71

「新居決まったのですか? ご主人様が寂しがられるでしょうね」


「あの社長が? まさか。あとで宿泊費を徴収される可能性はあるけど、寂しがるわけがない」


 あの社長なら、恩は体で返せとか言いそうだ。


「だし巻き玉子でも作ろうかな」


「はい」


「お味噌汁も私が作っていい?」


「はい」


 あんずさんと二人で仲良く料理をする。あんずさんはかなり個性的な女性だけど、仕事に徹していて、でしゃばらない性格だから、一緒にいてとても楽だ。


 それに料理が美味しい。

 一日食べないと、胃袋があんずさんの味を恋しがる。


 社長があんずさんを採用した理由が、なんとなく理解出来る。


 朝食をダイニングテーブルに配膳し、社長の起床を待つ。


 不思議なんだ。

 あの社長の無愛想で冷たい顔を見ないと、何故か朝からスッキリしない。


 社長のマンションに居候し、店長とも個人的な付き合いはしていない。店長と密会すると、社長に気付かれそうで怖いから。


「ご主人様、おはようございます」


「社長おはようございます」


「おはよう。二日間有給休暇を取ったらしいな」


「はい。社長のご厚意に甘えてきましたが、新居を決めてくるつもりです」


「引っ越すのか」


「はい」


 社長は味噌汁に口をつける。ちょっと不思議そうな顔をし、もう一口含む。


「あんず、味噌を変えたのか? いつもと少し味が違うな」


 あんずさんは私をチラッと見て、笑みを浮かべた。


「お口に合いませんか?」


「いや、うまいよ」


 社長の箸は、だし巻き玉子に伸びる。

 一口食べて、再び不思議そうな顔をした。


「あんず、だしを変えたのか?」


「はい、多少。如何ですか?」


「いつものだし巻き玉子も美味いが、これも鰹節の風味がよくきいていて、甘すぎず美味いな」


「そうですか。ご主人様のお口に合いますなら、作り方を教わります」


「教わる? 誰に……?」


 あんずさんが私を見つめて、ニコッと笑った。その視線に、社長が眉間にシワを寄せた。


「まさか、この料理は……君が」


「はい、褒めていただきありがとうございました」


「誰も褒めていない。悪くないと言ったまで。特別美味いと言ったわけではない」


 そうだよね。

 どうせ、私なんか。

 家事も仕事も中途半端で女としても見られていないんだから。


 あんずさんが私達の会話を聞き、クスリと笑う。


「あんず、味噌汁お代わり」


「はい、ご主人様」


 文句を言いながら、汁椀を差し出す社長にちょっと嬉しかった。


 社長とあんずさんと私。

 不思議な関係だけど、当初のように居心地は悪くない。


 食事のあと珈琲を飲みながら、社長が私を見つめた。


「ここよりいい物件がなければ、別に急いで引っ越さなくてもいい」


 ここよりいい物件なんてあるはずがない。だってここは庶民の私にとって別世界なんだから。


「ありがとうございます。でもこれ以上お世話になるわけにはいきません。それに、これ以上お世話になると、必ず誰かに知られてしまうでしょう。良からぬ詮索をされ、社長にご迷惑を掛けてしまいます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る