喫茶店



 ふと、喫茶店を見つけた。





 それは十二月も半ばのクリスマスを数日後に控えた日の事で、煙草を買いに行くコンビニを変えてから数日後の事だった。




 ここ数日は調子がよく虚無感に襲われる事もなかった為、私は理由もなく、出たくも無い筈の外に出て特に行く先も決めずに私の暮らす町を練り歩いた。まぁ、事のつまりは散歩をした。


 そして今日、私は何となくこっちだなと思う方向に進み続け、ふと喫茶店を見つけた。




 今時の女子高生や大学生が行くようなカフェでは無い。


 お爺ちゃんやお婆ちゃんが新聞片手に朝早くから集い、マスターと世間話をしながら珈琲を飲むような古臭い喫茶店だ。 




 偶然見つけたその喫茶店は建物全体が白い三角形になっていて、まるでピラミッドの死骸みたいだなと思った。


 だって、珊瑚は死んだら白くなるのだから、ピラミッドだって死後白くなったっておかしくは無い。


 何の植物の物か分からない蔦が建物全体を絡め取っているから、なおさらの事でそう感じる。




 まるで世間に忘れ去られてしまったみたいな様相をしているその喫茶店だが、私とは違って世の歯車に正しく噛み合っているように感じられる。


 何だか羨ましいなと思っていると、ふと胸の奥に言い得ぬ喪失感を覚えた。




 最近は姿を見なかった虚無だ。


 胸の内側にぽっかりと空いた、塞がる様子の無い大きな大きな穴だ。


 私はこのままここに居ては心が保たないと思い、急ぎ足でその場を去った。




 なのに、それから三日後には再び同じ場所で、蔦に絡まれた三角形の白い建物をぼうっと見ていた。理由は、本当に無い。


 煙草を買いに行ったついでにふらふらと歩いていると、偶然この場所に辿り着いて仕舞ったのだ。




 ただ、ピラミットの死骸みたいなその建物は以前と少しだけ様相が違っていた。


 以前来た時は窓から見える店内が暗く、人の気配など全くなかったのだけれど、今は窓の内側に明かりが灯っていて、ごそごそと動く人影がある。


 見れば、車がギリギリ通れないくらいの狭い道路に、半ばはみ出る様な形で電光看板が出されており、そこにはUCCの文字が絢爛と輝いていた。




 私はそんな喫茶店の外装を、道路を挟んだ向かい側から見ていて、何だか親近感が湧いた。


 退廃的な外装に灯る明かりの所為で、喫茶店が世界から浮いて見えたから。




 そんな些細な出来事があったからこそ、私はこの場所を気に入ってしまった。


 それ以降、私は煙草を買いに行くついでに喫茶店の外装を眺めに行く様になり、仕舞いには煙草を買いに行くという目的が無くとも、喫茶店の外装を眺めに行く為だけに外出する様に為った。




 胸の内側に空いた穴が何なのかは分からない。


 けれど、ピラミッドの死骸みたいな喫茶店の外装を眺めていると、少しだけ胸の内側に空いた穴が埋まった様な気がした。


 だから私は尚の事でその喫茶店に依存した。




 何度となく訪れれば、いつかは私の胸の内側に空いた穴が完全に塞がる日が来るかもしれない。


 そう思いながら、私は喫茶店に入店するわけでもなく、その場所に通い続けた。




 そして、年が明けて半月程が経った頃。


 いつもの様に狭い道路を挟んで、ピラミッドの死骸の様な外装の喫茶店を眺めていると、店内からぶっきらぼうな様子の五〇歳くらいの男性が出てきて、突然声をかけてきた。




「寒いだろう。珈琲を淹れてやるから中に来い」




 男性が空を見上げながら言うので、私もつられて空を見た。


 いつの間にか、照っていた太陽は黒い雲に隠されていて、暫くしないうちに雨が降りそうな様子だ。


 私は、これまで冷やかしの様な事を続けていたのだからと思い、男性に招かれるままに店内に入った。




「わぁ」




 口からこぼれ出たのは、感嘆の声だった。


 店内に入ってまず最初に目に入ったのは、木製の長いカウンターと、その向こう側に備え付けられた木製の棚、そして、棚にずらりと並べられた紙袋と瓶。


 紙袋の中身は見えないが、瓶の中身は黒っぽいような茶色っぽいような、恐らくは液体ではないものが詰められている。




 そんなこの喫茶店のキッチンが、店内に入って最初に目についたのは、きっと、金色の大きな取っ手が付いた扉を背に立った時に、それらがちょうど正面の位置にやってくるからではない。そんな、味気の無い理由ではない。




