第4話「日記帳」

 あれから、優くんと莉菜は毎日喋った。彼の机には、毎回沢山の単語や文が書かれている紙が置いてある。


「今日は付き合ってたときのエピソードについて話した」

「莉菜  明日誕生日」


 優くんはとても優しい子。莉菜には特に優しくて、莉菜の母としてはとても嬉しい限りだ。

 莉菜は記憶喪失で知らないだろうけど、優くんは毎日その日莉菜に言ったことをメモして、なるべく今まで言ったことを次の日にも伝えられるように簡単な文にまとめていることを私は知っている。


 優くんは生まれてすぐに母が亡くなり、父は忙しいこともありなかなかお見舞いに来てくれないため、一人なことが多かった。

 優くんの父は戦場カメラマンだ。様々な地域の写真を撮っている。

 でも実の子供をほったらかしにするのは少し腹が立つ。薄情な親なのだろう。


 あの子は必死に病気と戦って、苦しみながらも頑張っている。そのためにも、私が莉菜と一緒にあの子を大切にしないと、そんな母性が私の中にはあった。

 今日も莉菜を朝早くに起こす。


「ん、おはようお母さん。」

「おはよう。莉菜。」


 朝になると毎回記憶がリセットされているため、早めに莉菜を起こして色々説明しなければいけない。


「起きてすぐに悪いけど、あなたは記憶喪失になったのよ、事故で。

「なにそれ。そんなわけないじゃん。」


 昨日と同じように、莉菜は着替えながらそういう。


「じゃあ莉菜は昨日何したのよ。」

「....何も覚えてない。」


 莉菜はなんとか思い出そうとしているが、結局思い出せなくて諦める。


「だから言ったでしょ。記憶喪失だって。」

 私は仕事の準備をしながら続けて話す。


「今日もあなたをよく知ってる人と会いに行くのよ。」

「なにそれ、どんな人?」

「とても優しい人よ。」

「そうなんだ。」


 相変わらず莉菜は淡々としていて、昔の元気なときの莉菜はとっくに消えてしまったようだ。


「仕事の準備はできた?もう行く?」


 莉菜は静かに右手で髪をいじりながら待っている。


「その前に、莉菜に渡したいものがあるの。」

「なに?」


 私は仕事用のパッグから手帳を取り出し、莉菜に渡す。

 莉菜は黄土色と茶色を使った布製のカバーをまじまじと見ながら言う。


「なにこれ?綺麗だけど新品?」

「そうよ。これはあなたの手帳。お母さんも同じメーカーの手帳使ってるの。これ使いやすいのよ。結構高いけど...」

「何を書けばいいの?」


 莉菜は目線を手帳から私に移して問う。

 私は莉菜の左頬に手を当て、その手を頭まで持ってきて頭を撫でる。


「あなたが思ったことをそのままそこに書くの。そしてここに書いてある言葉は信じてあげなさい。」


 莉菜は全く表情を変えない。ただ私の撫でる手に反応して、目を閉じたり開けたりしているだけ。


「ありがとう。大切にする。」


 莉菜は少しだけ口角を上げてそう言う。


「うん。」


 久しぶりの表情な気がして、私も少し嬉しくなる。

 でも..


「…そういえばさ、なんて莉菜は私のことは知ってるの?」


 今まで言わずに心にとどめておいた疑問を少し勇気を出して言ってみる。

 返ってきたのは、


「お母さんはお母さんだよ。それ以外何もわからないけど、それだけはなんとなくわかる。」


 というなんとも曖昧な言葉だった。

 嬉しい。母親としてはとても嬉しい言葉なんだけどねぇ…


「なんで私なのよ…」


 私は吐息混じりの静かな、悲しい声でそう呟く。


「なんか言った?」


 莉菜は少し首を傾げながら聞く。

 私は溢れてきそうな涙を手でぬぐい、悲しさや切なさを押し殺した笑顔で答える。


「ううん。なんでもない。じゃあ行こっか。」


『記憶」というものは残酷だ。どれだけ楽しいことだって、どれだけ苦しい出来事だって、時間が経てば忘れ去られてしまう。それが早いか遅いかの違いだけで、忘れ去ってしまう量が多いか少ないかだけで、どれだけ違うのか、私はとても実感した。


 ──これだけで終わるはずもなく、ね。

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