第百十二討 雨垂水玉姫
異界帝都、西方。
隆々と流れる大河は異界にあっても変わらない。しかし青白の世界にあっては清き水は黒く見え、本来は見えるはずの水底を望む事は不可能だ。ヨーコは水に乗って流れゆく小さな鴨のような幻魔を見付ける。ゆらゆらと気ままに漂い流れるそれ目で追っていると、水中から現れた鯉の幻魔に一呑みにされてしまった。
「あー……」
異界で見付けた無害そうな者が水中へと消えていく様の無情さに、彼女は何とも言えない声を漏らした。
今日の異界は霧のような雨が降っていた。傘が必要な程の強さではないとはいえ、少し遠くを見ようとすると元より暗い世界であるために視界が悪い。
川の全域にヱレキテルの乱れがある状況だ。何時、何処から、何が飛んできてもおかしくはない。幻魔が襲ってきたならば反応が遅れる可能性もあり、ヨーコ達は周囲を警戒しながら木造の橋を渡っていく。
空に架かる虹の様に湾曲した形の橋は、その欄干が朱で塗られている。他の四つの橋と比べると架けられてからの歴史は長く、都と共に在り続けた、川を渡る道である。
一歩一歩進むごとに木々が軋んでギッと音がする。元界の橋は常に手入れがされていて綺麗であるが異界のそれは何処か古ぼけていて、欄干の朱は色褪せており、一部は酷く破損している。
霧雨の中で年月を経て劣化した橋を歩く。下手な肝試しよりもずっと恐ろしい。
さあさあと僅かな風に流されながら降る水の粒以外に、世界に音は無い。
暗く、静かで、そして物悲しい。ヨーコ達はその只中を進んでいく。
「なんていうか、寒々しいね」
「うう、何か出てきそうです……」
「何か、ってなに?」
アカリの言葉にサラが首を傾げる。
「それはその、お、お化け、とか」
「ひゅ~どろどろ、うらめしや~?」
手を前に柳の葉の様に下げて、サラはジリジリとアカリに接近していく。少し怖がりながら彼女は後退し、その分だけ幽霊役は迫る。
「はい、そこまでー。もー、無駄に怖がらせないの」
ヨーコはサラの首根っこを捕まえて引き戻した。
「というか私達、もっと危険な幻魔相手にしてるんだから幽霊とか今更だと思うんだけど……」
「そ、それはそうですけど……そうじゃないんですっ」
「そういうものかなー?」
「そういうものですよー!」
既に異界に染まり切っているヨーコは、お化けなど恐れはしない。しかしアカリは、不可視で触れも倒せもしない相手はまだまだ怖いようだ。
「ん……?」
そんな二人の事をサラが怪訝な表情を浮かべながら見る。
「サラ、なにその顔」
「んー、ねえねえ」
「お姉さま、何か?」
「うしろうしろ」
「そういうの止めろって言ったでしょーが。まだやるかっ」
「ちがうちがう」
ヨーコに叱られるも、彼女はふるふると首を横に振った。
「何が違うんですか?」
「浮かんでる」
「えっ、浮かんでるって……」
サラが指した自身の後ろ。アカリは彼女の指に促されて振り返る。
「ひっ!?」
霧雨の中に浮かぶ、ぼんやりと青く光るこぶし大の玉が五つ。微細な雨粒を受けて、それはゆらりゆらりと形を揺らがせる。燃えてはいないものの、その姿はまるで人魂のようだ。
「わっ、わわわっ、わぁ……っ」
アカリは身を震わせる。
「何かは分からないけど、すっごい嫌な予感が……」
今まで危険に遭遇し続けてきたヨーコの危機察知
水の色をした玉が、一際大きくその形を歪ませる。
「ッ!危ないッ!」
ヨーコは咄嗟にアカリの腕を引いた。
「きゃっ!?」
何かが彼女の頬を掠り、通り過ぎる。ほんの僅かに痛みを覚えたアカリは自身の頬に手をやるとジワリと血が滲んでいた。彼女を傷付けた事に怒り、サラが跳ぶ。
