくなっちゃったの?」

「———それは」


 あの男は、豪來さんはそう言っていたけど僕は、


『次は~分木わけぎ3丁目~……分木3丁目~……』


 バスのアナウンスが流れる。


「次だね」、そうポツリと氷雨が漏らした。

「そうだね」


 氷雨の家は分木3丁目のバス停から歩いて一分もかからない場所にある。小学校の、互いに気を使わない関係だったころ、2度だけ行ったことがある。偶には氷雨の家で遊びたいと誰かが言いだして、それで行って、何事もなく遊んだけど次の日氷雨は「お母さんが嫌がるからもう来ちゃダメだって」と悲しそうに言っていた。

 それから二度と遊びには行かなかった。

 二度目に彼女の自宅を訪れることになった理由は、単純に彼女が学校を休んだから連絡事項を伝えに行かなきゃいけなくなったからだ。


「よく覚えていたね」

「ん?」

「一回しか行ったことないのに」


 氷雨は二度目に僕が訪れたことを忘れていた。


「いや、二回、来たことあるよ」

「え?」

「小6の時、お前が学校休んだろ? それで僕がプリントを持って行ったんだよ。それで……」

「あ、そうだったんだ。よく、場所覚えていたね」


 なぜだか少し、氷雨は嬉しそうだ。


「向日葵に案内してもらったんだ」

「向日葵に?」


 向日葵の家は4丁目。氷雨の家のある分木3丁目から子供の足でも通える距離だ。


「家、意外と近所なんだな」

「ああ……」


 先ほど嬉しそうな様子を見せてくれたが、僕の言葉ですぐに霧散する。


「だからかな、あんたらに来るなって言っても、向日葵だけは何度もしつこく来てさ。馬鹿だからウチの親とも仲良くなってんの……本当にバカだから……」

「ああ、向日葵はバカだから……」


 バスがプシューと音を立てて止まる。

 僕は氷雨に肩を貸しながらバスを降りる。


「向日葵ってさ、やっぱり人に好かれるんだよ。ウチの親にもすぐに好かれてさ。人間嫌いの癖に」

「ああ、だからああなんだ」

「そう」


 はたから聞くと、前後が繋がっていない一足飛びの会話をしながら、氷雨の家へ向かう。

 互いに昔を知っているから、過去を知っているからこそ、性格を知っているからこそ、相手が何を言っていてもわかる。曖昧な言葉でも何を指しているのかわかるし、わかるからこそ曖昧な言葉を使いたくなる。

 僕と氷雨はツーカーというやつだった。

 それは否定したくても否定しきれない。

 僕は氷雨を理解していたし、氷雨も僕を理解していた。

 そんな相手が長い人生で何人現れるのだろうか。

 もしかしたら、この三人で埋まってしまっているのかもしれない。

 氷雨の家まで続く、道路のアスファルトを踏みしめながらそんなことを思っていた。


「……あ、お母さん?」


 氷雨が前を向き、呟いた。

 氷雨の家の前には一人の女性が立っていた。

 ほうれい線が刻まれ、白髪交じりの疲れたような表情をした女性。

 氷雨の母親だ。以前……と言っても五年以上 前だが、見た時よりグッと老けてしまったように見える。


「あ、氷雨ちゃん!」


 僕に肩を担がれている氷雨を見た瞬間、氷雨の母親はダッと駆け寄って来る。

 そして、目の前に来ると僕に向かってぺこりと一礼する。僕も礼を返すが随分と他人行儀……というか自分の何倍も年下の男相手に丁寧すぎる態度な気がした。


「氷雨ちゃん……あの……その、ね……!」


 氷雨の母親は慌てている様子だった。

 氷雨に向かって何か伝えようとしていたが混乱して上手く言葉が出ないようだった。


「……? お母さん、どうしたの? 何があったの? 落ち着いて話してよ」


 もしかして、家族に関わることか?

 何か家族に不幸があったとか? 

 そうじゃないとこうまで慌てないだろう。


「あ、僕はここで……」


 家族の不幸の話なら、僕が聴いたらまずいだろうと氷雨を彼女の母親に預けて足早に去ろうとした。


「あ……」


 だけど、そんな僕を……何故か氷雨の母親は呼び止めようとした。

 その小さな吐息交じりの呼び止めの声を聴いた瞬間、僕は猛烈に嫌な予感に襲われた。

 なんで———一度会ったか会っていないかの僕を呼び止めようとするんだ?

 なにか———重要な話があるのか?

 彼女が思う、氷雨の母親が僕に関係していると思う、何かの話があるのか?

 それは———不幸な話か———?

 氷雨の母親は僕と目が合うとすぐに視線を伏せたが、やがて勇気を振り絞ったように瞳を上げて口を開いた。


「向日葵ちゃんが殺されたの」


 短い言葉だった。

 だから、聞き間違いかと思った。

 聞き間違いだと———思いたかった。

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