取らぬ狸の【中編】
学校の放課後。
美緒は友達に今日も用事があるからと一言告げてそそくさと階段を登り、屋上への扉を目の前にしてから右手側に身体ごと向ける。何もない、影の掛かった灰色の壁の下、屋上の扉と同じ幅の光が浮かび上がり、その光を伸ばすようにすぐさま上がっていく。美緒の頭よりさらに頭一つ分まで登ったところで光は移動するのを止め、目の前には線がぼんやりとした教室の扉が出現する。躊躇うことなく扉を開いた美緒は光の中へと踏み出した。
一瞬のまぶしさもそこそこに夕焼け色の教室が広がる。その教室の後ろの席でぽつんと座る少女は本を読む手を止めて顔を上げ、美緒を目にするなり笑顔を綻ばせた。
(う、かわいい)
ぶんぶんと頭を振って冷静さを取り戻す。
「お待たせ、美鈴」
「ありがとうございます、美緒」
――土御門美鈴が自身の為に作り上げた仮想空間、その教室がここだった。彼女は学校にこそ通っているものの、クラスメイトとして他の皆と一緒に学ぶことは無い。勉強は全て自主的に行っているだけだ。
(それでも私より成績良いのが凄いよね)
余程の生真面目か、あるいは独りで勉強することが得意か慣れているのか、美鈴は誰に教わらずとも教科書といくつかの参考書を使って勉強をするだけで中間テストも期末テストも学年トップクラスの点数だった。――担当のいない彼女の採点を誰がしているのかは美緒も知らないが。
「さて、それでは狸さんのところへ行きましょう」
「狸さん」
妖怪でもさん付けが美鈴らしいと微笑ましくなりながら、教科書とノートと筆記用具と本をしまった鞄を持った美鈴と一緒に仮想空間を出る。二人が出ると光の扉はすぐさま消え去り、そこはただの壁となった。この壁の向こうは屋上になっていることだろう。
「あの中より今のほうが陽が高いね」
「え、ああ、美緒が来る時間になると夕焼けになるように設定してるんです」
「なんで?」
「……? そういえばなんででしょう」
「わからないんかい」
学校を出てから美鈴と一緒に公園へと向かう。公園の隅、花壇の木々に仰向けとなっている一匹の小型な動物がいるのを見つけた美緒は思わず指を差す。
「えっと、たぶん狸さんです」
仰向けになって腹を出す狸を、美緒は生まれて初めて目にするのだった。
「野生のやの字も感じられないんだけど……」
「妖怪ですし」
「妖怪すごい……」
「ややっ」
美鈴の気配に気付いたのか、狸がビクンと身体を震わせて前足と後ろ足をバタバタさせる。
「起き上がれない!」
「バカなの!」
「バカとはなんですかって、もしや人間ンー! それに美鈴様も! 美鈴様はともかく人間に見付かってしまうとは!」
「驚く程警戒してたかなぁ、してないよね」
「普通の人間にしか見えませぬが、あの美鈴様が連れている方ともなれば恐らく相当の遣い手、何かしら常軌を逸した才能の持ち主、もはや単なる化け物に違いありますまい」
「何でどんどん例えが酷くなってくの!」
やや、と狸は頭を下げる。
「これはこれは失礼をば! ワシは沢渡団三郎狸と申します。愛嬌を以てダンちゃんと呼んでいただけると実に嬉しく思いますぞ!」
「沢渡団三郎!」
美鈴が思わずといった様子で声を挙げていた。
「あの、かの有名な団三郎狢ですか……!」
「いやいや大したモノじゃあございません。ちょっと狐を追い出したり人間の振りしてお金を巻き上げていた狸の総大将ってぇだけですよ」
あからさまに美緒が顔色を悪くしてドン引く。
「妖怪専門の人達ってこういう妖怪を取り締まれないの……?」
「わ、悪さをしていたといってもずっと過去の話ですから、現代で何かしていない限りはちょっと……」
ただし特例を除いて、と美鈴は最後に付け加える。
「じゃあダンさんって呼ぶけど、ダンさんは人を探してるんだよね?」
「左様でございます人間さん」
「あ、私、籠山美緒って言います」
「カゴさん!」
「いや、それならせめて美緒でお願いします……」
「美緒様、左様でございます」
「美鈴、なんか疲れるよこの狸……」
「まぁまぁ」
