西へ 第七節

「決まったら呼んでくださいね」


 目の前にメニュー表が広げられる。

 黒い冊子を広げたそのメニュー表は、左半分に豆の説明が書かれていて、右の半分に商品名が並べられていた。


 メニューの内容はどれも珈琲ばかりで、他のメニューは何も無かった。

 食べ物はもちろん、飲み物ですら珈琲しか書かれていなかった。

 カフェオレやミルクコーヒーもあるが、どちらも珈琲が使われている。

 だから、珈琲としてカウントして大丈夫だろう。


 何よりも衝撃なのが、紅茶はもちろん、メロンソーダとかそういった類の飲み物はメニューに並べられていない。喫茶店なら、珈琲以外にも何かしらの飲み物があるはずなのに。


 そう思ったすぐ後に、そういえばこのお店は喫茶店ではなく珈琲ショップなのだと思い出した。

 字は違うけれど、珈琲工房と名乗っているだけあって本当に専門店なのだろう。


「な、なんか……思っていたよりも凄くちゃんとしてる感じの店だね」


 声を潜めながら、吉乃が言う。


「何を選べばいいのか分からない……」


 メニューを眺め、説明文を読む。

 豆の紹介には豆の産地や特徴などが書かれていて、商品名の下には各珈琲の説明が書かれている。

 けれど、どれだけ丁寧に読んでも、イマイチぴんと来なかった。


 本当に、何を注文すれば良いのか分からない。

 とりあえず、こういう時はオリジナルブレンドと言うのを頼んでおけば間違いないだろうという話になり、私と吉乃は多香オリジナルブレンド珈琲を注文した。


「それじゃあ、カップはどれにしましょう?」


 背を曲げたお婆さんは、ボールペンで伝票に注文を書き込んだかと思うと、急にそんなことを言った。


「「え、カップ!?」」


 示し合わせたワケでもなく、私と吉乃の声は重なった。

 お婆さんの言葉の意味が直ぐに理解できなかったから。


「はい、カップです」


 背を曲げたお婆さんが、小さく頭を下げるみたいに頷く。

 ほとんど直角に曲がった腰に負担をかけないためか、その動作はゆったりとしている。


 ほんの少しだけ体を持ち上げて曲がった腰の角度を緩やかにすると、お婆さんはその場で足踏みをするみたいな調子で方向転換をして、体の半分をカップの並べられた棚に向ける。


「どのカップで飲まれますか?」


 そこでようやく、お婆さんの言葉の意味が分かった。

 お婆さんは、丁寧に並べられたカップたちのうち、どのカップで珈琲を飲むのかと聞いてきていたのだった。


「えぇ~、カップまで選べるんですか?」


 吉乃が驚いた様子でお婆さんに聞く。

 本当に驚いているのだろう、記憶に残るいつもの声よりも、声が大きかった。


「はい。お好きなものをどうぞ」


 お婆さんの言葉に、吉乃は「えぇ~どうしよぅ~」と甘い声を零す。

 吉乃の視線は、並べられた綺麗なカップたちにすっかりと吸い寄せられている。


 きっと、吉乃はこういった綺麗で洒落たものが好きなのだろう。

 私はどうだろうか。素直に凄いと思ったし、並べられたカップたちを見て綺麗だとも思った。

 けれど、好きかどうかと言われたら分からない。


「ねぇ、ミツキちゃんはどうする?」


 声をかけられて、浅い思考に溺れていたのだと気づかされる。


「あ、ごめん。ちょっと考え事してた」


「あはは。なんか、ミツキちゃんって感じだね」


 笑いながら吉乃は言った。その言葉がどんな感情を孕んでいるものなのか、私には分からない。

 ただ、吉乃が言った言葉なのだ。きっと、悪いものではないはずだ。


「じゃあ上から二番目の、左から二段目の奴で」


 パッと目についたものを指定した。

 底の方が少しだけ窄まっている、筒形のカップ。

 青で描かれた模様の上に、さらに金で細やかな装飾が施されているものだ。


「ミツキちゃんって、そういうデザインのが好きなんだね」


 お婆さんが頑張って背筋を伸ばして私の選んだカップを棚から取り出すのを眺めながら、吉乃が言う。


「吉乃はどんなのにしたの?」


「私はね、お花が描かれた丸っこい可愛いカップにしたよ。なんか、お姫様っぽくて素敵だなって思って」


 見ると、私がカップを選んだ棚とは別の棚に一つだけ空白があった。

 きっと、そこに置かれていたカップを吉乃は選んだのだろう。私が浅い思考に溺れているうちに。


 程なくして、私と吉乃の席に珈琲が運ばれてきた。

 私のランチョンマットには私が選んだ筒形のカップが、吉乃のランチョンマットには淡いピンクの花が描かれたこぢんまりとした丸っこいカップが。


「ね、可愛いでしょ?」


 言いながら、吉乃はカップを持ち上げて見せる。

 そのカップを見て、私は吉乃っぽいなぁと思った。凄く、吉乃に似合うカップだと。


 吉乃のふわふわとした性格と言い、お姫様とまではいかないけれど、本当に良い所のお嬢様みたいだなと、嬉しそうにカップを眺める吉乃を見て、そう思った。


「凄く吉乃って感じがする」


 素直に思った事を口にすると、少しだけ不思議そうな顔をした後、吉乃はえへへと恥ずかしそうに笑った。


「ミツキちゃんから見て、私ってこんな感じなんだ」


「あ、いや……ごめん」


 なんとなく、責められているような気がした。考えるよりも先に、私の口は謝罪の言葉を吐き出していた。


「違うよ違うよ。その……嬉しいなって話」


「…………嬉しい?」


 吉乃の言葉の意味が分からなくて、私は手元の繊細な筒状のカップを……その中で揺れる珈琲をじっと見た。なぜか、吉乃の顔が見れなかった。


 まるで後ろめたさを感じているみたいな自分の感情が分からなくなって、自分の思考が理解できなくて、その現実を濁すためにも、やっぱり私は浅く波を作る珈琲を眺めるしかなかった。


