煙草


 毎日、朝目が覚めると憂鬱だった。


 正確には、目が覚めた頃にはだいたい夕方なのだけれど、それでもやっぱり目が覚めて直ぐは憂鬱だった。




 自分が世界から浮いてしまっているような感覚が最も強くなるのが起きて直ぐの事だったから。


 レールから外れているとは少し違う。正しく嚙み合った世界の中に、世界を構成する歯車の一つとして存在しているのに、どの歯車とも触れ合っていないような、そんな感覚だ。


 


 この世界から乖離しているようなその感覚は、私をどうしようもない気持ちにさせる。


 そのどうしようもない気持ちの正しい表現の仕方を知らないから、私はそれを憂鬱な気分と呼んでいる。




 体を、思考を鈍らせるその悪者のせいで、私は寝起きの調子がすこぶる悪い。


 日によっては意味もなく凄くイライラするほどに。




 でも、そんな私の寝起きを良くするものがある。微睡を振り払って、世界と私との輪郭を曖昧にしてくれるものがある。ヒントは女の子の必需品。






 そう、煙草だ。






 こんな時、煙草を吸うと頭がすっきりとする。生きている心地がする。憂鬱を吹き飛ばして、私をこの世界に確かに存在するものとして繋ぎ留めてくれる。


 そんな救世主に助けを求める為に、私はローベッドの近くに放り捨ててあった白と赤でデザインされた箱を拾いあげる。




 私は別段、ヘビースモーカーという訳ではない。


 けれど、つい昨日開けたばかりの赤マルはもう半分ほど減ってしまっていた。




「まぁ、昨日は雨だったし……」




 誰でもなく、自分に向けて言い訳をして、私は撚れていない煙草を口に咥える。


 そのままごろんと寝転んで、ライターはどこにやったかと考える。


 高いわけでもない、コンビニでレジ脇にわかばやHOPEと並べて売られているようなライターだ。




 昨日最後に吸ったのはどこだっけと記憶を漁る。


 そうして、昨日履いていたズボンに入れたままだった事を思い出した。




 脱いだままで放置していたズボンを寝転がったままで手繰り寄せて、左のポケットからライターを取り出す。


 透明なオレンジの体が安っぽい、事実安いライター。


 いつ買ったかも覚えていないようなものだから、オイルは残りわずかだ。




「外には出たくないなぁ」




 少しでも長生きをして欲しいものだと、もうすぐ寿命を迎えそうなライターに願う。


 けれど、そんな私のささやかな願いを叶えてくれる神様なんてものは、この世界に存在していない。




 咥えた煙草に歯形が付き始めたから、私は慌てて立ち上がり、一〇〇均で買った鉄だか何かの灰皿を手に、ベランダに出る。


 特に意味はないけれど、外の空気を吸いながら煙草を吸いたかったのだ。




 下着が2セットと部屋着が干してあるだけのベランダ。


 畳1畳分あるか無いかぐらいの狭いベランダ。


 緊急時には蹴破ってくださいと書かれてある、謎な素材で出来た壁で隣室と仕分けられたベランダ。


 煙草を吸うには、実に心地よい空間だった。




 髪の毛が暴れない程度に風が吹く。春先の夕方の冷たい風だ。


 けれど、浴びていて不快にならない、心地よい風。




 私は目を細めて風を浴びながら、手で覆った口元にライターを寄せる。


 親指に力を籠めると、世界を染める夕日よりもずっと暖かな明かりが灯った。


 口に咥えた煙草の先で眼前の暖かな明かりに触れ、すぅっと息を吸い込めば、暖かな明かりは煙草に伝播した。




 ジジジジジ。呼吸に合わせて、煙草が先から燃えて行く。


 その音が、煙草が短くなってゆく様が、私には何とも心地よかった。




 舌を僅かに触りながら煙が喉へ入って行く。行きつく先は肺だ。


 煙たちは肺に入り込み、空気と共に血へ混ざり、血管を通じて体中に巡って行くのだ。


 そうして、私をこの世界に馴染ませる。私と世界のわずかな繋目に楔を打ってくれる。


 私と世界の繋目を丁寧に均して、境界を曖昧にしてくれる。