「やっ!」
彼女は水の玉へと一瞬で接近し、その中心を細剣で打ち貫いた。五つあった青い玉の一つが風船が弾けるようにパンと爆ぜ、バタタッと水滴が橋板に落ちて水溜まりを作る。
だがその水は木製の橋板に滲みて吸い込まれる事無く、水玉の質量を保ったままでそこに残留する。ただの水ではない、サラがそう気付いたとほぼ同時にザバッと水溜りが動く。
そしてそれは矢のように、獲物に向かって勢いよく飛んだ。
「がふ……ッ!」
腹に直撃を喰らったサラは水の矢に身体をくの字に曲げられる。
「サラっ!アカリちゃん、サラを!」
「はいっ!」
ヨーコが駆け出し、サラを庇う形で水の玉の前に立ちはだかる。アカリはサラに手を貸して立ち上がらせ、いつでも回避行動が起こせるように身構えた。スゥと軽く息を吸い、そして止める。刀を握る手に力を籠め、何者かも不明な水の玉に意識を集中させる。
滞空する五つの青玉は、思考しているのかいないのか、ふよふよと形を揺らめかせるだけだ。
「ハッ!」
一歩踏み込み、斬りかかる。威力よりも素早さを重視した袈裟斬りは、的確に水の玉の一つを切り裂いた。続いて逆袈裟、二つ目の玉を両断する。サラたちを逃がすためにあえて水の玉に攻撃を仕掛け、幻魔かどうかも分からないそれの注意をヨーコは自身に引きつけたのだ。
残る水の玉がザパッと波立つ。
水の矢が三つ、放たれた。
「ふぅ……ッ」
刀を正眼に構えて息を吐く。強く強く集中した彼女は、飛び来る矢に意識を集中させる。
一つ、二つ、三つ。
剣の腹で矢を撫でるようにして、その軌道をほんの僅かに自身から逸らす。必要最小限の動きによって動かされた三つの水の矢は、彼女の服の端を掠めて通り抜けた。
彼女が故郷で習った剣術、刃を使った防御法だ。合戦場における
「シッ!」
回避の次は攻撃。刀にヱレキテルを纏わせ、振り返ると同時に逆袈裟に刃を振り抜く。斬撃が翼を持って、燕が如くに空を飛ぶ。
白き飛燕は三つの玉を呑み込み、それを微塵に吹き飛ばした。
だがしかし、敵対する水はまだ存在する。
彼女の足元に残る二つの水溜りが波立つ。
が、矢が放たれるよりも早く、二つの煌めきがそれに突き刺さった。同時に小さな爆発が生じる。そこにあった水は飛沫となって散り、火に炙られて蒸発して消えた。
「アカリちゃん、お見事!」
「早撃ちの
ふう、と安堵のため息を吐き、アカリは構えていた小銃を下ろす。
「むー、私は活躍出来なかった……」
「私の為に怒ってくれたじゃないですか、お姉さま」
「そうだよ、えらいえらい」
ヨーコに頭を撫でられて、サラは少しだけ機嫌を直した。
「ほほぅ、人間風情が中々やるようじゃの」
「「「!」」」
幻魔しかいない異界に声が、ヨーコ達以外の声が響く。
橋の中程、その空中に大きな水の玉が生じる。
球の中で水が渦巻き、青だけだった色が虹に変わってパチンと弾けた。
そこには人がいた。
幻魔の様に不可思議な存在ではない、人間だ。
ヨーコよりも五つは下と見える年の少女。青の着物に身を包み、赤い鼻緒の下駄を履いた少しばかり前時代的な格好だ。
だが彼女は人ではない。
当然だ、異界に人間などヨーコ達以外にはいないのだから。
となれば、彼女を表す言葉など一つしか存在しない。
「幻魔……っ」
ヨーコの言葉を耳にして、青着物の少女の眉がピクリと動く。
「何を言うておる。
「か、神様!?」
アカリが驚き、構えていた小銃を下ろす。その様が喜ばしいのか、神と称した者はその口元に笑みを浮かべる。
「ありがたく、なさそう」
