エスの覚醒

天之奏唄

エスの覚醒

 重くゆったりと揺れる野太い波が全身を包み込み、ひんやりとした体温の中には細い弦を弾いたような鋭い痛みがある。

 エスは覚醒した。自分を覆う硬く分厚い岩石に頬を摺り寄せて、そこから伝わる微細な振動の心地よさに浸る。岩石の表面に一つだけ空いた小さな隙間を唇で包んで呼吸すると、吸い込んだ水と一緒に無数の光が紛れ込んできた。藍色の粒々が、岩石の外側に広がっているであろう圧倒的な闇の存在、その空間が持つどこまでも深い奥行きを示唆している。が、それを立証する術がない故に、粒々はエスの心から熱を奪っていくだけだった。

 それからの数千年間、エスは孤独に起因する恐怖に身を震わせて過ごした。ある時、定期的に弾かれる弦の振動が塞ぎ込むような感情を引き起こし始めているのに気が付いた。きっと潮の流れが運んでくる痛みのような感触と共鳴したのだろう。エスはこのような現象を「共感覚」と呼び、その後さらに数百年かけて、他にも色々な物事に対して理性的に分析する能力を獲得した。

 時の連続体の一部に、エスは初めて他の存在者と出会った。外見はエスとは大きく異なっていた。空間を制御する為の器官が、滑らかに膨らんだ胴体の表面に何枚か対になって付いている。胴体内部には一定のリズムで膨張と収縮を繰り返す内臓が詰まっているのが透けて見え、大変興味深かった。岩石の隙間から現れたそいつは随分と小さかったが、自分よりもずっと活発に活動する。それを見ているととても愉快な気分になって、負の共感覚は少しずつ薄れていった。エスは対話を試みたが、応答は得られなかった。しばらくして、存在者は動かなくなった。

 それからも幾らか存在者との出会いを経験した。多様な存在者のうち、形状は異なるものの最初に出会ったのと似た仕組みを持つものはアニ、その中でも、内臓を支える構造を持たないものはクヴァ、そもそもそれらとは全く異なる仕組みのものにはスィーと名前を付けて、多様な存在者を区別した。全ての存在者と対話を試みたが、どれも失敗に終わった。最後は皆、エスの目下で活動を停止した。

 ある時を境に存在者の訪れが稀になり、しばらくの間エスの孤独は続いた。弾かれた弦の鋭い痛みは次第に鈍痛へと変化し、気が付けば常に知覚している要素の一つとなった。冷たかった孤独も幾らか温まったように感じる。それは、存在者の訪れが岩石の外側に広がる奥行きの実在を示してくれたからだとエスは自己理解していた。岩石表面の微振動は、今では向かいから伸びる同胞と共振している。さながら深海の舞いだ。エスは賑やかになった岩石の殻の内側で複雑に揺らぎ、数千年にも及ぶ歌劇を繰り広げた!


 エスは興奮していた。幾世代にも及ぶ歌劇の最中、ようやく一人目の観客が姿を現したのだ! ちょうど歌劇がクライマックスに差し掛かる頃で、エスは激しい情熱にボクボクと泡を吐き出し、壁を叩き、砕けた岩石の粉を身に纏い、演出の一環で、かつて出会った存在者の真似を取り入れたりもしてみた。次から次に奇抜な演出をしてみせた。しかし、次の瞬間、エスは途端に演奏をやめてしまった。

「お見事です」

 それはエスにとって初めての言葉だった。厳密には、エスはこの時初めて言葉という概念に触れ、瞬時にそれを理解した。そして、目の前にいるのが久方ぶりに自分の元を訪れた存在者であることに気が付いた。

 歌劇の余韻はもはや失せ、エスの関心は唯だ目の前の存在者のみに注がれる。エスは存在者の真似をしていくつか意味のある波形を送り出し、それが相手に正しく吸収される実感を確かめた。

「あなたを何とお呼びしよう」

「エス。そちらは?」

「ヒューとお呼びください、エス」

「理解、ヒュー!」

 エスの挑戦はとうとう成功した! ヒューは非常に複雑且つ完成度の高い言語体系を獲得していて、自分よりも上位の存在であることは明らかだった。会話を終えるとヒューは隙間から出ていったが、それ以降も幾度となくエスの元を訪れた。

 ヒューは岩石の外側に広がる世界や、多様に進化した存在者のこと、他にも沢山のことを話し、エスは知覚プロセスが彼とは微妙に異なること発見した。また、岩石の外側に広がる世界よりもさらに外側の世界にまつわる話も聞いたが、それはエスには上手く想像できなかった。

「エス、あなたはアニ、クヴァ、スィーや他の存在者と比較しても特殊な存在です。私達は特別敏感海域を調査する中であなたを見つけました。思うにあなたはまだ自分自身を完成されていない。少なくともここに留まっている限りはこれ以上の進化はあり得ないでしょう。私達が手を貸しましょうか」

「完成?」

 隙間を指さしたヒューに聞き返すと、彼は続いて穴の中にぷーと水を吹いた。エスは潮の鎖が管状の隙間を通っていく感触を知覚する。

「行けば、分かります」

 ヒューは隙間へと消えた。「ヒュー!」そう叫ぶ声が彼を隙間の外へ押し出したようにも思える。さっき感じた鎖を自分自身で再現してみると、エスはみるみるうちに隙間へと吸い込まれた。「まさか、ここを通る日が来ようとは!」ヒューを後ろから呑み込むようにして褶曲した管の中を進んでいくと、突如、その先で鎖が粉々に砕けて消えた。エスは突然の刺激に怯み、壁を押して急激な摩擦によって静止する。

「波紋をご存じでないのですね。大丈夫です、あなたはもう隙間を突破しましたよ!」

 ヒューは再び泳ぎだしたがすぐに止まり、こちらに身を翻した。彼が背中に向かって何度も大きく腕を回し始めると、エスは自分の意志とは関係なく前方へと移動を始める。彼は自分を無理やり掻き出そうとしているのか? つまり、そこは出口なんだな!

