西へ 第八節

「私の勘違いだったら本当にごめんなんだけど、高校の時、ミツキちゃんから遊びに誘ってくれたこと、一度も無かったよね」


「…………ぁ」


 つい、口から声が零れ出た。

 口から零れて直ぐ、やってしまったと思った。


 無意識のうちにカップをソーサーへ置き、カップに触れていない方の手のひらで口元を隠してしまい、それに気づいて、またやってしまったと思った。

 口元に添えた手をすぐに下ろし、掬い上げようとした声などどこにも無いのだと主張するために、再びカップへと触れる。


 吉乃を見ると、珈琲を飲む手を止めて私をじっと見つめてきていた。

 あぁ、これはアレだ。ちゃんとした返事をしないと駄目なヤツだ。


 吉乃いま、私の言葉を待っているのだろうから。

 吉乃の問いへの、私からの答え合わせを待っているのだろうから。


「えっと……そ、そう____」


 そうだっけと言おうとして、私は言葉を止めた。

 それも、無意識のことだった。


 いつもの私ならそう言って濁していた筈。

 他人と私の歯車が正しく噛み合うように、私だけが世界から浮いてしまわないように、当たり障りのない言葉を返して、誰にも嫌われる事の無いように。


 けれど、何故か今この瞬間だけは、私はそうするべきではないと感じた。

 理由はきっと、相手が吉乃だから。


 朝日吉乃と言う人間は、ありふれた言葉で表現をするのであれば、凄く良い人だ。

 何がどう良いのかと言われれば表現に困るのだが、吉乃がいた事で高校時代の私はまだ、何とか他人と私の歯車を微かに噛み合わせることができていた。


 そう、朝日吉乃と言う人間は、つまりのところそういう人間だ。

 私と世界を繋ぎ合わせてくれる、浮いてしまう私の輪郭を世界に慣らしてくれる、私のような人間に手を差し伸べてくれる人間。


 純粋で、無垢で、善性の象徴と呼べるような人間。

 今の吉乃は私の知るそんな吉乃とは全くの別人だ。

 けれど、私にとって吉乃は良い人なのだ。


 そんな吉乃の無垢を、淀み切った私の人間性で汚すことはできない。

 もう既に、吉乃が私の知る吉乃でないのだとしても、私は私の知る吉乃しか知らない。

 吉乃が私に誠実でいてくれる限り、私も吉乃に誠実でありたい。


 そう思ったからこそ、私は吉乃から投げかけられた問いの答え合わせをした。


「…………うん。多分そうだよ」


 多分なんて言ったのは、私の悪い所だ。

 本当は、そんな曖昧な表現をしなくても、断言ができる事なのに。

 それにしても……


「吉乃には気付かれてたんだ…………」


 声に出して初めて、現実感が追い付いてきた。

 私が感じていた私の疎外感は、私以外の人間にもハッキリと分かるようなモノだったのだという、その事実が。


 いや、そうじゃないかもしれない。

 あくまでも吉乃に気付かれたのは、高校時代に私が一度も吉乃を遊びに誘わなかったというその点だけだ。

 

 私が、吉乃を含めた誰一人も私から遊びに誘った事が無いということや、そのほかのあれこれ、私の心の内側についてが気付かれたワケではない。

 そこまで思考を整理して初めて、白状する覚悟を決めるのは少し急ぎすぎだったのかもと思った。

 でも、白状してしまったものはもう引っ込める事ができない。


「気付くよ。ミツキちゃんの事だもん」


 珈琲を口に含み、話を区切る吉乃。

 カップの飲み口はさっきよりも濃くピンクに染められている。

 この吉乃の言葉は、どちらの吉乃の言葉だろうか。


「高校を出てからもね、みんなとは定期的に遊んでるんだ」


 白状をするような、という様子ではない。

 事実を淡々と述べるような調子で吉乃は言った。

 その内容はあまり好ましい内容ではなかったけれど、吉乃の言葉が私を傷つける為のものではないという事は、続けられた言葉ですぐに分かった。


「本当はミツキちゃんも一緒が良かったんだけど、無理に誘ってミツキちゃんに嫌われるのも嫌だったから、ミツキちゃんから会いたいって言ってくれるまでは、無理に呼び出さないでおこうってみんなと話してたんだ。高校時代、ミツキちゃんから私たちを遊びに誘ってくれる事が無かったから、ミツキちゃん、本当は私たちといるのが…………その……あんまり楽しくなかったんじゃないかって思っちゃって」