「あぁ。生きてる」




 そんな事を口にしてみれば、少しだけ気が楽になった。


 頭を覆っている靄が少しだけ晴れて、思考がハッキリとした気がした。




 呼吸を重ねるたびに、煙草は短くなってゆく。


 ジリジリと音を立てながら短い命を真っ当する煙草は、なんだか線香花火に似ている気がした。


 まだ、そんな季節ではないけれど。




 ベランダから見える光景は拍手をしたくなるような素晴らしい光景という訳ではない。


 知れている家賃のアパートの、ただの二階の一室から見える、なんてことない街並みの光景だ。




 何なら、ベランダから直ぐに見えるのは一方通行の二車線道路で、道路を挟んだ向かい側にはアパートがあるだけ。


 私が住んでいるアパートの両脇も、向かいのアパートの両脇も、それぞれ色や形が異なる別のアパートが並んでいる。


 今の私が住んでいるのは、そんな面白味のない街だ。




 近くにはコンビニやローカルチェーンのスーパーはあるけれど、本屋に行こうとしたら高速道路沿いにあるイオンに三〇分ほど歩いて行かなければいけない。


 家電量販店もそう。ただ生きる分には十分だが、人生に華を求めるには随分と寂しい街。


 でも、私はそんな寂しい街が好きだった。




 少し歩けば好きな服屋があるし、一時間五〇〇円で好きに楽器が弾けるスタジオもある。


 これだけ住む場所があるのに、朝も昼も夜も、人と会いすぎるという事は無い。


 そう、何といえばよいのか、多くの面でこの街は丁度良いのだ。 


 私にとって居心地が良いのだ。




「あ……」




 ぼうっと気持ちの良い時間に身を浸していると、いつの間にか煙草の火は根元近くにまで登ってきていた。


 指先には火の熱が僅かに伝っている。


 指が焼けてしまわないように気を遣いながら煙草を灰皿に押し付けると、音もなく火は消えた。


 立ち上る煙も途絶えた。




「うん。今日も頑張れそう」




 煙草の火を消した事で、煙は解け、その残り香もとうに散った。


 けれど、煙草を吸ったことで、私と世界の境界は曖昧に均されている。


 胸の内の疎外感は有耶無耶になっている。




 こうなったら大丈夫だ。私は今日も普通でいられる。


 みんなに、すれ違う人々に、街に溶け込んで、人として生きていられる。




 そう思うと、少しだけ気分が良くなった。


 何てことない日常だけれど、それが特別に感じられた。


 幼いころの台風の日みたいに、人生で初めて煙草を吸った日みたいに。 




 伸びをして、寝起きの体をほぐす。


 すると、お腹がぐぅと鳴った。




「今日は、久しぶりに朝マックを食べたい気分」




 お腹が鳴るという事は、私の体は正しく生きているという事だ。


 その事実に安堵して、私はベランダを後にした。




 軽くシャワーを浴びて、少しだけ剥がれてしまったマニキュアを塗り直し、黒のロングスカートとパーカーを身に着ける。


 そうして、クロックスを履いて準備を整えた私は、スマートフォンと財布を手に、鼻歌交じりで家を出た。








 さて、改めて言うが、私が目を覚ますのはだいたいが夕方だ。 


 それには様々な要因があるのだが、複雑に絡み合った単純な要因たちにより眠りに落ちる時間が遅くなり、結果として私は平均して夕方に目を覚ます。




 だからと言えば良いのか、私は時間の感覚が少しおかしくなってしまっている。


 具体的には、目を覚ました時間が朝で、眠くなる時間が夜という認識になってしまっている。






 つまり、何が言いたいのかと言うと、ウキウキでマクドナルドへ行った私を待っていたのは、ホットケーキやマフィンが並ぶ魅惑の朝マックメニューではなく、ビッグマックやダブルチーズバーガーが並ぶごく普通のメニュー表だったって事。

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