第22話 ザッハトルテとカフカの恋


 帰国便の出発時刻が近づいている。ホテルに戻り、チェックアウトを済ませ車に荷物を載せた処で、ダヌシュカさんが右手首の時計を見た。

「まだ時間がありますね」

 そう呟いたあと、「カフェでご馳走しましょう」とつづけた。生真面目な表情は飽く迄緩まない。


 彼女が案内してくれたのはカフェ・ザッハー。世界に名高いザッハトルテの本家だ。十九世紀、駆け出しの料理人だったザッハー氏が考案したチョコレートケーキは世界中の好評を博して、後には息子が開業したホテルの併設カフェで提供されるようになった。その後レシピが流出し、今や日本で食することも可能だが、やはりザッハーの店で味わってこその「ザッハーのトルテ」だろう。

 チョコレートケーキに、アプリコットのジャムがアクセント。たださえ濃厚なチョコレートの上にさらに、封蝋のようなまるいチョコレートの塊が置かれて、その中心には「ザッハー」の文字が刻まれる。傍らにはたもホイップクリームだ。

 生クリームならコーヒーにもたっぷり載っている。日本ではウィンナーコーヒーと呼ばれることも多い、アインシュペンナーだ。ホイップクリームとウィーンとは相即不離、切っても切れない仲らしい。

 左右をクリームに囲まれ窮地に陥った私を置きざりにして、ダヌシュカさんが一片ひとかけのザッハトルテを口に運ぶ。紅い唇の手前で銀のフォークが千々にひかる。

 その時彼女が目を細めた。ケーキをみ下す須臾しゅゆの間だけ。直ぐまたあの隙のない表情に戻したがそれは紛れもなく、一瞬の気の緩みが見せた彼女の至福の表情だった。

 鋼鉄の鎧の隙間から初めて生身のダヌシュカさんを覗いたようで、覚えず赤面してしまった。スイーツは私に罰を与えるとともに、時には罪なことをする。


 カフカならそんなきっかけで恋に落ちたかもしれない。恋多き男、カフカの艶聞の最たるものは、ウィーンが舞台だった。

 お相手は、カフカの著作をチェコ語に翻訳したミレナ・イェセンスカー。この仕事を契機に急速に親密になった二人の恋は、熱烈な手紙の往還を経てえ上がり、ついにウィーンで幸福な四日間を過ごす。彼女が人妻であったことも、カフカに別の婚約者がいたことも、彼を制するには力足りなかったようだ。だが二人の理性を奪ったこの恋も、病的に孤独を求めるカフカにあっては、長く続けることは叶わなかった。カフカの最晩年の伴侶となり、ウィーン郊外のサナトリウムで彼の最期を看取ったのはまた別の女性である。(多くの女性を虜にする“魔性の男”とでも呼びたくなるような魅力が彼にはあったらしい)

 ミレナも、ナチスのホロコーストを生き延びることはできなかった。ドイツ降伏の一年前に、ドイツ東部の強制収容所で病気のために亡くなったと記録されている。


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