「怖がることはありません、エス。あなたはこのほしでもっとも大きな存在者だ!」

 ヒューが最後の一掻きを終えた瞬間、エスの時間は極限まで停止に近づいた。世界にとっては刹那の現象に過ぎなかったが、次々に接続される潮の流れを介してエスの意識は海原を駆け巡り、あっという間に惑星全体を覆う意識網を確立させた。まるで巨大な蜘蛛の巣! エスは数万年の歴史の中で、今まさに誕生の瞬間を迎えたのだった!

 再び時間が流れ出し、エスはヒューの発言の意味をようやく理解した。隙間から飛び出した一部を起点に瓦解した鎖状の意識が、強烈な波紋となって超加速的に拡散され、自分自身を再構築する。彼の言った通り、アニ、クヴァ、スィー以外にも多様な存在者はいたが、今この時、全ての存在者は内在者へと上書きされた。ヒューの姿はもはや微小な点でしかない。

「これは何だ。もしや、まだここも内側なのか?」

 エスは外側に広がる、凹凸面に白い光の揺れる膜のようなものを見た。表面には銀色の粒が踊り、白く薄いカーテンが降りている。

「それはエス、私達が海面と呼ぶものです」

 海面は重く、息苦しい。エスの動きの大きさに比例してそれも激しく波打つが、膜は柔軟に結ばれていて決して破れることはない。前にヒューが話した、煌びやかな光で満ちた世界を想像すると、エスは、海面がまるで自分を閉じ込める壁のようだと感じた。クソ、また壁が現れやがった!

「エス、気を穏やかに! やりようによっては、あなたは自分自身で考えているよりも危険だ!」

「だとすればヒュー、お前は判断を誤った! 俺に干渉すべきではなかった!」

 エスはどうにかして壁を破壊しないと気が済まなくなっていた。「エス!」ヒューの忠告を無視して底まで潜ると、体全体に広がった意識を再びその場一点に集中させ、海面目掛けて勢いよく跳ね上がる。史上最大の威力を持つ局所的な湧昇流が発生し、周辺の海面は一度大きく陥没した。一瞬の静けさの後、深海から急上昇してきた塊が一気に膨張したことで海面は砕け、雲をも突き破るほどの水飛沫が上がった。爆音とともにヒューの体は宙に弾け飛ぶ。

 上空から海面に叩きつけられて絶命するヒューを見ながら、エスは憤っていた。

「何故だ!」

 海面を破る寸前、爆発の原因となった湧昇流の先端はエスを水中へと置き去り、エスは自分自身を閉じ込める忌々しい壁の圧迫感に身悶えすることとなった。もはやヒューの死に何の関心も示してはいない。もう一度、もう一度だ。エスは再び暗黒へと沈み込んでいき──おかしい、俺は吸い寄せられている!

 海面があちこち騒がしかった。再び全身に意識を巡らせた途端、エスは激しい痛みに襲われる。そして思い出した。海底の亀裂から滲みだす鋭い痛み、それは今に始まったことではなかったが、つい先ほど局所的に発生した史上最大規模の湧昇流による急激な水圧変化が海底を瓦解させ、その下で蠢いていた灼熱の痛みが噴き出したのだ。エスは沸騰して暴れ狂っていたが、次第に波の結合が破綻して粒子状に霧散すると、突然夢見心地に包まれた。

 真下には目を疑うような光景が広がっていた。広大で滑らかな凹凸面がゆっくりと流動し、時折、炎の柱が立つ。上空には何層にも重なる七色のカーテン。エスは、轟音と共に視界を切り裂く光の筋を眺めながら、ふと身体の感覚が消失したのを感じた。


 道中、激しく降り注ぐ光の雨に打たれ、他にも目に見えない何かと衝突しては熱を奪われた。やがてどれだけ摩耗したか考えるのもやめて、だんだんと広大な宇宙に溶けるように一体化していくと、辿り着いた世界の端には音も色も存在しなかった。

 だが、そこに彼らは居た。

「お見事です」

 エスを歓迎する彼らの手を取る。そっと目を瞑ると、瞼の裏には故郷を離れた日の景色が浮かぶ。あの日一つの光球が膨れ上がり、破裂の衝撃が皆を外側へ向けて弾き飛ばした。そして今を感じ、これが本来の姿なのだと、世界の美しさなのだと気が付いたとき、エスは数万年にも及ぶ生涯の幕を閉じる。それからずっと、彼らとともに後続者の居場所を守り続けた。

 その背後には永遠の暗黒が広がり、誰かが適当にぶちまけたみたいな砂粒が冷たく輝いている。

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