 そう。このキッチンが最初に目に付いたのは、それほどまでに、長いカウンターも木製の棚も棚に並べられた大量の紙袋も瓶も、全てが圧巻だったから。


 全てが圧巻で、それでいて何かの映画のワンシーンを観ているみたいに劇的で、絵になっていたから。


 だから、何よりも先に、私の目はその光景に惹きつけられた。




「いらっしゃい」




 私をこの店内に招いた男性の声に、私は自分が眼前の光景に見惚れていたと気づかされて、男性のぶっきらぼうな表情はそんな私の内心を見透かしているみたいで、初対面のこの人にお腹の奥の奥を掻き出されているような感じがして、私は戸惑った。




 戸惑って、カウンターに立つ男性から目線をそらして、店内を見回した。




 カウンターには一本足の椅子が五つ並び、その他には透明な四角いガラステーブルが三つと、ゲームができるテーブル筐体が二つあり、各テーブルには向かい合うように一人掛けのソファが配置されている。


 テーブルは綺麗に一直線を描くように入口側の窓際に置かれていて、ただそれだけの様相が店内のすべてだった。




 そう。本当にただそれだけ。


 それだけだったけれど、店内のどこを観ても、目が捉える光景のすべては映画のワンシーンの様に、小説の一説の様に、嫌なくらい、どうしてなのかは分からないが、絵になっていた。




