第13話 カフカの墓


 二十分ほど地下鉄に揺られて向かったのは、新ユダヤ人墓地だ。市中心部から僅かばかり離れただけなのに此処まで来ると、観光とは縁のない落ち着いた場所になっている。死者たちの眠りが邪魔されることもなさそうだ。

 小さな門は修理中のようで、作業者が二人、煙草を燻らせている。夏の午後、抜き身の刀のように陽は照るが、乾燥しているためか汗は少ない。作業者たちの横をすり抜けなかへ入ると、其処には死者の眠りに相応しく森閑とした空間が広がっていた。朝訪れた旧墓地と違い比較的新しい墓標が、方形に区切られたそれぞれの領域に整然と収まっている。入って直ぐ右に折れ、三分も歩けば、其処にカフカの墓があった。途中案内の表示があるため道に迷いはしない。他の墓の多くが黒っぽいのに比べて、カフカの墓は白みが勝っている。あとから建て替えられた所為せいなのか、初めからうなっていたのかは分からない。

 灰色の墓標には三つの名が刻まれている。一番上にカフカ。その下に父、次いで、母。その配置は亡くなった順を示すものだ。

 カフカと父との確執は有名で、それは一面に於いて彼が書くための原動力ともなったと思えるが、それでも彼は父を愛していたし、厳格な家長であり経営者でもあった父の、一人息子への期待と愛も本物だった。先に逝った息子の名を墓標に刻んだ両親の、悲しみと絶望はどれほど深かったろう。


 早世したカフカには妹が三人あって、いずれも両親より先に亡くなることはなかった。だがそれを単純に言祝ことほいで良いのか否か、私には答えが出せない。

 妹たちの名は、墓標とは別にカフカ家の墓の敷地に置かれた、一枚のプレートに記されている。からだは此処にはない。生年月日だけが記されているのは、亡くなった日が不明であるからだ。代わりに「42年から43年にかけて、アウシュビッツで殺された」との注記が刻まれている。

 前世紀の人類の愚行はいまだその痕跡を至る処に残して、思いもよらぬ機会に我々の心に鞭打って已まない。願わくはその鞭は、我々を立ちすくませるのではなく、同じ過ちを繰り返さない未来へ一歩を踏み出せと叱咤する、そのためにこそふるわれんことを。


 墓標の前には献花が疎らに供えられている。朽ちかけた花々に混じって、ペンがあちこちに置かれているのは、痩躯と魂魄とを削りながら書き続けた作家にの世でもどうぞ思う存分書いて、との祈りなのだろうか。或いは、彼の文才にあやかりたいとのねがいの込められた供物ぐもつなのかも知れない。

 門へ向かう途中、不図ふと目を遣った墓石の一つに小鴉が留まっていた。「カフカ」はチェコ語で「鴉」の意で、就中なかんずくチェコでよく見られる小鴉を指すらしい。首のまわりが白く、日本の鴉より一回り小さいチェコの小鴉は、私がっと見るのも意に介さず小首を左右に巡らしたあと、軽やかに飛び去った。その束の間の来臨は、私の墓参への返礼のように思えた。


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