沢渡団三郎ことダンは器用に二足歩行で立ち上がっては背を伸ばし、右前足を前に出したかと思えば狐の前に大量の煙が発生し、そこから絵巻物が現れる。結んでいた紐が解かれハラリと開かれた巻物にはへのへのもへじで描かれた人間らしきものがある。
「こちら、人相書きでございます」
「いやもうちょっと何とかならないかな! 判別とか考えて!」
「しかし人の顔を描くのは苦手でしてなぁ」
「何で人相書き用意したの!」
巻物を閉じたダンは前足で持つと同時に煙を出して、また煙へ巻くようにそれを消し去る。
「あの、大丈夫です。元々似顔絵……? が無くても探す方法は考えてありましたので」
「疑問形ですな美鈴様」
「でも助かります。ダンさんが『人払い』をしてくれたおかげで、私も魔術が使えますので」
今までどこか戯けるように身体をぴょこんぴょこんと動かしていたダンが一瞬だけ動きを止めた後、二本足で立っているにもかかわらず前足で頭を器用に掻く。
「おっと、『そのこと自体』にも気付かれないようにしていたつもりだったんですが、さすがですなぁ」
「? この公園に入った瞬間から気付きましたよ?」
「……いやはや、恐ろしい」
深く深く狸の妖怪は嘆息し――まるで時が止まったかのように美緒と美鈴を巻き込んで静かな時間が流れ、その妖怪は前足を上下からポンと合わせて音を出す。
「それで、如何様に探すのですかな?」
はっ、として美鈴は呼吸を思い出したかように慌てて息を吸って吐いて、ダンの問いに応える。
「……その人の魔術の痕跡はありますか?」
「ん~、その人『協会』の魔術師ですからなぁ、痕跡を残すようなことはせんでしょう」
「いえ、魔力はほんの僅かでも残ります」
「ほっ?」
「少し待っててください。――見つけ見つけて小さな欠片、潜んで隠れて見えない欠片、私に教えてその波紋、はらはらはらりと音と鳴り」
句を詠むかの如く、するりと抜けていく美鈴の声。儚くも透明でありながら、それでいて芯の残る声。美緒はその声と美鈴に意識を奪われ、また美鈴の鮮やかな魔力がゆっくりと深く見えない形を成していく。
「――見つけました」
何をと美緒が尋ねようとして、言葉を止める。今は美鈴がやることをただ見守るべきだと判断したからだ。
「人の、生き物の魔力にはどれも全て指紋のような波長があります。一つとして同じものはないんです。その波長に自分の魔力を重ね合わせて形を捉え、その痕跡を探します」
誰もいない公園の隅にいる二人と一体の妖怪。間もなく夕焼けになりそうな空模様ともなれば一層わびしさを色濃くする影が伸びるというのに、美鈴の周囲だけは弾けるように細かい光が散って広がっては消えていく。
「……畏るべき魔術ですな。いや、魔術そのもののことではありませんぞ。その歳でそこまで細やかな作業を行えるとは、いやはや本当に末恐ろしい」
美緒が首を傾げた。
「そんなにすごいの?」
「わかってないんですかーい!」
「いやだって魔術ってよく知らないし……」
「美鈴様! この人間は貴方様の何なのですか!」
「な、なな、何って、その、あの……」
顔を赤らめて言い淀んでいた美鈴だが、途端に表情を変える。
「あ、見つけました。あまり遠くではなさそうですね」
「方向はどちらでございましょう?」
「えっと、向こう――」
「ありがとうございます! あとはワシのみでなんとかなります! このご恩はいずれ必ずぅ!」
ダンはその場で空中一回転したかと思えば、またも大量の煙を全身から吹き出し、煙が消えた時にはいともあっさりと消えていた。
「化かされた!」
「いえ」
美緒の言葉を静かに否定して、美鈴は言葉を続ける。
「たぶん、巻き込まないようにしたんだと思います」
え、と振り返る美緒に、美鈴は一つ頷いた。
嗚呼、悪いことをした。
狸は自分の好意が礼を失するということを十分承知した上で、敢えてそのような行動を取った。探し人をあっさりと見つけてくれたのは実に有り難い。とても助かる。それでも狸はあのふたりを遠ざける方法を採った。
