第17話 ウィーン


 やがて列車はドナウ川を跨いで、ウィーン駅に到着した。観光の中心エリアからは外れに位置するせいか街の景色は普通に近代都市で、ハプスブルク帝国の旧都を踏んだ感動はまだお預けだ。

 国境を越えた実感も乏しい。シェンゲン協定のおかげで入出国手続きはなく、東洋人である私は容姿や服装で両国人を弁別し得ない。それに百年前迄遡れば両国は共にハプスブルク帝国の領土であり、人の往来は繁多であったのだ。習俗と血が幾分か混じり合ったとしても不思議はあるまい。しかながら通貨と言語をことにするので、たしかに異なる国家に来たのだと判る。

 オーストリアの公用語はドイツ語だ。実際にはドイツとオーストリアとで発音に違いがあるらしいが、それを云えば日本でも地方により方言があるので、多少の差異には目を瞑りドイツ語として差し支えないだろう。国民も大多数がドイツ系だ。そもそもオーストリアとは「東の国」の意で、元々はドイツの諸侯国の一つだった。それが現在ドイツ東端の一州とならず一国を成しているのは、此の地にったハプスブルク家がドイツを含む神聖ローマ帝国の盟主として長く君臨したためだ。

 ナポレオン戦争後の、近代ドイツが統一国家を形成する過程とは即ち、プロイセン王家がハプスブルク家からドイツ支配権を奪取する権力闘争でもあった。ドイツ帝国の成立を、脱オーストリアの完成と見立てることも可能だろう。


 エージェントの用意していた車でホテルへ向かい、荷物を預けた後はまた一人で街へ出る。ダヌシュカさんは打合せがあるそうだ。

「私はいいんです、ウィーンはしょっちゅう来てますから。それに、プラハの方が美しいですしね」

 ました顔で云うと、私を送り出してくれた。(プラハの方が上とするダヌシュカさんの判定は云う迄もなく個人的見解であることを、念の為に附言しておく。)



 先ずは市内のシュテファン大聖堂へ。ゴシックの骨ばった塔が美しい、ウィーン中心部のランドマークだ。なかに入ると、やはり武骨な柱と、幾層にも重なる穹窿がいかめしい。堂内は何處までも広く、ステンドグラスは遥か先だ。引き比べれば、自身の如何に微小であることか。左右の窓から射す午后の光が大理石の床を暖めている。救いの手を差し伸べるように。

 余韻に浸りながら大聖堂から出てくると、周囲はごく近代的なビルと市民の日常生活が取り囲んで、胸倉を掴まれ過去から現代に引きずり戻されたような心地がする。だがこれはウィーンに限った話ではないのだろう。現代的なショッピングを楽しむ人々のあいだを歩いて国立図書館へと向かう。

 ホーフブルク王宮の一角に立つ国立図書館は、その外観も内観も宮殿のようだ。映画のセットのなかにいるかのようで、まるで図書館とは思えない。此処と云い、チェコの図書館と云い、欧州は思わぬところに転がる美が、それが如何に贅沢であるか自覚せぬまま無雑作に置かれていて、旅人に息をつかせるいとまを与えない。


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