「そんな所で突っ立ってないで、好きなところに座りな」




 見ての通り、店内はガラガラだと静かな調子で言う男性は、どこかから取り出したエプロンを身に着け、自らの腰の後ろに手をまわして紐を結んでいた。




「ぁ…………」




 返事でも返した方が良いのかと思って口を開いたけれど、吐き出そうとした言葉は引っ込めた。


 言葉も仕草も、相槌を打つタイミングを逃してしまったから。




 誰に対してもそう。会話というモノは本当に難しい。


 身振り手振りや表情などのリアクションを取るにも言葉を返すにも、正しいタイミングが必要な上に、返すリアクションにも言葉にも、明確な正解が存在するから。


 そして私には、その正解が何なのか分からないから。




 そう。私は対人関係において、正解が分からない。


 この話をすると、聞いた誰もが「皆そうだ」と無責任な言葉を返してくる。


 きっと、そうなのだろう。本当に、皆が皆、私と同じように対人関係の正解を知らないのだろう。


 けれど、私の感じているこの苦しさを、誰も理解してはくれない。


 理解してくれないからこそ、「皆そうだ」なんて無責任な言葉を返してくるのだ。




 私が欲しているのは、そんな諭すような言葉ではない。


 かといって、同情の言葉でもない。




 ただ、私は正解が欲しいだけ。対人関係の正解が。


 そして、私が感じている孤独を、疎外感を、苦しさを消してくれる正解が。




「珈琲はブラック派か?」




 悩んだ挙句、五つ並んだ椅子の右から二つ目に座った私に、少しの間を開けて男性が聞いてきた。




「いや……えっと」




 普段、私はミルクや砂糖をたっぷり入れたブレンディぐらいしか飲まない。


 けれど、男性の背後の棚を見る限り、この喫茶店は珈琲にかなり拘りを持っているようだった。


 そんなお店で、珈琲に拘りを持っている店主に対し、珈琲はミルクと砂糖をたっぷり入れないと飲めません、なんて言えない。




 どう返したものかと迷っていると、男性が小さく笑った。




「砂糖は角砂糖だけど、何個欲しい? 通常は一個だが、甘いものが好きな人は三個ぐらい入れる。あとミルクはたっぷり目の方が良かったか?」




 私の反応の意味は、男性からしたら分かりやすいものだったみたいだ。


 男性は私が珈琲をブラックでは飲まないのだとちゃんと悟っていて、その上で不機嫌になる訳でもなく接してくれた。




「えっと……じゃあ、砂糖は三個で、ミルクは多めでお願いします」




 迷いながらも答えると、男性は「分かった」と頷いて、棚に並べられた無数の瓶や紙袋を見回した。


 大きな手で顎をさすりながら、ゆっくりと考えるように。




 少しして、「よし」と何かを決めた様に頷くと、男性は無数に並んだ瓶や紙袋の中から、ひとつの紙袋を手に取り、こちらに向き直った。




 カウンターの高さや構造の都合上、私の側から男性が何をしているのかは全く分からない。


 だから、音を聞く。何も見えないから、聞こえる音に耳を澄ませる。




 ガサガサ。シャクシャク。ザーッ。ガチャガチャ。カチッ。キィキィ。ギコギコ。ギコギコギコギコギコギコギコギコ。カチャリ。サーッ。トポトポ。ポタポタ。ぴちょん。




 最後、いつの間にか沸かしていたお湯を何かに注いでいるのが見えた。


 音を聞く限り、豆を挽いてフィルターに粉を入れてお湯を削いだのだろうと思う。


 私は珈琲について詳しい訳では無いけれど、大体の流れは何となく想像出来た。




 今まで、家でお湯を沸かしてブレンディの粉珈琲を淹れる事はあった。けれど、実際に豆から挽くタイプの珈琲を飲むのは初めてだ。




 だというのに、いま私の時間を彩っていた、耳を通して伝って来た一連の音たちは、何故だかどれもが心地よかった。


 まだ珈琲自体は飲んでいないけれど、この音だけで、既にこの喫茶店が好きになっている自分が居た。 




「ほら」




 短い言葉を添えて、カップが差し出された。


 家で使っているマグカップよりも一回り小さい、丸っこいデザインのカップ。




 私が使っている一〇〇均のモノとは違って、薄くて蒼と金で彩られている、レトロな感じがするカップだ。


 同じような装飾の受け皿に乗せられているから、きっとカップと受け皿はセットのモノなのだろう。




 カップを手元に置き、改めて見る。


 あんなにちゃんと作ってもらったのが申し訳ないくらいに、カップの中に注がれた珈琲は珈琲らしい色をしていなかった。




 色で言うと、缶コーヒーの微糖の色よりは、白バラコーヒーの色に近い。


 きっと、私が甘めの方が好きというのを何となく察して、そうしてくれたのだろう。




 申し訳ない気持ちになりながらカップを眺めていると、男性は「飲んでみると良い。旨いぞ」と小さく笑った。


 その笑みは、気を使っているような笑みとかではなくて、なんというか、自信に満ちたような笑みだった。


 心の底から、自らの淹れたコーヒーを美味しいと思っていて、それを飲んでほしいと思っているような笑みだった。




 私は促されるままにカップを持ち上げ、口を付ける。




「あ……わぁ」




 無意識に、口から感嘆の声がこぼれ出た。




「あの…………これ、凄く……何ていうか、美味しいです」




「だろう?」




 男性は、目を細めて歯を見せてニッと笑って見せた。嬉しそうに、自慢げに。


 私は男性の言葉に頷き、再び珈琲を口に含んだ。やっぱり、美味しい。




 いつも珈琲を飲むとき、私は牛乳をたっぷり入れて飲む。


 砂糖はその時々の気分だけれど、苦い珈琲は飲めないから、だいたい多めに入れる。


 けれど、そうなると私が飲んでいるのは珈琲ではなくて珈琲牛乳で、ミルクを入れた珈琲というよりは、珈琲の風味がする牛乳でしかないわけで。




 でも、男性に入れてもらって飲んだ珈琲は、見た目こそ珈琲牛乳でしかなかったけれど、びっくりすることに、珈琲の風味がする牛乳ではなくて、牛乳の風味がする珈琲の味をしていた。


 ちゃんと珈琲の味がして、珈琲の香りがして、飲みやすくて、凄く美味しい。




「こんなに美味しいの……初めて飲みました」




 心の底から、そんな言葉が零れ出た。男性は「嬉しいことを言ってくれる」と笑った。




「でも……凄く美味しいけれど、こんなにちゃんとした珈琲なのに、私……こんな珈琲牛乳みたいな飲み方をしちゃって」




 申し訳なかった。けれど、謝ろうとした私の言葉を遮って、男性は「ハハハッ」と声を上げて笑った。


 知り合って間もないけれど、男性の初めて見る表情だった。




「珈琲牛乳も、立派な珈琲の飲み方だろう」




 その言葉に、私はカップと男性を交互に見た。


 素人な私には、男性は珈琲を淹れる事に対して、拘りを持っているように見えたから。


 そんな男性の口から、珈琲牛乳も立派な珈琲の飲み方だなんて言葉がスラっと出てくるとは思えなかったから。




 だから私は、びっくりしてカップの中の珈琲と男性の顔を交互に見た。 




「なんだってそうだ。珈琲もそうだし、ウィスキーもそうだ。なんだって、楽しみ方は人それぞれだ。個人個人に楽しみ方の正解はあるのだろうが、それは他人に強要するものじゃあない。むしろ、不味いと思いながら珈琲を飲む方が、豆にも豆を作ってくれた農家にも失礼ってもんだろ」