否、それしかなかった。
身体中の妖力をかき集めて自身の存在感と力の痕跡を限りなく無へと近付けつつ、それでいながら駆ける速度は国道を走る自動車にも劣らない。いざとなればその速度を維持したまま丸一日だって駆けてみせるぐらいには妖力を持っているが、実際にそうしないのは特に必要としないだけに過ぎない。つまり今は必要なのだ。
人の造りし道を駆ける。土の感触と違い、なんという堅い大地だろうか。太陽の熱をすら大地へ還元せず足の裏から伝わる不自然さを、狸はあまり好まなかった。故に人を嫌うという短絡さは持ち合わせていないものの、数百年前と違う今の人間の街は恐らくこの生が尽きる時まで好ましく思うことはないだろう。
――嗚呼、嗚呼、それでも。
狸の妖怪は毛むくじゃらに隠れた顔へおくびにも出さず、こう想わずにはいられない。
――人を嫌いにはなれんのです。
それが陰陽師だろうと魔術師だろうと、妖怪を滅する強者だろうと、人を嫌いにはなれないのです。
――同じく妖怪もまた愛おしく想うのです。
だからこそ『彼女』は如何なる妖怪や魔術師よりも自分が発見する必要があった。どれ程道化に堕ちようとも構わない、ただただ先に見つけて『助ける』必要があった。
「取らぬ狸の皮算用とはよくいったもんですなぁ。考える間も無かったとはいえ行き当たりばったりでなんとかなるとは」
国道から道を逸れ、林の中を走って行く。あの土御門家の娘が指した方向は覚えており、方向さえ分かってしまえば沢渡団三郎としての力で目的の少女を見つけるのは容易いことだった。あの土御門家の娘といえど、方向までは分かっても正確な位置まで把握していないだろう。
人間との違いは圧倒的な妖力(魔力)の差だ。魔力を以て身体の大部分を構築、または融合しているのが妖怪やモンスターと呼ばれる『魔物』である。当然ながら声帯部位が魔力で構成されている妖怪ほど強力であり、その存在自体も強くなる。特に長い時を生きている妖怪ほど自然界にある魔力を吸収、または他生物から摂取してより強くなっていく傾向がある。日本三名狸として名を馳せる沢渡団三郎ともなれば神獣には至れずとも十分に強力な妖怪であり、数多くの妖怪を統べる長でもある。どれだけ優秀な魔術師がいようとも沢渡団三郎に及ぶべくもない。
有り余る妖力でさらに身体強化を行う。人間は魔力の具現化を効率良くこなすために言葉を使うが、妖怪はその生来から魔力を使って生きているモノである。言葉を介さずとも手足のように使いこなせる。まるで弾丸のような速度を得て、沢渡団三郎は林を抜けていく。山に入ろうかというところで地を蹴り空を跳ね、高き視点から自分の喉を両手で押さえている学生服の少女を発見し、器用に空中で身体の向きを変えて彼女へと突っ込んでいく。
「こなっ……でっ、ダン……!」
苦しそうな呼吸の中に言葉を混ぜて、少女は沢渡団三郎を拒絶しようとする。しかし大妖怪がそんな言葉を意に介す筈も無く、まさに目にも止まらぬ速度で距離を詰める。
「だめっ、です……!」
弾かれたように少女の手が首元から離れ、大妖怪の頭を掴む。その程度なら沢渡団三郎は物ともしないが、その掌には魔力が圧縮されており――
「ライ」
言葉と共に高圧縮された魔力が雷へと変化する。
「ぬぅっ!」
自爆することも厭わない畏るべき威力に沢渡団三郎は眉を寄せ、咄嗟に出来たことは彼女の全身に魔力の膜を纏わせることだけだった。一瞬の判断で魔力を使ったため、沢渡団三郎自身は身を守ることも叶わずに雷撃が頭から尻尾の先まで凄まじい痛撃を伴いながら突き抜けていった。
「ガッ……!」
全身の毛が焦げ瞬間白目を剥くものの、すぐさま沢渡団三郎は意識を取り戻し前足を少女の手の甲へと乗せる。
「目をお醒ましくだされ! 彼の怪物に取り込まれたままで自身を誇れますか!」
「……ぐっ、うっ、ダメ、意志では、精神では無理ッ……!」
少女の手が狸の喉を掴むべく伸びてくる。
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