三日目 水曜日

第11話 ユダヤ人街


 仕事の翌朝、目覚めは最悪だ。到底とても観光で浮かれる気分ではないが、そうかと云ってホテルに籠っていれば罪が償えると云うわけでもない。今日は一日、旧ユダヤ人街の痕跡を訪ねようと決めていた。それはカフカの足跡とも重なる旅だ。


 今朝も街へ出て、カフェで朝食にする。但し、注文オーダーするのはスイーツだ。罪深い我が身に罰を与えるための。やがて運ばれてきたのはメドヴニーク。蜂蜜入りの生地とキャラメルクリームを何層にも重ねた、チェコ定番のケーキだ。世界一のビール党大国でありながら、チェコは甘党天国でもあるらしい。罪にまみれきった私は今、その洗礼を受けるに最も相応しい。

 ナイフを入れると、生地はスポンジと云うよりクッキーと云いたくなる手応え。割れた生地の間から濃厚なキャラメルクリームがはみ出て、甘い香りが鼻を抜けていく。細かく砕かれた胡桃クルミが周りにまぶされてあるのが、束の間私をっとさせてくれた。



 さきにも触れた通り、旧市街とは即ち曾てのユダヤ人居住区と言い換え得るほど、此処にはユダヤ人の痕跡が多くのこる。プラハには中世以来、多数のユダヤ人が迫害を受けつつも住みついていた。キリスト教徒は彼らの財力と金融活動を白眼視すると同時に必要としていたし、さらに進めて王侯貴族たちにとって云えばそれは、魅力的でもあったのだ。

 今は此処に住むユダヤ人は激減し、ユダヤ人街は消滅した。第二次大戦に先駆けて、ナチスドイツがチェコを併合したことが、彼らの運命を暗転させたのだ。ナチス禍が去って後、社会主義国として再生したチェコスロヴァキアも、ユダヤ人たちの安住の地とはならなかった。


 シナゴーグを始めとするユダヤ所縁ゆかりの施設が特に集中しているのは、観光客でいつも殷賑にぎわう旧市民広場周辺からすこし北側の一帯だ。高級ブランドのブティックがならぶ通りを過ぎると、スペインシナゴーグが見えてきた。このシナゴーグでは現在、プラハに於けるユダヤの文化財が遺るだけでなく、ナチスドイツによって連行されたユダヤ人たちの遺物も展示され、彼らの物語を垣間見ることが出来る。

 昨日までカトリックの教会を多数巡ったあとでシナゴーグに入ると、その違いに感銘を受けずにはいられない。偶像崇拝を禁じるというおしえはキリスト教も継承しているとは云え、カトリックの教会ではイエスや聖母マリアをはじめ、殉教者、聖人、教皇などの絵や彫刻で荘厳されているのに対し、ユダヤのシナゴーグでは偶像崇拝禁止は固く守られ、堂内に一切の具象芸術は見当たらない。代わりに壁やドームを彩るのは青、赤、金などのきらびやかな幾何学文様だ。この点、イスラム寺院にも通じるものがある。中央の祭壇に勿論偶像らしきものはなく、抽象的な図と文字を縫い取った布と、扉があるのみだ。

 我々の目に慣れた絵画・彫刻はないとは云え、幾何学文様に彩られた壁や天井、そして建築物の美しさには溜め息が零れる。美を希求する人の欲望までは、神も禁ずることは出来ないらしい。その美しい内装は、確かにこの街には嘗て豊かなユダヤ人たちがいたのだと教えてくれる。

 つづいて、すこし離れた旧ユダヤ人墓地へと向かった。狭い敷地に、空から落ちてきた墓石が各自てんでに地に突き刺さったかのように無数の墓石が乱立している。サイズは大小様々だ。よほどふるいのか、文字が摩滅し読めないものも多い。今となっては恐らく弔問する縁者もいなくなった墓地では、空いた地にささやかに咲く紫の野花が献花となり、観光客たちのあしおとが泉下の魂の孤独を慰めている。


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