第19話 仕事2


 アルコールを抜くためもあって、夜の街を歩く。旅行客が多いからか、ウィーンの夜は随分賑やかで華やかだ。ライトアップされた国立歌劇場が夢幻のように浮かび上がる。公演があるのだろう、着飾った男女が次々吸い込まれていくのを見るうちモーツァルトのいた時代に迷い込んだかと錯覚してしまいそうだ。ふわりと現実の足場をくすような心地がする。このあとの仕事も夢のような嘘であれば良かったのにと思うが、残念ながらそこまで都合よく妄想はできない。


「奴は、反省の色を微塵も見せなかった」と依頼人は云ったのだそうだ。

 あまつさえ、判決文が読み進められていたとき背後うしろへ目を遣り、せせら笑ったのだと云う。怒号と慟哭にどよめく法廷で、殺された女の夫は復讐を誓った。

 殺人者にも一分の理はあるのかも知れぬ。だが自らの奪った生を哂う者に、自らの生を惜しむ資格を私は認めない。現代の法と倫理が何と云おうとも。彼の死を被害者遺族が切に望み、それを成就させる力が私にあるのなら、力の行使は私の使命だ。仮令たとえ神と人から忌まれる行為であろうとも。いつか酬いは受けよう。それを私の一分の理として。

 郊外へ向かう車の中で、ダヌシュカさんからこの話を聞いた。私は依頼人とその亡き令閨の魂の平安を祈りながら、睡眠薬を喉へ抛り込んだ。


 やがて私はベッドの上で目覚めた。ベッドが四台よっつの、くらい部屋だ。初夏と云うのに部屋の中はうすら寒い。川の水の音が遠く聞こえる。今私は、標的ターゲットの殺人者のからだの中にいる。

 躯への馴染み具合を確かめがてら、手探りでベッドの下からつつみを一つ拾い上げた。それは今日午后、彼の母から届けられた差し入れの包――ということになっている。何故私が知っているかと云うと、先刻ダヌシュカさんから聞かされていたからだ。

 包を開くと中から出てきたのは一冊の聖書。長年絶縁し一度も面会に来たことのない母から贈られた聖なる書をも、彼は冷笑したのだろうか。考えても詮ないことだと自分で分かっている。何故ならこの書は、彼の母からの贈り物などではないからだ。おそらく彼女が、息子に何かを贈ることはこの先もないだろう。


 ようようと星明りに目が慣れてくるのを待ち、私はページを繰ってヨハネの黙示録のくだりを探す。其処に辿り着くと最初のページを破いて口にふくんだ。けるような痛みが舌を衝き、眩暈がするのを無理にみ下す。激痛が喉を下っていく。黙示録に塗られていたのはアルカロイド系の毒薬だ。即効性で、激甚な苦痛を伴う。天の怒りが世界を割り、悔い改めぬ者たちの上にわざわいと破滅の嵐が吹き荒れる様子さまにも似て。

 ヨハネの幻視は、人の死も苦悶も嗤ったこの男に伝わっただろうか。


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