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「母さん! 帰るぞ!」


「はい、今行くわ。華……今何処にいるの? 落ち着いたら電話しなさいね」


 母は兄のあとを追うように、エレベーターに乗り込む。


 私は踏みつけられ、無惨な姿になった花を抱え、病室の前で頭を下げた。


 病室から……。

 嗚咽が漏れた。

 葉子の嗚咽だった。


 ガチャンと大きな音がし、ガラスが割れた音がした。


 ナースステーションから看護師が数名飛び出し、葉子の病室に入る。


 ドアの隙間から、葉子と視線が重なった。


 葉子は泣き叫びながら暴れていた。看護師に押さえつけられ、葉子の腕に安定剤が注射された。


 葉子は暫くして、静かになった。葉子の目が私をとらえている。目から涙が零れ落ちて、葉子は瞼を閉じた。


 看護師が病室から出てきた。ドアがゆっくりと閉まる。看護師が私に視線を向けた。


「ご家族の方ですか?」


「はい」


「椿さんはまだ興奮状態で。不妊治療をしてやっと授かった赤ちゃんですから、無理もないのですが。数日前から流産の前兆もあり、自宅で安静にするようにと医師からも指示が出ていたようです。申し訳ありませんが、今夜はもう面会時間も過ぎましたし、お引き取りいただけますか?」


「義姉は不妊治療をしていたんですか?」


「はい。ご存知なかったのですか。……いけない、余計なことを。申し訳ありません」


「流産の前兆も?」


「時折お腹の痛みや張ることもあり、薬も処方されていたようです」


「……そうだったんですか。義姉のことを宜しくお願い致します」


「はい。失礼します」


 看護師はナースステーションに戻る。


 私は潰された花束を持ち、エレベーターに乗り込んだ。


 葉子が不妊治療を受けていたことは、正直ショックだった。待ち望んだ赤ちゃんを亡くした葉子……。


 私を見つめて流した涙は……。

 自己を責めて流した涙……。

 誰かを責めなければ、精神を保てなかったに違いない。


 病院を出て池袋に向かう。社長のマンションに戻らなければいけない理由なんてない。


 電車に揺られながら、どうして池袋に向かっているのか、自分でもわからない。


 ただ……。

 今夜は一人になることが怖かった。


 葉子の眼差しを思い出すと、胸が痛む。


 ――池袋のマンション、最上階のボタンを押す。エレベーターは静かに上昇する。


 ドアが開くと、そこにはメイドが立っていた。


「椿様、お帰りなさいませ」


「ただいま帰りました。すみません、私はただの居候なので、お出迎えは無用です」


「はい。それではご主人様に叱られてしまいます」


 アニメのキャラクターみたいに愛らしく、個性的なピンクのメイド服。社長の好みがわからない。


「椿様、お食事になさいますか?」

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