「んなっ!?崇めよ、奉れ、罰を下すぞ!」
「…………」
サラは黙った。自身を恐れて閉口したと考えた神なる少女は、満足そうにしている。
が。
「異界に神様、いない。全部、ぜーんぶ、幻魔。だからあなたも幻魔」
「なんじゃと!?この不信心な娘め!」
「ちょ、サラ!ごめんなさい、神様!この子、こんな感じの子なのでご容赦をっ」
「頭を下げた程度で許すと思うてか!もう我慢ならん、罰を下そうぞ!」
「あわわっ、どうすればっ!?」
神の罰を恐れてアカリが狼狽える。どうしようもないと判断したヨーコは刀を構え、この状況を作り出したサラは変わらぬ調子で神少女を見ている。
「ちょっと貴女たち、もう神様とは知り合いでしょうが」
彼女達の背後から呆れた様子で、ヨーコ達が良く知る神が姿を現した。
「あ、ユウコ」
「そういえば、神様」
「そういえばって何よ。本当に不信心娘ねぇ、貴女は」
「皆さんっ、話してる場合じゃないですって!!」
青着物の少女は天に向かって片手を掲げていた。宙に巨大な、先程の玉とは比べ物にならない程の水玉が生じる。轟々と音を立てて、青き球は波を立てる。渦巻く水の力は渦を成し、巻き込まれたならば人体など折られ捻じられ滅茶苦茶になってしまうだろう。
「ねえ、貴女は神様なのよね」
「む、なんじゃ、今更。赦しを乞うても無駄じゃぞ!」
「この期に及んでそんな事しないわよ。それより、冥土の土産にお名前教えてくれないかしら?」
「おお、そうか、そうじゃな。己を殺す者の名も知らずに黄泉へと向かうのは不憫というものじゃ。特別に教えてやる、感謝するのじゃぞ!」
この場で一番格上と思われる者は胸を張る。
「
「なるほどね……」
青着物の少女、雨垂水玉姫は生じさせていた巨大な水の玉を投げ落とす。津波の様に破壊の剛声を響かせるそれは、慌てるヨーコ達へとゆっくりと落下する。
「
ユウコの声と共に、虚空より生じた強烈な輝きが水玉と衝突した。一瞬で沸騰させられた大量の水は膨張し、ドバンと猛烈な爆発を引き起こす。
「なにぃっ!?」
渾身の術法を防がれるどころか相殺されて、神なる少女は驚愕する。水煙が周囲を包み込み、視界全てが真っ白に染まった。
「な、むがっ!?」
煙の中から高速で現れた何かが雨垂水玉姫の体をグルグル巻きにし、その口を塞ぐ。ジタバタと藻掻くものの彼女は空中に浮かんでいられなくなり、橋の上にドスンと堕ちた。
「ねぇ、貴女」
「むぐぐ、ぶはっ!なんじゃ、貴様は!神に対してこの仕打ち、必ずやその身に罰が……くだ……、るぉ?」
青着物の少女が見上げた先に、神がいた。
「お名前、もう一度聞かせてくれるかしら?」
「わ、
優美な瑞穂着物に輝く羽衣、それはその神が高貴なるを示すものだ。
「い、いえ、
「ふふふ、ありがと。ああ、名乗っていなかったわね。私は
ビクンと簀巻きにされている少女が身を跳ねさせた。続いてガタガタと震え出し、その顔が真っ青になっていく。
「あ、あ、あわっ!た、尊き日の神、
「あらあら、やぁねぇ。私を何だと思ってるのかしら、酷い事なんてしないわよ」
頬に手を当て、ユウコはわざとらしく言った。
「あー……。ユウコ、どういう事か説明よろしく」
「んなっ、貴様っ!無礼な娘め!この御方をどなたと―――」
「私の親友に何か?」
「何もっ、何もありませぬっ!」
羽衣に巻かれたまま勢いよく頭を下げた少女は、ガンッと橋板に頭突きした。
くすりと笑った後にユウコは親友であるヨーコの問いに答える。
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