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「新居決まったのですか? ご主人様が寂しがられるでしょうね」
「あの社長が? まさか。あとで宿泊費を徴収される可能性はあるけど、寂しがるわけがない」
あの社長なら、恩は体で返せとか言いそうだ。
「だし巻き玉子でも作ろうかな」
「はい」
「お味噌汁も私が作っていい?」
「はい」
あんずさんと二人で仲良く料理をする。あんずさんはかなり個性的な女性だけど、仕事に徹していて、でしゃばらない性格だから、一緒にいてとても楽だ。
それに料理が美味しい。
一日食べないと、胃袋があんずさんの味を恋しがる。
社長があんずさんを採用した理由が、なんとなく理解出来る。
朝食をダイニングテーブルに配膳し、社長の起床を待つ。
不思議なんだ。
あの社長の無愛想で冷たい顔を見ないと、何故か朝からスッキリしない。
社長のマンションに居候し、店長とも個人的な付き合いはしていない。店長と密会すると、社長に気付かれそうで怖いから。
「ご主人様、おはようございます」
「社長おはようございます」
「おはよう。二日間有給休暇を取ったらしいな」
「はい。社長のご厚意に甘えてきましたが、新居を決めてくるつもりです」
「引っ越すのか」
「はい」
社長は味噌汁に口をつける。ちょっと不思議そうな顔をし、もう一口含む。
「あんず、味噌を変えたのか? いつもと少し味が違うな」
あんずさんは私をチラッと見て、笑みを浮かべた。
「お口に合いませんか?」
「いや、うまいよ」
社長の箸は、だし巻き玉子に伸びる。
一口食べて、再び不思議そうな顔をした。
「あんず、だしを変えたのか?」
「はい、多少。如何ですか?」
「いつものだし巻き玉子も美味いが、これも鰹節の風味がよくきいていて、甘すぎず美味いな」
「そうですか。ご主人様のお口に合いますなら、作り方を教わります」
「教わる? 誰に……?」
あんずさんが私を見つめて、ニコッと笑った。その視線に、社長が眉間にシワを寄せた。
「まさか、この料理は……君が」
「はい、褒めていただきありがとうございました」
「誰も褒めていない。悪くないと言ったまで。特別美味いと言ったわけではない」
そうだよね。
どうせ、私なんか。
家事も仕事も中途半端で女としても見られていないんだから。
あんずさんが私達の会話を聞き、クスリと笑う。
「あんず、味噌汁お代わり」
「はい、ご主人様」
文句を言いながら、汁椀を差し出す社長にちょっと嬉しかった。
社長とあんずさんと私。
不思議な関係だけど、当初のように居心地は悪くない。
食事のあと珈琲を飲みながら、社長が私を見つめた。
「ここよりいい物件がなければ、別に急いで引っ越さなくてもいい」
ここよりいい物件なんてあるはずがない。だってここは庶民の私にとって別世界なんだから。
「ありがとうございます。でもこれ以上お世話になるわけにはいきません。それに、これ以上お世話になると、必ず誰かに知られてしまうでしょう。良からぬ詮索をされ、社長にご迷惑を掛けてしまいます」
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