70
社長は私を一瞬見下ろす。私はバスタオルの胸元を両手で隠した。
社長の足音が、恐竜の足音のように床を鳴らす。
寄るな……。
触るな……。
近付くな……。
私に指一本でも触れたら、舌を噛みきって死んでやるんだから。
社長はそのままスッと出て行った。
えっ?
襲われてしまうと、身構えていた私。何もされなかったことに、拍子抜けした。
目の前には二日酔いの薬。
わざわざ私の様子を見に来てくれたの?
あの社長が薬を持って……?
少し苦い漢方薬を口に含み、一気に水で胃に流し込む。
「ふうぅーー……」
社長は悪人なのか、善人なのか、冷たいのか、優しいのか、さっぱりわからない人だ。
肉食獣が食べない私は雑草?
ドレッサーの前で髪を乾かせながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
◇
五月になり、早苗さんは殆ど銀座店に出社しなくなった。フラワーアレンジスクールの開校準備と、役員の仕事をこなし多忙を極めているようだ。
銀座店はフリーターを一人採用した。三つ
同じバイトでも凛子ちゃんのように、オンナのフェロモンを花の香りみたいに振り撒くタイプではなく、どちらかといえば早苗さんみたいにサバサバしたタイプ。
大雑把な性格で、繊細な花を取り扱うにはちょっと不向き。女だてらに木葉君よりも男らしい。
一人増えたことで、シフトが若干楽になり、久しぶりに二日間の有給休暇を貰えることになった。
休暇中に行きたい場所が二つある。
ひとつは不動産屋。
もうひとつは……実家だ。
葉子とのことが気になりながらも、新居が決まらず実家に帰ることが出来なかった。
「おはようございます。椿様」
「おはようございます」
私はいまだに社長のマンションで暮らしている。
一日も早く出て行きたかったが、都内で女性専用、オートロックマンションを探すことは、資金的にもかなり難しいと悟った。
それにこんな贅沢な待遇の居候をしていると、一DKが兎小屋みたいに小さく感じる。
このまま他人の財力の恩恵を受け、贅沢に溺れてしまうと、私はダメ人間になってしまう。
身分相応な暮らし。
オートロックマンションでなくても、女性専用でなくても、築年数が古くてボロアパートでも、雨露が凌げればいい。
それが今の私には相応しいのだから。
「あんずさん、今日と明日お休みなんだ。朝食手伝います」
「本当ですか? でもこれはわたくしの仕事です」
「あんずさんの仕事を奪ったりしないわ。久しぶりに料理したくなっただけ。もうすぐ一人暮らしをする予定だから、あんずさん簡単メニュー教えて下さい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます