この世界にふたりだけ【S】

平乃ひら

取らぬ狸の【前編】

 竹林と私道の境目、自然と人工物が曖昧な溝の中に身体を小さくさせた『それ』はいた。

 土御門美鈴は『それ』の正体を一目で見抜いていたものの、それでも愛嬌のある丸いふわふわとした胴体と顔に一瞬呆けてしまう。すぐさま「いけない」と自分に言い聞かせてから、美鈴は一言だけ何事かを呟く。ふわりと薄い光の膜が彼女を覆ったかと思えばすぐさまそれは消えて、彼女は努めて静かな顔をさせたまま溝口に頭がはまっている獣らしき生き物――日本では概ね妖怪と称される存在に声を掛ける。

「大丈夫……ですか?」

「だめです」

(即答!)

 妖怪というのは普段から人間に関わる存在ではない。特に二十一世紀も二十年以上経過した今、人間の文明が進めば進むほど妖怪との縁から遠ざかっていく。それこそ彼らの動力源と同じにする魔力を操る魔術師でもない限り、まず妖怪やモンスターと接することはないだろう。魔力を生命の源とする生命体を凡そそのように呼称することが多く、魔力を使用する美鈴のような魔術師達とは歴史的に切っても切れない縁が存在することがままある。

 そんな魔術師である美鈴は、竹林とそれを囲う道路と、さらにその先にある屋敷を眺めてから少しだけ首を傾げる。学校指定の制服を汚したくないのでスカートを折りたたんで足で挟むようにしゃがみ、もう少しだけ声を掛けようと決める。何しろここで存在自体の大小関係なく妖怪が動けなくなっているのは『問題がある』からだ。

「もしかしてですが、土御門家に用事がありますか?」

「おお……おお!」

 がばっと顔を上げようとして、溝口にはまったまま動けずにもがく獣。というよりも狸だ。

(これって、美緒が言ってたコメディっていうのになるんでしょうか)

 そうでなければこの狸妖怪は狙ってこうしているということになるが、そうする理由なんて美鈴の頭では一向に浮かばなかった。

「……助け、要りますか?」

「お、おねがい、します……!」

「あ、はい」

 念のため魔術で全身に魔力による防御の膜を張っておく。物理的にも魔術的にもこの妖怪が危害を加えようとしてきても、こうしてさえいればすぐにどうこうなることはない筈だ。

 美鈴は胴体を両手で持って、軽く引っ張ってみる。

「いたたたた! 首もげ! もげるぅ!」

「あ、ごめんなさい!」

 ぱっ、と手を離すと、妖怪は数秒ほど激しく呼吸をしてからすぐさま深呼吸らしき音をさせる。

「い、いえいえ、この溝口の先にちょっとミミズがいたもんだからつい鼻先を突っ込んで遊んでしまう本能に負けたワシが悪いんです!」

「そんな理由でここで動けなくなってるんですか……」

「ええ、人に見つかったらどうしようかと思ってたんですが、通りすがったのがお嬢さんみたいに心の清い人で助かりました。あ、もうちょっと優しく引っ張ってくれませんでしょうか」

「えっと、それでも首が痛いと思うので、ちょっと魔術でどうにかしますね」

「へ?」

 美鈴は僅かに意識を集中させると、その狸妖怪の首元のコンクリートがぐにゃりと形を変化させ、口を広くさせた。

「のわ!」

 つい溝へ落ちそうになった妖怪だったが、なんとか踏ん張って後ろへ二回、三回と身体を転がして、尻餅を突く形でぽんと止まる。

「ま、魔術とは驚きましたぞ! ほとんど魔術の詠唱もせずにぽーんと使いましたな! さてはかの陰陽師、安倍晴明に並ぶ猛者なのでは! なーんてははは」

「さ、さすがにそれは……でも」

 美鈴は『自宅』に視線を向けると、狸妖怪もつられて視線を移動させる。四つの目が向かう先にあるのは魔術師や妖怪ならば誰もが識る名門の家であり、それにようやく気付いた狸妖怪が全身の毛をビンと逆立ちさせた。

「……。…………。まさかまさかの土御門家ご令嬢様ですぞ?」

「え、はぁ、ええっと、そうなります……ね」

「ひょーーーーー!」

 狸妖怪はせっかく自由になった頭をまた地面へめり込ませる勢いで土下座をし、丸い尻尾をふるふる震わせる。間違いなく恐怖に戦いているのだけは分かるのだが、余りにも豹変しっぱなしの妖怪に美鈴も困惑を隠せずに一歩だけ後ろに下がってしまった。

「かの土御門家のお嬢様となれば! あの美鈴様ですな! ひえええええ! 命だけはどうか助けてくださいお腹撫でてもいいので!」

「撫でていいんですか? あ、そうじゃなくて……なんでウチの前で埋まってたんでしょうか?」

「埋まっていた訳じゃなくて人間の文明にしてやられたといいますか、いえそこは忘れて頂けたら大変心穏やかに過ごせそうです。というわけで撫でます? ぽんぽん差し出せば命助けてくれます?」

