西へ 第六節
「ねぇねぇ。ミツキちゃんって、珈琲飲める?」
大垣城を後にして直ぐ、吉乃に聞かれた。
私は答える。胸を張って、自信満々で。
「最近飲めるようになったよ」
そう。実は最近、私は珈琲を飲めるようになったのだ。
キッカケは不思議な喫茶店に出会った事。
最初は砂糖も牛乳もたっぷり入れてしか飲むことができなかったけれど、あの出会いのおかげで、私はつい最近、とうとう珈琲をちゃんと珈琲の状態で飲むことができるようになった。
つまり、砂糖も牛乳も入れずに飲むことができるようになったのだ。
「まぁ、まだ飲めるようになっただけで、味とかは全然わからないんだけどね」
念のために補足しておいた。
珈琲を飲めるようになったって言ってすぐ、吉乃が珈琲の味が分かるほどの珈琲玄人だったら少しだけ恥ずかしいなって思ってしまったから。
吉乃は私の補足に「大丈夫。私もだよ」と笑ってくれた。
そのやさしさに、少しだけ気まずさを覚える。
「ねぇ、珈琲飲めるならさ、せっかくなら行ってみようよ」
言いながら、吉乃は片側二車線の斜向かいを指さす。
そこには、数十分前に通り過ぎた珈琲ショップがあった。
パッと通りがかっただけだから店内は詳しく見る事が出来ていないけれど、歩道に面する側はすべてがガラス張りになっていて、近づけば外から店内の様子は伺えるようになっているみたいだ。
ただ、窓ガラスには白いペンキのようなもので何かが描かれていて、遠目では細かな様相はわからない。
とりあえず目の前にまで行ってみようという話になり、私たちは大通りを挟んだ斜向かいの珈琲ショップへと、横断歩道を通って渡った。
白。透明。茶色。
お店の外装を見て真っ先に思った事だ。
白い骨組みに張られた大きなガラス窓には珈琲を入れる器具やコーヒーカップなんかが描かれている。
遠目で見たら何が描かれているか分からなかったけれど、近づいてみればそんなに大層なものが描かれているワケではなかった。
茶色い軒には白の塗料で店名が書かれていて、そのフォントが絶妙に掠れて震えているみたいに見えたから、なんだかホラー映画のタイトルに使われていそうだなと思った。
お店の前には歩行者の邪魔にならない位置に、手描きの立て看板が置かれている。
「こーひーこうぼうたこう」
吉乃が、軒に書かれた『珈琲幸房多香』という店名に振られた読み仮名を不思議そうに読み上げる。
「なんか、こだわってるって感じの名前だね」
少しだけ、吉乃は楽しそうだった。声の感じが、なんとなくそんな感じがする。
まぁ、吉乃はいつも楽しそうに話すのだから、いつも通りと言えばいつも通りなんだけど。
…………いや、数年ぶりにあっていつも通りとか、気持ち悪いな、私。
ふと気を抜けばネガティブな思考を重ねていて、気分が沈んでしまう。
そんな自分の胸の内に沸くモヤモヤを振り払うために、私は何とか言葉を絞り出す。
吉乃の言葉に言葉を返し、会話を繋げる。
「確かに。なんか、ちょっと固い感じがする」
「ね~」
私の言葉に、吉乃は同意してくれる。
なんだか、吉乃に目の前のお店の悪口を言わせたみたいに感じられて、少しだけ胸が苦しくなる。
私はまた、言葉を吐く。
「こんなところ、私たちが入っていいのかな。場違いって思われたり……」
ガラス越しに店内を覗く。
すぐ目の前には、何に使うのか分からない大きな機会が置かれている。
その奥に商品が並べられた小さな棚たちが見えて、さらに奥にはカウンター席が見えた。
いつか出会った喫茶店もカウンター席があったけれど、このお店は、多香は、たぶんだけれどカウンター席しかない。
少なくとも、外から眺める限りではそう見えた。
何といえばいいのか、凄く本格的って感じがした。
一蘭のなんちゃらカウンターとかじゃないけれど、店内の様相はまるで、珈琲を飲むために整えられたと言われても納得してしまうような空間になっていて、凄く仰々しく見えた。
こんなに丁寧に整えられた空間に、瞬間的な興味で足を踏み入れてしまってもいいのだろうか。
少しだけ、私は気後れした。
けれど、吉乃は違った。
「本当に場違いだったらお店から帰ってって言ってくれると思うから、とりあえず入ってみようよ」
そういうと、私の言葉を待たずに吉乃はお店の扉に手をかけた。
吉乃が店内に入り、ベルが鳴る。私も吉乃に続いて中に入る。
