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 先にホテルに行き待つことは抵抗があり、約束の時間まで千奈美が付き合ってくれた。


 旦那様が出張で、今夜は実家にお泊まりする千奈美が、私が不倫していることを知れば、同じ妻の立場としてきっと軽蔑するに違いない。


 親友に恋人の話すら出来ない私。それでも幸せそうな笑顔を作る。


 滑稽だよね。


「華、今度、恋人と家に遊びにおいでよ」


「ありがとう。いつか恋人が出来たらね」


 千奈美と渋谷で別れ、品川のドゥ・ロンサールホテルに向かう。ホテルのロビーから店長に電話し、ルームナンバーを教えてもらった。


 エレベーターに乗り七階で降りた。今ならまだ引き返すことは出来る。でも私は引き返さなかった。


 寂しくて堪らなかった。

 この寂しさを埋めたくて、誰かの腕の中で眠りたかった。


 ◇


 部屋のチャイムを鳴らすと、ドアが開いた。


「逢いたかったよ」


「店長……」


 店長に抱きすくめられ唇を奪われ、罪の意識が薄れていく。


 ――いつからだろう。


 『結婚』という名の契約に興味がなくなったのは……。


 それは……。

 あなたに抱かれたから?


 甘い蜜を求めるように、口内を動くあなたの舌に翻弄されながら、今夜もあなたに溺れる。


 軋むベッド……。

 私の体に触れるあなたの逞しい手。


 左手の薬指には、私ではない女性のイニシャルが彫られた、プラチナのリング。


「僕以外の男に抱かれてもいいんだよ。束縛はしない」


 妻は束縛するのに。

 私は自由なんだね。


 あなたにとって……。

 欲しいのは、私のカラダだけ?


 この恋に終着駅はないとわかっているのに。


 それでも私は、今夜もあなたに抱かれた。

 

『愛している』という言葉はいらない。


 でも『他の男に抱かれるな』と、言って欲しかった。私が他の男に抱かれても、店長の心は痛まないんだ。


「僕は妻子がいる身だ。だから君を束縛することは出来ない」


 私の思考能力を奪い、ベッドの上で体を征服し、返答出来ない私に唇を重ねた。


 葉子や母の言葉が、行為の最中も鼓膜に過る。薄らぐ意識の中で、ふと、社長の顔が浮かんだ。


 乱れた呼吸を整えながら、社長を裏切ってしまったような罪悪感に苛まれた。


 店長に抱かれているのに、私は社長のことを考えている。私……どうかしてるね。


「華ちゃん、どうしたの? よくなかったかな? 歳のせいか、最近、体力がなくてごめん」


 店長の言葉がとてもデリカシーに欠けてる気がして、体は密着しているのに心が離れていくのがわかった。


「今夜、奥さんは?」


「妻には出張だと伝えてある。今夜は華ちゃんと一緒に過ごしたくてね」


「私と……」


 一方通行の恋は……。

 やっぱり辛いよ。


「店長……浮気ですか?」


「浮気? 僕と華ちゃんは特別な関係だよ。結婚に縛られたりしない、特別な関係」


 特別といえば聞こえはいい。

 以前の私なら、きっとその一言で許してしまう。


 でも今は、特別という言葉が不倫という罪悪感を包む薄いオブラートのような気がした。


 どんなに言葉を変えても、私は愛人にもなれない都合のいい女だ。


「シャワー使って来ます」


「うん」


 店長はベッドに横たわり瞼を閉じた。きっと仕事の疲れもたまっているのだろう。


 私は浴室に入りシャワーを浴びて、急いで身支度を整え、店長に気づかれないようにホテルの部屋を抜け出した。


 外泊はしない。

 もうこれ以上、交際を継続することもしない。


 なぜなら……。

 私の心も店長の心も、冷たいベッドの上にはないから……。

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