 ようやく、吉乃の問いの意味が分かった。

 私から吉乃を遊びに誘った事が無かったよねという、あの問いの意味が。

 あれは、問いではなく事実確認そのものだったのだ。


「えっと……その…………ごめん」


「謝らないでよ。責めてるとか、そういうのじゃないんだから」


 吉乃は小さく笑いながら言った。笑っているのに、笑っているように見えない不思議な表情をしていた。


「ねぇミツキちゃん。ミツキちゃんは今日、私と遊ぶの嫌だった?」


 そう問いかけてきた吉乃は、私ではなく手元のカップを真っすぐに見つめていた。

 私は吉乃の横顔を見て、吉乃と同じように手元のカップに視線を落とす。

 もう、カップの半分も珈琲は残っていない。


 吉乃からの質問への答えは悩む必要なんてなかった。

 けれど、言葉が喉の途中でつっかえて、上手く言葉が出てこない。


「私ね、ミツキちゃん……」


 そうこうしている内に、吉乃が一度深く深呼吸をして、私の言葉を待たずに話し始めた。

 まだ、吉乃はカップを見つめたままだ。


「高校の時、初めてお話をした時から、ずっとミツキちゃんの事が好きだったんだよ」


 あまりにも唐突な話に、私は固まる。


「あ、待って待って。好きっていうのはそういうのじゃないよ!?」


 私の表情を見たのか、吉乃が慌てて補足をしてくる。


「昔から、ミツキちゃんは周りに流されなくて、自分らしく生きていて、綺麗で、カッコよくて、声が良くて、私みたいな人にも優しく接してくれて。だから私は、ずっとミツキちゃんの事が好きだったんだ。ミツキちゃんの事を尊敬していて……うん。私、ずっとずっと、ミツキちゃんになりたいって思ってたんだ」


 私の言う好きはそういう感情なのだと吉乃は言った。

 けれど、補足された説明の方がより私を硬直させた。


 だって吉乃がした補足の話は思っていったよりもずっと重々しい話で、思っていたよりもずっと私の事を想っていて、思っていたよりも全くもって私という人間を理解できていないものだったから。


「ねぇ、ミツキちゃん。私、答え合わせがしたいんだ」


「答え合わせ?」


 直前の会話から一気に外れた話の展開に、私は落胆しながら聞き返す。


「そう。答え合わせ。今から私が、ミツキちゃんに聞きたかった事を聞くから、ミツキちゃんには正直に答えてほしいんだ」


 まるで知り合ってすぐ、仲良くもないうちに出かける校外学習の先での時間のつぶし方みたいな吉乃のお願いに、私は苦笑いをする。


「まぁ、うん。いいよ。答えられる事には答える」


 答えられない事には答えないけれどと心の中で付け足す。「やったぁ」という吉乃の喜ぶ声に、胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。


「ミツキちゃん、高校の時に私たちと遊ぶ時間は全然嫌なんかじゃなかったでしょ」


「……うん」


 さっき答えられなかった問いに答える事が出来て、少しだけ胸が軽くなった。

 胸の奥の痛みが僅かに和らいだ。


「嫌じゃないどころか、楽しいって思ってたでしょ」


「……うん」


「私たちが遊びに誘ったとき、一度も断らなかったもんね」


 記憶違いだったらゴメンだけどと、吉乃は付け足す。

 でも、吉乃は記憶違いなんかしていない。


 彼女の言葉の通り、私は一度も彼女たちからの遊びの誘いを断ったことは無い。

 だって……


「でも、誘いを断らなかったのは、私たちと居るのが好きだったからじゃないよね」


「……う…………え?」


「楽しいからでもないでしょ?」


「………………」


「ミツキちゃん、そんな顔するんだ」


 全然楽しくなさそうに、吉乃は笑う。

 私だって、吉乃のそんな顔を初めて見た。


 今の吉乃の表情は、なんといえばいいのか……なんか、嫌な感じだ。

 上手く言語化ができない。けれど、一番近い感覚を拾うのであれば、吉乃が気持ち悪い。

 いや、怖いという感情の方が近いかもしれない。


「…………ぁ……」


 どう言葉を返すのが正しいのか、解らない。

 こういう時、普通の人ならどのように返すのが正解なのだろう。


 どんな表情で、どんな風に振る舞うのが正解なのだろう。

 どうすれば、私と言う歯車は世界と噛み合うことができるのだろう。


「ねぇ、ミツキちゃん。さっきも言ったけど、責めてる訳じゃないんだよ」


 上手く言葉を返せない私を見かねてなのか、吉乃が言った。

 けれど、その言葉の意味が分からない。意味を確認したいが、吉乃の顔が見れない。

 責めている訳じゃないのなら、吉乃は一体どういうつもりなのだろう。


「ただ、言っておきたかったの。きっと、私もミツキちゃんと同じなんだって」


 同じ?

 同じって、何だろう。


 それは、どういった意図の言葉なのだろう。

 分からない。吉乃と言う人間がますます分からなくなっていく。


 だから、吉乃が怖いと思えてしまう。吉乃が気持ち悪いと思えてしまう。

 私のことを正しく理解なんてできていないくせに。


 頭の奥がかぁっと熱くなるような感覚があった。そして、その感覚を実感したことで、私の頭は冷静さを取り戻した。


 そのタイミングを見計らったかのように、まるで私を見透かしたかのように、吉乃は言葉を続ける。


「高校の時、私からみんなを遊びに誘った事、一回も無かったもん」


 さっきの反応的に、ミツキちゃんも気づいていなかったよねと、吉乃は小さく笑う。

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