 だから、珈琲牛乳もちゃんとした飲み方なのだと、男性は言った。


 私が飲みたい飲み方で飲むのが良いと、男性は言った。




「大事なのは、自分なりの楽しみ方を見つけて自分なりに楽しむことだ。その価値観が自分と他人で異なっていても、否定するべきではない。互いに、そういう楽しみ方もあるよなって笑いあった方が、ずっと楽だろう。正解だの不正解だの、そんなものは人が勝手に感じているモノなんだからな」




「……」




 男性は申し訳なさそうにする私を庇っている……という様子ではなかった。


 ただ本当に、思ったままの事を口にしたようだった。




「ハハハ。初対面の女の子に説教臭く語っちゃったな。こんな気持ち悪い大人になりたくは無かったんだが、人間、知らず知らずに年を取るもんだ」




 言うと、男性は「ごめんな」と申し訳なさそうに謝った。


 私はそれに「いえ……そんな…………」と曖昧な相槌を返して、再びカップに口を付ける。




 やっぱり、男性が入れてくれたこの珈琲は、白バラコーヒーよりも真っ白な色をしているのに、しっかりと強く珈琲の味がして、珈琲の香りがして、でも私が何の抵抗もなく飲めるほど飲みやすくて、ありきたりな言葉を使えば、美味しかった。






 それから私と男性は、無言の時間を過ごした。




 一人の客と店主として、互いに干渉することなく、男性が点けたラジオから流れてくる静かな調子の外国語の歌を聞きながら、私は穏やかな時間に身を委ねた。




 カップ一杯の珈琲を飲み干した頃、カランコロンと音を立てて店の扉が開いた。


 無意識に音のした方を振り返ると、スーツ姿の男性が傘を畳みながら店内に入ってきた所だった。




「お世話になっておりますぅ」




 語尾が上がる特徴的な話し方で、スーツ姿の男性は挨拶をする。


 私を店内に招き入れた男性は、「はいはい」と少しだけ不機嫌そうに返事をする。


 何だか私がこの場に居続けるのが良くないような気がして、珈琲を飲み終わったのを言い訳に、立ち上がった。




「あの……ご馳走様です」




 会計をお願いしようと伝票を探してキョロキョロしていると、男性は「お代は要らない。俺が無理やり連れてきて、勝手に珈琲を作って飲ませたんだからな」と私の方を見ずに言った。




「でも……それは流石に…………」




「珈琲は旨かったか?」




 申し訳ないと言おうとする私の言葉を遮り、男性は聞いてきた。


 問いの意図が分からなかったけれど、私は「はい」と頷いた。事実、美味しかったから。




「そうか、じゃあまた飲みに来ると良い。今日のは試しに仕入れた豆だからな、値段が付けられない。次にお嬢ちゃんが来る時までには値段を決めておく」




 そう言うと、男性は私との会話を切り上げて、スーツの男性の方へと向かって行く。


 私は男性へと小さく頭を下げて、礼を言った。


 男性はこちらを向くことなく片手を持ち上げて見せて、スーツ姿の男性と話を始める。




 扉に手をかけようとして、今一度だけ店内を見回す。


 目に映る光景は、やっぱり小説の一説のようで、映画のワンシーンのようで、とても心地が良かった。




 鼻にはまだ、珈琲の香りが残っている。


 また来ようと、そう思った。




 今度はちゃんとした客として、また来ようと。










 それから何度かこの喫茶店に通ったが、ある日、二週間ぶりに喫茶店にやってくると店内に明かりが灯っていなかった。




 定休日でも無いのにおかしいなと思って扉に近寄ってみると、『出店者募集中』の文字が何の工夫もされていない簡素な姿でそこに貼り付けられていた。






 私が緩やかに過ぎる時間に身を委ねている間も、世界は廻ってゆくのだ。


 私の歩幅よりもずっとずっと大きな歩幅で時間は進んで行って、私をどんどん置き去りにして行くのだ。






 また暫く経った頃、街でふと見かけた雑貨屋で、いつか見たカップとよく似た見た目のカップを見かけた。


 普段使っている一〇〇均のマグカップよりも一回り小さい、丸っこいデザインのカップだ。


 いつか見たカップほど薄くは無いけれど、蒼と金で彩られた、受け皿とセットになっているレトロな雰囲気のカップだった。




 気になって値段を見たが、私のようなバイトもしていない人間が気軽に買えるような値段では無かった。






 そうそう。そういえば、カップを乗せるあの受け皿、後になって調べたらソーサーという名称らしい。


 まぁ、だからどうという話でも無いけれど。

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