第6話「大切な人」

 病室の廊下、外は予想外の豪雨。ほんの少しだけ開いている窓から激しい雨音が聞こえる。

 私の心の中にも雲がかかっている。

 柊さんが倒れてから、私はもちろんパニックになったが、ナースコールボタンを押す判断が出来たのは偉いと思う。

 そして看護師さんが来てから説明をしようとしたが、説明する前にすぐ医者の方が来た。


 柊さんは滅多にナースコールをしないらしい。そのためここの病室のナースコールボタンが押された場合は緊急時が多いと捉えていると柊さんをよく担当している30代後半くらいの看護師さんから聞く。


「多分優くんはね、誰かに迷惑をかけたくないんだと思うの。ほら、優くんって親が忙しいって事もあって一人が多いでしょう?人の頼り方とか、甘え方がわからないっていうのもあるかもしれないねぇ...」


 看護師さんは思い出しながら切なさを紛らわせようとするような笑顔を見せて言う。

 やっぱり柊さんは優しすぎたんだ。


「柊さんは私の事、なにか言ってましたか?」

 私はなんとなく気になって聞いてみる。


「詳しいことはあまり聞かなかったけど、『僕のいちばん大切な人』とだけは何度も言ってたわよ。」


 なんとなく、やっぱり私は彼女なんだということを実感する。疑っていたわけではないんだけどね。


 看護師さんと話していると、お母さんが小走りでこちらに向かってくる。


「優くんが倒れたんだって?ホント何回目なのよ、無茶しちゃって…」


 お母さんは汗なのか、豪雨で濡れたのかわからない水滴を拭ってそう言う。長く走ってきたようでとても疲れていたため、私は広く座っていた長椅子の端に移動する。

 お母さんは「ありがとう」と言ってから座った。


 10分くらい無言の間が続いた。気まずかったわけでも、話しづらかったわけでもない。ただひたすらに、結果を待っているだけだ。


 柊さんの病室から出てきた医者を目の前に、お母さんは勢いよく立ち上がり、「どうでしたか?」と少し大きな声で聞く。

 医者は何秒か申し訳無さそうな顔をして沈黙してから答える。


「結論から言うと、助かりません。本当にすみません。病気が急激に悪化していて、もう手遅れな状態まで来てしまっています。意識もどんどん遠のいて行っています。今のうちに言いたいことがある場合は言ったほうがいいと思われます。」


 その言葉を聞いて私達は衝撃を受ける。私は母に連れられてすぐに病室の中に入る。


 病室には、夕焼けを背景に安らかな顔で眠る柊さんがいた。

 私は彼の頬に手を当てる。


「冷たい。」


 お母さんも手を握って確認する。


「本当だ。冷たい。」


 お母さんの瞳には、抑えきれていない涙が一粒、二粒と流れていく。


「ねぇ優くん。聞こえてる?」


 お母さんは震えた声で話を続ける。


「私は、本当に自分の子のように大切にしてきたよ。優くんも頑張ったんだよね。でも無理し過ぎちゃだめって言ったよねぇ…?」


 涙はどんどん淦れてきて、お母さんは優くんの手を握ったまま、崩れるように地面に座り込む。


 私も柊さんに最後となる言葉を言おうとした。でも言葉はの途中で止まり、私は振り返って病室の出口の方へ行く。


「ちょっと!どこ行くの!?優くんの最後なんだよ?」


 母の引き止めようとする言葉を聞くが、


「…ごめん。」


 と涙をながしながら言い、私は病室を出る。

 自分でも何をしようとしたいのかわからない。でも、今の私が柊さんの最後を見送るべきではない気がした。記憶喪失で、何も知らなかった私の無力さを憎らしいほどに実感する。

 思い出そうとしても、思い出したくても、少しも思い出せない。

 私はそんな自己嫌悪感におちいりながら走った。ただひたすらに走って、自分の病室につく。


 私は沢山の紙と一つのペンを用意してベッドに設置されている机に軽く投げるように置き、ベッドに座り込んで「柊優」と名前を書く。何枚も名前を書いて、今日話してもらったことを思い出しながら書き続ける。


『柊優』

『私の恋人』

『世界でいちばん大切な人』

『柊さん』

「すごく優しい人』

『かっこいいけどかわいい』

『柊優』

『柊優』

『大切な人』

『ずっと覚えてなきゃいけない人』

『絶対に忘れてはいけない人!』


 そう、絶対に忘れてはいけない人。絶対に忘れてはいけない、私は何度もその言葉を発す

 記憶喪失だからとか関係ない。私はこの人を忘れてはいけない。たとえ誰もが忘れようとも、私だけでも覚えていないといけない。

 私はあなたにとても大切にされた。だからこそ、私もこれから大切にしないといけないんだ。たとえいなくなっても、ずっと。

 書きながら何回も記憶を蘇らせようとする。でもどう頑張っても失敗し続ける。頭をがむしゃらに掻いてボサボサになる。泣いても泣いても涙がこぼれてくる。まるで外の豪雨のように。紙はどんどん濡れていき、

 それでも私は言い続ける。何度も、何度も書き続ける。絶対に忘れてはいけない人。絶対に覚えてないといけない人。絶対に、絶対に


「絶対に、忘れてはいけない人。」

 

 私は気がつくと眠りについていた。目が覚めると部屋は少し散らかっていて、机には10枚程度の紙が不規則に置いてある。一番手前には大きく「柊優ひいらぎゆう」とふりがなをつけて書いてあり、他の紙には終優に関したびっしりと書かれている。絶対に忘れてはいけない人、私の恋人、すごく優しい、世界でいちばん大切な人。


「柊、さん…」


 私は少し目を見開いて言う。


「....って誰...?」


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