第9話 王の道と天文時計


 夕食を堪能してそのまま眠りに就くことが許されるならば幸せなのだが、この後には仕事が待っている。権利あるところ、必ず義務もあるのだ。

 義務から逃げるつもりは無論ない。だが仕事の時間までは間があり、夏の空は日がまだ高い。ささやかな街歩きは許されてもかろうとめつけ、カレル橋へ向かって丘の坂道を下っていった。風が吹くと涼が肌に心地いい。旅行客たちは愈々いよいよ道に溢れ、十九時を過ぎたぐらいではまだ観光を切り上げる気はないようだ。カレル橋の左右に置かれた救世主や聖母、幾人もの聖人たちの像の前に旅行者たちはたむろし、思い思いに触れたり写真を撮ったりしている。川の上には今日も観光ボート。今夜このあと人の道に外れた仕事をする私を、磔刑のキリストはどのような思いで十字架から見下ろしているだろうか。


 橋を渡ってすぐ、左手にクレメンティヌムの広大な敷地がある。修道院として建てられ、王室保護のもとおおきく寺域を拡げたクレメンティヌムには、現在は国立図書館が置かれてあって、ストラホフ修道院の図書室とはまた異なる美しさを誇っている。このクレメンティヌムを横に見ながら進む道が「王の道」だ。王が通るにしてはややこじんまりして、しかも真っ直ぐな一本道ではなくところどころで道を折れながら進まねばならない。左右の建物は中世風であったりメルヘンに迷い込んだかと見紛う愛らしい建物であったり。やがて見えてきた旧市庁舎の前に人だかりができていると思ったら、ちょうど天文時計の時報の直前だった。

 見上げると同時にからくり時計が動き出した。骸骨が砂時計を引っ繰り返し、時の鐘を鳴らして、生が有限であり毎日残り日数を磨り減らしていっているのだと人々に思い出させる。

 私も思い出す――今夜の標的ターゲットに与えられた生の残り時間も、もう僅かなのだと。そして私を含めて誰もが、目には見えなくとも確実に毎秒毎分、生の旅の終着点へ近づいていっている。

 私の思いを他所よそに、ギャラリーは大喜びだ。からくりが動き出すと同時にあちこちで歓声が上がり、最後の鐘が鳴りわると拍手が通りを埋め尽くした。大喝采の中、私は独り今夜の仕事を想った。



 旧市民広場を抜け、狭い道を火薬塔まで辿り着けば、「王の道」は其処で終わる。逆に辿ったから終点と表現したが、本来は此方こちらがスタート地点だ。

 黒々と聳える火薬塔はまるで「王の道」の老いたる門番のようだ。実際塔の下部は大きくあぎとを開いて、車も次々その口を潜り「王の道」に入っていく。音を立てて後ろから追ってきた馬車が、私たちを抜かしていった。馬車に乗っている夫婦は観光客とおぼしい。カフカが通学したのもこの道で、車と馬車とに追い抜かされることもあったろう。

 んな取り留めもないことをふと考えてしまうのはきっと、この街では千年分の歴史の残り香が、渾然一体となって漂っているからだ。


 塔に登り、頂上から周りを見まわすと、あらためてこの街が数多の塔や伽藍を蔵していることに気づかされる。オレンジの屋根がつらなる先にティン教会の塔。はるか川向うには今日行った、プラハ城の塔が聳える。直ぐ右隣に建つのはアールヌーボー様式の市民会館。此処には音楽ホールが在って、毎夜コンサートが開かれているらしい。


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