「そうだよ。だって、ミツキちゃんから見て、私ってこんなに可愛らしくて、花みたいって事でしょ?」


 そんなつもりは無かった。吉乃って感じがするという私の言葉には、そんな感情は一ミリたりとも籠っていなかった。


 けれど、吉乃に言われて私は少しだけ納得してしまった。

 吉乃の言った言葉は、確かに私の感情だったのかもしれないと。

 私の言葉の正しい意味なのかもしれないと。


 吉乃はきっと、国語の成績が良いのかもしれない。


「かもね」


 私には、そんな素っ気ない言葉を返すのが精いっぱいだった。


 正しい返事が分からなかった。

 正しい表情が分からなかった。

 正しい態度が分からなかった。


 だから、それが精いっぱいだった。


 そんないっぱいいっぱいの私の隣で、吉乃は笑う。


「やっぱり、ミツキちゃんはミツキちゃんだね」


 言われて、私は吉乃の顔を見た。

 数分前には吉乃の顔を見る事ができなかったのに、吉乃の言葉に引っ張られて。


 吉乃は私の方は見ておらず、並べられたカップたちを眺めながら花の描かれたカップに口をつけていた。

 淡いピンクで花が描かれた、こぢんまりとした丸っこいカップ。


 綺麗で、繊細で、宝石のようなそれは、吉乃の唇が触れた箇所に淡いピンクを焼き付ける。

 描かれている花々とはまた違う淡さを持つピンク色を。


 ある種の神秘性を孕んでいたカップは、ピンクの口紅で現実味を帯び、今ここに確かに存在するモノなのだとして、私の視界に映り込む。


 会う事の無かった数年で、吉乃も確かに変わっている。

 その事実をひしひしと感じた。


 私の中で、美しい何かが淡いピンクにくすんだような気がした。


「あ、美味しい」


 呟くように、吉乃は言った。カップの中で揺れる珈琲を見つめながら。

 その些細な言動に、私も筒状のカップへと手を伸ばす。


 正しい持ち方が分からなくて、両手で包み込むようにしていつもみたいにカップを持ち上げる。

 揺れる水面に鼻先を近づけて、香りを嗅ぐ。


 濃い、力強い珈琲の香りが鼻に触れた。

 でも、珈琲と明確に分かる強い香りなのに、その香りは全然嫌な感じがしなかった。


 いや、珈琲は臭いわけではないのだから、嫌な感じがする事は無いのだけれど、そういう話ではない。

 強い香りなのに、暴力的ではなくて、こう……整っているような感じがするのだと、そう言いたいのだ。


 酷い例えになってしまうけれど、脂がたっぷりの牛肉を食べているのに、諄く感じない。

 私が珈琲を口に含んで感じた感覚は、方向性は違うけれど、その感覚の系統だ。


 香りだけじゃない。味だってそうだ。

 インスタントの珈琲が水っぽく感じられてしまう程に珈琲の味が濃いのに、その濃い味はスッキリとしていて飲みやすいものだった。


 いつかの喫茶店で飲んだ珈琲よりもずっと珈琲らしくて、けれど飲みやすい不思議な味に、私はつい無言でふた口目を口に含んだ。


 けれど、力強い珈琲の味もスラリとした飲み口も、ひと口目と同じ衝撃を私は感じた。


「凄い……おいしい」


 零れ出た言葉に、吉乃が「だよねぇ」と相槌を打つ。


「ありがとうね」


 私と吉乃の会話を聞いていたのか、お婆さんが腰を曲げたまま頭を下げた。


「珈琲の味が濃いのに、渋みみたいなのが無くて凄く飲みやすいですねぇ」


 お婆さんのつむじに、吉乃が言葉を投げかける。

 お婆さんは腰を曲げたまま頭だけ持ち上げて吉乃を見ると、ニッコリとほほ笑んだ。


「あら、そんなにちゃんと味わってもらえるなんて、嬉しいねぇ」


 それだけ言うと、お婆さんは「ゆっくりしていってね」と言い残し、カウンターの奥へと戻っていってしまった。

 てっきり、珈琲の味の説明でもして貰えるものだと思っていたから、少しだけ拍子抜けした。


 狭い店内に私と吉乃だけになり、うっすらと聞こえる程度に流れていたクラシックがやけに大きく聞こえるようになる。

 そうして満たされた沈黙は、居心地の良さを感じるものではなかった。


 私はその川底をゆったりと流れる泥の様相のような時間を、苦いのに美味しいと感じる不思議な珈琲をちびちびと口に含みながらやり過ごした。


 この感覚は吉乃も感じているものなのだろうか。

 それとも、私だけが勝手に感じているものなのだろうか。

 いったいどちらなのか、私には分からない。


「ねぇ、ミツキちゃん」


 吉乃が私の名前を呼び、クラシックがかき消される。

 不意に訪れた沈黙の崩壊は吉乃の手によるものだった。


 その事実に、少しだけ息苦しくなる。



 吉乃にとって、いま私たちを覆っていた川底のような緩やかな時間は、破るべきものだったのだろうから。

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