「も、元からそんなものいりません……! そ、それよりも私の家に何か用があったのでは?」

「おお、そうでした!」

 ぱっと顔を上げた狸が器用に身体を起こし、前足をゴマすりように擦りながら動かしてくる。

「実はかの土御門家に頼みたいことが――」


 そんなわけで頼みを聞いてしまったんです、とお世話になっている家の住人に今日起こったことを話す。

 同じ中学校に通う同い年の女子は「うむむむむ?」と眉をひそめながら首を傾げつつも美鈴の言葉を必死に理解しよおうとしているみたいだった。それもそうだ、目の前にいる彼女は魔術師ではないし、つい最近まで魔術とは関係の無いごく普通の学生として生活していたのだから、妖怪絡みの案件と言われてもただひたすらに困るだけだろう。美鈴も話してから後悔してしまったが、少なくとも彼女――籠山美緒は美鈴の話を真正面からきちんと受け容れる性格の持ち主なので、一笑に付すことだけはしないと信じている。

(だから余計に悩ませちゃうんですよね……)

 後悔の九割はそれが正体だ。

 籠山家はごく普通の家庭であり、今は母親と二人暮らしだと美緒は語っていた。とはいえ家は一軒家であり、母親と娘だけで暮らすには少々持て余し気味なのだという。とある事情で美鈴もここに住むこととなったが、その際は美緒の母親から喜ばれたものだ。そんな一軒家の居間で並ぶようにソファに座っているが、こうやって美緒と近くに座るようになってまだ日が浅い。

(いけません、慣れないと)

 あまり密着すると、今度は美緒が顔を赤くして離れてしまう。なんとも自分達の関係は難しいと美鈴は常に意識させられるのだ。そんな美緒が「うん」と頷いてから話しかけてくる。

「美鈴……」

「は、はい?」

「私も狸みたかったぁ~!」

「ええっ」

「それって妖怪ってやつでしょ! 溝口に頭はまって人の言葉を喋る狸とか、絶対に面白い!」

「えええっ、そ、それはそう……なんでしょうか?」

「こういう時にスマホ使ってくれるとすっ飛んでいったのに!」

「すまほ……まだ使い方が慣れなくて」

「魔術師ってすぐに魔術に頼って通信するー!」

「あの、本質的にはスマホと同じかなと」

「確かに!」

 だよねー、と美緒は笑ってくれるので、美鈴はどことなくほっとした気持ちになって胸をなで下ろす。美緒はあまり深くツッコミをしてこない、というよりかは深く気にしない一面もあり、美鈴は彼女のそういうところに何度か助けられている。

 ちらりと窓へと目を向けるものの、カーテンが掛かっているため外が見えることもない。しかし僅かな隙間から覗かせる夜の深さに心が静かになっていった。

「人を探しているようです」

「人? 妖怪が人を探すの?」

「いえ、まず大体の妖怪は人間達との協定で、妖怪を知らない普通の人と関わらないようになっています。なので探している人というのも普通の人ではないかもしれません」

「てことは、魔術師ってこと?」

「おそらく」

 ――人間達との協定というより、魔術師と専門家による混合組織との協定だが、それによって人よりあらゆる面で優れる妖怪が人に手出しをしないのだと、以前美鈴は美緒に対してそう説明をしていた。もし妖怪が人間に害を為した場合は状況によって人間またはより強大な妖怪が『退治』をし、人間――魔術師が妖怪に害を為した場合はその逆となる。これらを畏れて特に力の弱い妖怪は人と関わろうとしないが、時折利害の一致で手を組む者達もいる。

「最近姿を見せないから気になって探そうとしたらしいのですが、手掛かりは何もないので、唯一『よく知っている』人間の家に来た……と」

「ははぁ、それで久々に里帰りした美鈴と出会したってことね。あ、ちゃんと捜し物見つかった?」

「はい、私室の机の中に入ってました。お守りです」

 美鈴は嬉しそうにそのお守りを取り出す。昔両親に買って貰ったものらしいが、可愛らしいものや綺麗なものではなくどこかの神社のお守りというところが実に美鈴らしいねと美緒はうんうん頷く。

「そ、そんなにです?」

「そんなにだね」

「そんなに……ですか……」

「うん」

 美鈴が萎びていく花のように、けれどもその顔は僅かにほてりを浮かばせ、上目遣いで美緒を見る。美緒は美緒でつい顔を横に向けてからからおずおずと正面に戻した。

「じゃあ、明日の放課後は人捜し?」

「はい、土御門を頼ってきたのに何もしないのは名折れですから」

「その狸、本当に大丈夫?」

「そうですね、害意は無いみたいでした。ただ、どなたを探しているのかは分かりませんでしたが……」

「名前も知らない?」

「名前は大切なものなので、相手が土御門といえど簡単には口にしないのでしょう。名は心に影響します」

「へぇ、そんなもんなのかぁ。むずかしい……!」

 魔術の知識に乏しい、というよりもこの歳になって美鈴と出会うまで魔術のまの字も知らなかった美緒としてはいまいち実感のできないのだが、それでも美鈴の言おうとしていることはきちんと理解すべく頭を働かせている。

「名前も分からない人って探せるの?」

「一応……その、一つだけ手があります」

 どことなく不安そうな顔をして言ってくる美鈴に、美緒もまたどことなく不安そうな顔になるのだった。

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