第3話 旧市民広場


 途中で川沿いから外れ、旧市民広場へ向かう。其処ではプラハを観光するなら誰もが訪れる必見のパフォーマンスが一時間おきに演じられている。演者は旧市庁舎の正面に掲げられた天文時計。六百年もの歴史を誇る上下二段のからくり時計が、今も現役で時報を鳴らし、その度仕込まれた人形が動くのだ。


 だが私は多くの観光客で溢れかえる天文時計はスルーし、その反対側のキンスキー宮へと真っ直ぐ向かった。宮殿と云う名から受ける想像に反して、建物は重厚ではあるが豪奢ではない。芸術的価値は皆無とは云わないまでも、観光客を惹きつける力は弱そうだ。

 此処には嘗て、ドイツ語系のギムナジウムが入っていた。少年時のカフカが通っていたギムナジウムだ。また後年カフカが長じた後のことではあるが、彼の父親が経営するカフカ商会がその一角に事務所を構えたこともある。

 今はギムナジウムはなく、無論カフカ商会も此の世から消滅している。その事情にあたかも二十世紀のチェコ、いては欧州の激動の一端を垣間見る思いがする。

 カフカの両親はユダヤ人だった。長らくプラハに根を下ろし事業を営みながら、彼らは完全なチェコ人には成りきらず、周囲のチェコ人にとっても彼らは隣人ではあっても同胞ではなかった。そして中世以来第二次大戦の直前まで、カフカの一族のようなユダヤ人が、プラハには数万人もいたのである。

 第一次大戦までのチェコはオーストリア・ハンガリー二重帝国に属し、被支配者層であるチェコ人はチェコ語を話す一方、支配者層・エリート層はドイツ語を話した。であれば、少年カフカが何故ドイツ語のギムナジウムに通っていたのか、容易に理解できよう。カフカ商会の跡継ぎとなるべき我が子フランツに、支配者側の言語での教育を施すのは、父ヘルマン・カフカにとって当然の選択だったのだ。カフカの周囲には、同様の事情の仲間たちが多数いた。その出自の影響はカフカの人生と文学とに色濃い。


 今の店子たなこである数軒のレストランが賑わっているキンスキー宮の通路を歩くと往時の幻が目に泛んだ。通路の先には中庭があり、その先はまた別の通りへとつながっている。これはプラハのふるい建物によくある構造で、住民ならずとも自由に建物の中を通り抜け、一つ向こうの路地へとうつっていく。まるで迷宮のようだ。

 そんな建物を通り抜けて散歩するのが、カフカも好きだった。


 キンスキー宮とティン教会の間の狭い小道から旧市民広場へ戻る。ゴシックの、槍の穂のように高く天を衝く二つの黒い尖塔が鮮烈な印象のティン教会も、広場を彩るモニュメントだ。嘗てフス派の本拠地であったが、その後カトリックに改宗した。

 そのフスの像が、キンスキー宮の前に鎮座している。早過ぎた宗教改革者、ヤン・フスを記念する像だ。彼はローマ教会の腐敗を批判し、聖書に基づく信仰に戻るべしと唱えた。彼のおしえはボヘミアの人々の心を捉えたが、その動きを危険視したローマ教会による一方的な審問で異端とされ、弁明の機会を与えられることなく火刑に処せられた。一四一五年、ルターによる宗教改革より百年前のことである。

 彼の火刑の後フス戦争が始まり、十数年にわたりボヘミアの地に惨禍をもたらすのだが、実はフス自身はローマ教会を否定したのではなく、その浄化を目指したものらしい。一人の穏健な提言者を圧殺することにより却って過激な反抗者を無数に産んでしまうとは嗤うべき皮肉だ。だが同様の愚行はあまねく世界で見られ、つまりはこれは、人たる者に共通の呪いなのだろう。


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