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 いつかこの家を出なければいけないことはわかっていた。


 でもこんな形で家を出たくはなかった。


 部屋に戻り、バッグの中に通帳や印鑑、貴重品を入れ、キャリーバッグに入るだけ衣類を押し込み、家を飛び出した。


 父は私を引き止めてはくれなかった。


 葉子の容態や赤ちゃんのことが気に掛かりながらも、私は兄夫婦に詫びることなく逃げるように家をあとにした。


 ◇


 カラカラとキャリーバッグを引き摺りながら、店長に電話をした。


 店長も自宅に帰っているはず。店長に話を聞いて欲しかった。相談に乗って欲しかった。


 でも……。


「店長……お話が……」


『おはようございます。どうしました? 何か仕事でトラブルでも?』

(あなた、ネクタイこれでいい?)


『どれでもいいよ』

(そう? やっぱりブルーかな?)


 電話越しに女性の穏やかな声がした。


 ……店長の奥様!?


『ごめん、ちょっと今取り込んでいて……』

(パパ、つぼみがこれがいいって)

(パパ、パパ)

(つぼみ、パパお仕事の電話だって。あっちに行こうね)

(はーーい)


 店長の奥様と愛娘の様子が受話器越しに感じ取れた。


 仲睦まじい夫婦の様子。

 正直、今は聞きたくなかった。


「すみません。気にしないで下さい。失礼します」


『すまない。じゃあ職場で』


 これが……。

 現実……?


 夫婦仲はうまくいっていないと、店長は私にそう言ったのに。とても冷えきった夫婦の会話とは思えなかった。


 私は……バカだね。騙されていたんだ。

 家を飛び出しても、行くところなんてない。


 涙が溢れ、これからのことを考えると途方に暮れた。


 歩道をとぼとぼ歩いていると、車道に車が停まった。見覚えのある黒のベンツ。スーッと後部座席の窓がおりた。


「仕事はどうした? 有給で旅行にでも行くのか」


「社長!? 何でもありません」


「何でもない者がキャリーバッグを持って歩くのか。家出少女という歳でもないだろうに」


 後部座席のドアが開き、社長が降りて来た。私のキャリーバッグをむんずと掴む。


「……社長」


 車の中に檀の姿はない。


「ここで偶然会ったのも、何かの縁だ。乗れ」


「それは……困ります」


「俺は君の雇い主だ。クビになりたくなければ、乗れ。森田もりたこの荷物をトランクへ」


「畏まりました」


 ベンツの運転手が、私のキャリーバッグをトランクに積み込む。


 社長に背中を押され、ベンツの後部座席に押し込められた。


 初めて乗るベンツ。

 身分不相応も甚だしい。


 私は慌てて涙を拭った。

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