奥へと進んでいく吉乃に続いて私も細長い店内の奥へと進んでいく。
「わぁ」
感嘆の声を零したのは私か吉乃か。
そんなもの、どちらでも良かった。
店内に入ってすぐ左手には巨大な何かの機械があって、その裏側には機械とそれ以外でお店を仕切るみたいに小棚があり、小棚にはいろいろな珈琲豆が並べられていた。
値札が置かれているあたり、すべて売り物なのだろう。
山地や豆の特徴なんかが書かれているが、いまいちピンとこない。私は詳しくないから。
けれど、産地はどこも日本ではなくて、世界中のいろいろな国から取り寄せた豆を販売しているようで、珈琲の豆ってこんなにいろいろな所で作られているのだなと、素直に関心した。
さらに奥側にはカウンター席がある。
十人は座れないくらいの席数。数えたら八席だった。
どれもこれも、外から窓ガラス越しに覗く事の出来た光景だ。
けれど、私と吉乃はその光景を見て感嘆の声を零さずにはいられなかった。
カウンターの内側。カウンター席から見たら正面に当たるその位置は、壁に棚が五つ並んでいる。
左側から五段、四段、五段、五段、五段。
そのうち、左から二つ目の棚は食器が片付けられていて、真ん中の棚には珈琲豆だか豆を挽いた粉だかが瓶詰で片付けられている。ドリッパーと思われるものと一緒に。
ただ、私と吉乃が心奪われたのは、そんな食器や豆なんかではない。それ以外の棚だ。
五つある棚の内、食器などが片付けられている二つの棚を除き、残りの棚すべてには、カップが並べられていた。
私が家で使っているようなマグカップとは大きくかけ離れた、こぢんまりとした上品なカップだ。
一段に決まって四つ、ソーサーと一対に揃えられたカップたちが、等間隔で並べられている。
それが五段で、棚三つ分。
並べられたカップやソーサーに、同じ形のモノ、同じ模様のものは一つもない。
鮮やかな青や金で装飾されたカップもあれば、湯飲みのような色合いをした、味わい深いものもある。
春の草原を彷彿させる緑で彩られたものだってあった。
持ち手一つをとっても、並べられたカップたちはすべてがすべて、違う姿を持っているように見える。
カップに描かれた模様は花が多いように思える。
けれど、同じ花が描かれている様子はない。
一目見ただけで、その並べられたカップたちがいわゆるお高いモノであるのだと、常識に疎い私でもわかってしまった。
そんなカップが、カウンターから見える位置で綺麗に並べられている。
正しい表現をするのであれば、その光景はまるで美術館だった。
美しい造形、色合いのカップが、ソーサーと対になって展示されている美術館。
他の表現が私には見つけられなかったし、他の表現はどのようなものであっても、眼前の光景に負けてしまう気がした。
とても珈琲ショップの光景ではない。
眼前に現れたカップの美術館は、とても神聖な光景で、今私が立っているこの場所は、私には場違いで仕方がない場所なのだ。
少なくとも、私はそう思った。
吉乃はどう感じているのだろうか、ふと隣を見ると、吉乃は今まで見た事が無い表情で並べられたカップたちを眺めていた。
けれど、その表情はネガティブなものではないのだと思う。
根拠はないけれど、なんとなくそう思った。
まぁ少なくとも、吉乃も私と同じで眼前の光景に圧倒されていることは間違いない。
そう。私と吉乃は、このカップの美術館に圧倒されていた。
その圧倒は、力強い暴力的なものではない。
上品で、穏やかで、小ぢんまりとしていて、ある種の神秘さと言っても良い類の圧倒だ
「はい、いらっしゃい」
私と吉乃が圧倒されていると、カウンターの奥から背を曲げた小さなお婆さんが姿を現した。
かけられた声に、吉乃はハッとして「二人です」と返す。
「好きな席に座って」
そういうと、お婆さんはカウンターの奥の厨房と思われる場所へと引っ込んでいった。
「どこにする?」
吉乃に聞かれて、少し考える。
なんとなく真ん中に座るのが憚られて、私は一番左側の、入り口に近い席に座った。
吉乃は私の隣の席に座って、少しだけ座る椅子を私側に寄せてきた。
そんな些細な仕草も昔の儘で、胸のあたりがなんだかむず痒く、けれど暖かくなった。
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